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ショーコとヨーコ

作者: 紙とペン
掲載日:2026/05/04

克己の理想とするところはエウテミア(euthymia=何ものにも動かされぬ内心の平安。「晴朗」「快活」「静穏」)の状態に到達するにある。

ー「武士道」解題p.278から一部省略して抜粋

 定刻通りに電車が停まった。硝子は電車から降りた。彼女はいつも同じ時間に登校し、毎日変わらない生活を送っていた。校舎の正門をくぐるとき、桜がやわらかな桃色を散らしているが、硝子の眼には映らない。美しいとは感じないのである。

 今日は硝子の通う私立高校の始業式であった。真っ白な学舎に入るための、ガラス張りの扉の側にはクラス表が掲げられていた。

 「山本硝子 二年二組」

 個性が消されたように印字されていた。

 硝子は教室に入り、自分の席に着くと読みかけの本を開いて、それを読んだ。彼女にとって読書をしている時間が一番心地よかった。

 本を読み始めてしばらくすると、右隣から声をかけられた。可愛らしく、高い声がかけられるまで、硝子は人が座っていることに気づいていなかった。

 「おはよう。」

 硝子は、

 「…おはよう。」

 と返事した。

 「あたし、間宮っていうの。名前はヨーコ。あなたは?」

 「…山本。」

 名前を訊きあうような形式的な会話を、硝子は嫌っていた。

 「名前は?下の名前。教えて?」

 「ショーコ。」

 本の続きが読みたい。硝子はそう思っていた。

 「ショーコってどういう字を書くの?」

 この質問はよくされる。質問される度に硝子は不愉快に思うのだった。

 「ガラスって書くの。」

 いつもそう応える。そしていつもこう続ける。

 「すぐに壊れそうで嫌でしょ。」

 すると周りの人たちはみな硝子のことを自分たちとは違った、近寄りがたい存在に思うのだった。しかし、右隣の席の女子はきょとんと不思議そうな顔だった。

 「ううん。ガラスって漢字はよくわからないけど、いい名前だと思うよ。」

 だからこの言葉に硝子は驚いた。

 「どうして。どうして『いい名前』だと思うの?」

 「いや、べつにそんな深い意味はないけど…。なんか苗字と名前の響きがきれいだなと思って。それに漢字も。ほら、あたしは太陽の『陽』に子どもの『子』って書いて『陽子』。よくある名前でしょ?苗字のことは仕方がないにしても『子』ってなんか・・・古いよね?」

 陽子は自嘲気味に笑った。

 「あなた、その漢字の意味は知っている?」

 「えっ、しらない。意味なんてあるのかなぁ?もしあるとしたらどういう意味だと思うの?」

 陽子の声は興味で弾んだように聞こえた。

 「『子』という字は『一』から『了』まで、つまり生まれてから死ぬまでを意味するわ。だから『陽子』は太陽のように周りの人に温かくて明るい光を与えられる人でありますようにって意味だと思うわ。」

 陽子は薄い桃色の唇の両端を持ち上げ、感激した。

 「へぇー、そうなんだぁ。生まれてから最期のときまで太陽のように明るくいられる人かぁ。ショーコは物知りなんだね。」

 硝子は細く綺麗に整った眉を一瞬八の字に曲げ、戸惑った顔を見せた。

 「別にそうでもないわ。何かの本で読んだだけ。本当にそういう意味があるかどうかは分からないわ。」

 「いいの。関係ないのそんなこと。」

 陽子は大きな円い瞳を輝かせて屈託なく笑った。

 「あたしね、今まで何回かきいたことあったの。自分の名前について。古いよね、なんでこんな名前付けられたんだろうって。でも真剣に応えてくれた人っていなかったんだよね。『気にするだけ時間の無駄だよ』とか『付けられた名前はしょーがないよ』とかなんとか言われただけ。でもショーコはちゃんと応えてくれた。それがうれしい。」

 陽子はくしゃくしゃとした笑顔を見せていた。陽子の笑顔や言葉からは嘘は感じられなかった。

 「そう。喜んでもらえて何よりだわ。」

 そのとき、ホームルームの開始を知らせるチャイムが鳴った。同時に担任の先生が教室に入ってきた。生徒たちは他愛もない会話を続けながら、急いで席に着く。陽子はまだ喋り足りなかったのか、なにやら文句を言いながら前を向いた。

