ラビ
サハラ地方の移動都市、その名も盗人の街。その中の闘技場で剣闘士として見世物になっている奴隷の男がいた。戦いを生き残り剣闘王と呼ばれる剣闘士のトップになれば自由が与えられると言われて来た。彼はランキングを争うその戦いに参戦していたが、ある日闘技場ではない別の場所に連れて行かれる。目隠しをされ手足は鉄の枷で拘束されていた。長い間馬に乗って移動していた記憶はある。時折水と乾いた食料を与えられた。色々な街も村も通過したのは周囲の物音で分かった。体感では三十日くらい経った頃、大きな街に入り、石造りの大きな建物の中に連れて行かれた。廊下からどこか部屋に入って、そこから何を聞いて何を見たのか、記憶は曖昧だった。気付くと闘技場横のいつもの部屋に寝ていた。土壁の室内は見慣れた物だったが、身体は違った。手には、いや、全身には白い毛が生えていた。最初は身体に付着しているだけで触れれば取れるのかと思っていたが、その白い毛は引っ張っても皮膚が痛いだけで取れない。本当に皮膚から生えているのだ。全身を顔を触ってみて、彼は愕然とした。頭には頭髪ではなく、腕に生えているのと同じ感触の短い毛が生えていた。そして頭頂部に近い位置に毛に覆われた物体が二本刺さっている。いや、頭から生えていたのだ。それが新たな耳だと気付くのに時間がかかった。顔はもう人間の物ではなかった。凹凸から見て化け物のような顔だろうと思った。長い髭も顔から生えている。引っ張ると痛いので、抜こうとするのはやめた。
数日が経ち、周囲の反応も含めた判断が出来た。獣人のような見た目になってしまったらしい。白兎の獣人になっていた。皆自分を以前の名では呼ばなかった。別人だと思われているらしいと知った。兎なのでラビットと簡易的に名付けられ、後に短くなってラビが彼の通り名となった。兎の身体は驚異的な跳躍力を有していた。彼はその身体能力を使い、次々と敵を撃破していった。
勝利を重ねる事で時折ご褒美のような物が給付される。運営側が儲かったので気前が良くなっているのだろう。ご褒美としてステーキを食べたとか新しい衣服を貰ったとか言う話を聞いた事があった。
ラビは寝床になっている土壁の狭い部屋の中で、麻袋を下にして横になっていた。手足には枷がはめられている。外を強い風が吹き渡るだけの、特に変わった事もない夜だった。二人の人間が壁の外を歩く足音がしてラビは目を開けた。見れば夜も明けぬ夜中だ。まだ室内は真っ暗だった。誰だろうと訝しんでいると、自分の部屋の鉄柵の前に監視役の男が現れ足を止める。ラビは麻袋の上に身を起こした。
「助かったぜ。他の女は皆嫌がってさ」
監視役の男は背後の誰かに言っている。薄ら笑いと共に発された言葉は下卑た嫌らしいもので、ラビはその言葉に悪意を聞き取っていた。灰色のターバンを巻いたその男は部屋の中に視線を寄越し、ラビを見つけるとにやりと笑った。気持ちの良い笑顔ではなかった。ターバンの男は鉄柵にかけられた錠前に鍵を差し込む。鉄柵が開かれるとターバンの男は横にその身を避けた。麻の単衣を着た女が現れる。その手足には鉄の枷が付けられている。ターバンの男に手の連結だけを解いて貰うと、女はラビのいる室内に入って来た。女の背後でガシャンと鉄柵が閉じられる。
「楽しめよ」
ターバンの男は相変わらずのにやにや笑いを顔に貼り付けたまま言った。ラビは男の顔を睨みつけたままだった。変な引き笑いを残して監視役の男は消えた。
金髪を短く刈り込んだその女の名はファンティーと言った。ラビが獣人化する前から知る、言うなれば剣闘士仲間だった。何度も一緒に死線をくぐり抜けてきた仲であった。ただラビが今の身体になってからは、以前の知り合いからは距離を置かれていた。以前の彼とは別人だと思われ、ラビ自身も同一人物だとは言わないままにしておいた。自分自身が認めたくなかったのだと思う。まだ以前とは別人になったと思った方が現状を受け入れやすかったのだろう。なのでその女、ファンティーとは今では赤の他人同然だった。
ファンティーは部屋の中程に立っていた。手持ち無沙汰らしく足をすり合わせたりしている。ラビは座る場所さえない状況に気付き、少し横に移動して麻布の上に座れるスペースを作った。ファンティーはラビの横に腰を下ろした。風が吹き渡る音だけが支配する時間が続いた。このまま朝になるのかとラビは思い始めていた。
「ジョックス」
突如ファンティーはその名を口に出した。
「ジョックス。そうでしょう」
ラビは首を回し横に座る女を見た。眼光鋭い榛色の瞳に一瞬で射貫かれる。
「違う。人違いをしている」
