第一話 武松の人喰い虎退治
山はまだ薄明の中に沈んでいた。
景陽岡の茶店には、湿った夜気と噂だけが重たく溜まっている。
「この先の山には虎が出る。官府ですら手を焼いている、人喰い虎だ」
「襲われて、戻らなかった者もいるらしい」
「だから行くな。絶対にだ」
旅人たちの声は、まるで自分に言い聞かせる呪いのように低かった。
その隅で、ひとり酒をあおる男がいた。
武松である。
杯を置くと、彼はふっと笑った。
「今日はさんざんだ。……虎に襲われた。」
一瞬、店の空気が止まる。
誰かが喉を鳴らした。
店主が慌てて問い返す。
「……虎に、襲われたと?」
武松は盃を軽く回しながら、まるで雑談でもするように言った。
「冗談じゃない。本当に出た。しかも、目の前にな」
ざわめきが一気に広がる。
店主が慌てて聞く
「で、その虎は……どうなったんで?」
武松は盃を置いた。
音がやけに乾いて響く。
「殴り倒した」
一拍の沈黙のあと、誰かが笑いかけて、すぐに引っ込めた。
笑えない、と理解したからだ。
「まさか……あの人喰い虎を?」
武松は肩をすくめる。
「信じられんなら、見に行けばいい。そこに転がってる」
その言葉で、空気が変わった。
「確かめるしかあるまい」
旅人の誰かが立ち上がる。
止める声は店主の悲鳴に近かった。
「やめなされ! 今から山へなど――! 急いで確認しに行くような場所ではない!」
だが足は止まらない。
恐怖よりも、確かめたい欲のほうが勝っていた。
――そして山へ入った。
夜気が濃くなるにつれ、山は音を失っていく。
風が止み、虫の声さえ消えた。
その静寂を裂くように、巨大な虎が現れた。
咆哮。爪。牙。
だが、誰も叫ばなかった。
叫ぶ前に、そこに“違和感”があった。
動きが、来ない。
攻撃が、続かない。
そして気づく。
「……これ」
誰かが喉の奥で言葉を落とす。
「動いてないぞ」
恐る恐る近づいた者が、息を呑む。
「……死んでる これ死んでるぞ……。」
山の奥から戻ってきた者たちは、誰も言葉を持っていなかった。
顔は土のように白い。
「……いた」
ようやく絞り出した声だった。
「虎の死体が……本当に、あった」
ざわめきが遅れて追いかけてくる。
「人を喰い続けていた、あの化け物だぞ……それを……素手で…」
言葉はそこで途切れた。
その傍らで、武松はただ一言だけ言った。
「確かめたか。……なら、もう冗談でないとわかっただろう」