 「『子』っていう名前が嫌、か…。」

 硝子にもその字がある。字の意味を知って喜べるだけ幸せだなと硝子は思った。「硝子」は「ガラス」とも読める。壊れやすいままで一生を過ごすことになりますように。硝子は自分の名前をそういう名前だと考えている。無意識に閉じていた本のページをまた開き直して、意識の海へと沈むのであった。


 始業式が終わって、硝子が帰ろうとして席を立つと、また声をかけられた。

 「また明日、話そうよ。」

 陽子は気軽に言った。

 「ええ。」

 硝子は短く返事した。

 「ばいばい。」

 「さようなら。」

 そうして硝子は教室を後にした。

 

 帰り道の途中、硝子は先程の会話を反芻していた。見ず知らずの人にあんなにも無邪気に話せるものかと不思議に思っていた。

 「また明日、話そうよ。」

 自分と話して何になるというのだろう。楽しい話や面白い話はできない。他人を笑わせるなんて一番苦手なことだ。あの子ならもっと他に話す相手くらいいるだろう。なぜわざわざ私なんかと。

 硝子はそんなことを考えていた。

 気が付くと駅のホームに着いていた。電車が来た。硝子の長く、黒い髪が風になびいた。電車の扉が開くと大勢の人だかりがぞろぞろと出口の階段に向かっていく。そのまま駅のホームに残って次に来る電車を待つ人や向いの電車に乗り込む人もいる。そのような人の往来を硝子はしばらく眺めていた。別段急ぐ理由もない。次の電車を待とう。硝子はそう決めた。電車の扉が閉まる。電車が発進する。また黒い髪がなびく。ホームに残ったのは三、四人であった。その中に硝子はいた。そこからは校庭が見え、校庭の木々には春の色が溢れているはずだが、手元の本の文字に捕らえられた硝子の眼に、その色は映らなかった。


 硝子は誰もいない家へと帰ってきた。家というよりは屋敷というべき木造建築物であり、硝子と父方の祖母の千代子の二人だけで住むにはあまりにも広すぎた。千代子は夕方よく家を留守にする。何かの習い事なのだそうだが、別段硝子の興味のあるところではなかった。なので、家に硝子一人だけという状況は珍しいことではなかった。自分の部屋に籠り、ひたすら本を読み続ける。硝子が学校から帰ってからすることで楽しみなのはこれだけだ。

 硝子は孤独であった。母親との思い出は全くない。父親の面影はぼんやりと幻のようにしか浮かばない。千代子が言うには、硝子は母親の生き写しとも思えるくらいにそっくりだという。父親は清潔感があり、背が高く、人望が厚い人だったらしい。硝子も父親に似たのか背が高かった。 

 硝子は15年の人生の中で、両親と話したことが一度もなかった。なぜ自分には両親がいないのか、気になったことがないと言えば嘘になるが、今更会いたいとも思わなかった。もしこの世のどこかにいたとして、もし遂に会えたとしても、どんな話をすればいいのか、今さら何から話せばいいのかがわからないからだ。