ラビは言い、また正面に向き直った。声も以前と同じではなくなっていた。少しキーが上がった声質に変化していた。だから誰も気付くはずがないと思っていた。
「いえ。貴方はジョックス。他の人は分からなくてもわたしには分かる。どうして他人の振りをするの?」
「言ってるだろう。勘違いだ」
ラビは頑なに否定した。彼女との友情めいたものを取り戻す事で、何とか保っている精神の牙城が崩れ始めるのではないかと恐れていたのかも知れない。変わり果てた今の自分が以前と同一人物だなどと、誰にも思って欲しくなかったのだろう。
「貴方は前に棗椰子を分けてくれた。自分の分だって三個しかなかったのに。覚えている?あの体の大きいリトルボスに全部奪われて、私は泣いていた。あの時、私に棗椰子を分けてくれたのは貴方だけ。他の人は皆見て見ぬ振り。そりゃそうよね。自分の分を確保して食べるのに必死だもの。食べられなきゃ餓死するだけ。自分が大事。皆そうよ。でも貴方は違った。弱い人間を見捨てなかった。今でもずっと私は忘れていない」
「ファンティー、やめろ」
「大蛇に飲み込まれて、もう少しで窒息死する所だった時も、助けてくれたのは貴方。貴方が大蛇を殺し、腹を割いて私を助け出してくれた」
ファンティーは喋り続けていたが、ラビはもう彼女の方を見る事は出来なくなっていた。
「トランの泉を覚えている?あんなに水のある場所に行ったのは初めてだった。皆はしゃいでて、気難し屋はいなかったから自由に水浴び出来た。あの怒りん坊が戻って来た時、ほとんど皆裸だったのよ。彼の姿を見て皆が大慌てで服を着たり水から上がったり。お祭り騒ぎの熱に浮かされていたのに急速に冷めちゃった。馬鹿みたいだけど楽しかった。貴方も楽しんでいた。そうでしょ?」
ラビはもう返事を拒絶していたからファンティーは一人で喋り続けた。ファンティーの一人語りは暫く続く。
「お願いよ、ジョックス。戻って来たと言って」
ファンティーに腕を掴まれ揺すられた。
「違う。もう違うんだ」
ファンティーに揺すられながらラビは呻くように言った。
「私は貴方が、貴方の事が…」
ファンティーが何かを口にしかけた時、鉄柵の向こうに灰色のターバンを巻いた男が姿を現した。
「何だ?好みじゃなかったか?兎も相手を選ぶんだな」
言って男は下卑た笑い声を上げる。
「どうする?お前の相手をしてくれる女なんか金輪際現れやしないぞ。その女で充分だろう」
男はそう言ってにやにや笑いながらラビの方を見る。
「この女を連れて出て行け。明日の試合に勝たせたいならもう寝かせてくれ。睡眠不足じゃ闘えない」
ラビは吐き捨てるように言い、それを聞いた監視役の男は肩をすくめて見せた。
「出ろ」
そう言って、ファンティーに向かって顎をしゃくる。ファンティーは名残り惜しそうにラビを見つめていたが、やがて立ち上がって部屋を出て行った。
ガシャンと鉄柵が閉められ施錠された。二人の足音は遠ざかって行った。ラビは立てた膝の間に顔を埋め背を丸める。このまま戦って戦って生き残って、こんな所出て行ってやる。過去ともジョックスともおさらばして、ラビとして生きるんだ。もう過去には戻らない。戻れない。真っ白な体毛が生えたあの日から、自分は変わってしまった。それならばこの体を利用して生きよう。人間より発達した身体能力が自由への鍵となってくれるはずだ。闇夜に一人丸まりながらラビは固く瞼を閉じていた。
いつの間にか眠っていたらしく、気付くと朝になっていた。周囲の物音も騒がしいものになっていた。監視人が鉄柵に金属の棒を押し当てて歩き回る。騒々しい音が響き渡って「うるせえなあ」と隣の部屋から男の声が聞こえた。鉄輪と鉄の鎖がぶつかる金属音も聞こえるので、隣人の男は起き上がったようだ。
「出ろ。うすのろども。今日も楽しい稽古の時間だ」
監視人の歌うような節回しのがなり声が響いてきた。ラビは立ち上がった。歩くと鉄の鎖がシャガシャガと鳴る。生きる為の闘いが今日も始まっていた。
戦いの中で片耳は失われた。身体中に傷も増えていった。獣人のラビは剣闘士のトップに君臨し、報奨として自由を得た。奴隷からの解放であった。
ラビは初めて手足に枷のない状態で街中を歩いた。この街でも獣人は珍しい存在なので、通りすがる人はじろじろ見てくるが、ラビはどこか誇らしい気分だった。手足に枷がないだけで、こんなにも心が軽くなるとは思わなかった。自由だ。どこに行って、何をしても良い。ラビは周囲を見渡し自由の空気を吸い込んだ。どこに行こう。何をしよう。見たい物はいっぱいあった。食べたい物も。
こうしてラビの足は世界へと踏み出したのであった。