「ただいま帰りました。」

 千代子が帰ってきた。

「あら、硝子さん、帰ってましたのね。」

 祖母の独り言が聞こえる、と硝子は思った。

「おかえりなさい。」

 硝子も部屋で独り言のように返事した。

「今日は早かったんですね。」

 硝子の部屋の前まで来て、千代子が訊ねた。

「始業式だけだったから。」

「あらそうだったの。硝子さんも今日から高校二年生ですね。時間が経つのは早いですね。言っておいて下されば、もうちょっと早く帰って来られましたのに。」

「いいの。言わなかったのは私の勝手だから、気にしないで。」

「ごめんなさいね。」

 千代子は申し訳なさそうに謝った。しばらくの間沈黙が続いたあと、千代子が再び訊ねた。

「新しいクラスはどうですか?」

 期待しているが、どこか心配そうな声でもあった。

「始まったばかりだからまだよくわからないわ。」

「仲良くできそうな人はいましたか?」

 千代子は昔から硝子の人付き合いを嫌う性格を気にかけていた。

「そういえば、隣の席の人と話したわ。」

 だからその言葉を聞いたとき、千代子にしては珍しく感情を顔に現し、驚いていた。しかし、その千代子の表情の変化は1枚の扉を隔てて、硝子の目には分からなかった。

「へぇ、そうですか。どんなお人ですか。名前は何て言うんでしょう。」

 どこか喜んでいるようでもあった。

「そうね、名前は東陽子、明るくて正直な人よ。私とは正反対な性格の人間ね。」

 陽子との会話を思い出しながら応えた。

「硝子さん、陽子さんのこと、大切にしてくださいね。」

 なぜいきなり千代子がそんなことを言うのか硝子には分からなかった。

「それはどういう意味?」

「そのままの意味です。」

そう言って千代子は硝子の部屋の前から離れて行った。千代子の口と目元は柔らかく微笑んでいた。


「今日ね、初めてショーコとしゃべれたの。」 

 陽子は学校からの帰り道、硝子と会話したことを誇らしげに話していた。その相手は同級生の岡本優介であった。

「ショーコ?ああ、君のお気に入りのあの子か。ついに話せたんだ、良かったね。」

 優介は落ち着いた、というよりも平坦な口調で言った。

「そう、やっと話せたの。やっぱりショーコはいい人だったよ。」

「ふーん、そうか。」

 優介は素っ気なかった。

「陽子は1年のときからショーコのことが気になる、気になるって繰り返してたけど、どこが気に入ってるの?」

 陽子は活き活きと応えた。

「あの見るからに賢そうなとこね。それに美人なとこ。」

「陽子の方が可愛いよ。」

 優介はいたずらっぽく笑った。

「そういうのいいから。」

「ごめん、ごめん。でもあんな誰とも交わろうとしないで自分の殻に閉じ籠ってる女の人より、陽子みたいにいつもニコニコしてる方が良いに決まってるよ。」

「ユースケはショーコのこと、何にもわかってない。」

「そうかな?全くその通りだと思うけど。」

「いつかショーコの良さがわかるときがくるよ。ショーコはああいう風に見えて、人のことちゃんと見られる人なの。」

「そうかなぁ。でも陽子がそう言うんなら、そうなんだろうね。じゃあ、楽しみにしておくよ。」

「うん、そうしておいて。」

 硝子のことを悪く言われて陽子は腹の底から腹が立った。


 陽子が硝子のことをかばうには理由があった。それは1年前の入学式のことだった。周りに顔も名前も知らない人ばかりで陽子は独りで話せずにいた。いつも明るく振舞っているのは本当は人見知りな自分を悟られないようにするためであった。現に、今も同級生でまともに腹を割って話ができる人物は優介しかいない。そんな陽子に話しかけてくれたのが、他でもない硝子だった。

「ねぇ、あなた。大丈夫?」

「えっ、あたし?」

「そう、あなたよ。顔色が良くないみたいね。気分でも悪いの?」

 硝子の、その細長く走る綺麗な眉の片方が、少し心配そうに下がっていた。

「うん、ちょっと…。知らない人ばっかりで緊張して。」

「そういうときは、まず深呼吸をするといいわ。」

  硝子は落ち着いた声で言った。

「それから、周りの人がみんな自分を見ているなんて思わないことね。あなたが思っているほど、他人はあなたのことを見ていないわ。みんな自分のことで精一杯だから。」

「そう、なのかな。」

「ええ。だから、自分はそれほど注目されていない。ただ少し気持ちが先に騒いでいるだけ。そう考えれば、いくらか楽になるわ。」

 硝子の表情はいつもの落ち着いた表情に戻っていた。そして自分の席に帰って行った。

 硝子と陽子の初めての会話はこれだけであった。硝子はこうして会話したことさえ忘れてしまっていた。しかし、陽子の頭からその会話が片時も離れなかった。どうしてあんなに気さくに話かけられるのかな、そう陽子が思ったからである。


 ある朝、硝子が電車の中で本を読んでいるとき、自分の目の前に、自分と同じ制服を着た人が立ってきた。顔は上げなくてもいいくらいに陽子の顔があった。

「ショーコ、おはよう。」

「ああ、間宮さん。おはよう。」

「ヨーコでいいよ。」

 いつもの屈託のない笑顔だ。

「そう、昨日話したばかりなのに、もう名前で呼び合うの?」

「うん。嫌かな?」

 こんな他愛もない会話の中でも、陽子の目線は硝子の目と硝子の背後の自動扉を行ったり来たりしていた。

「いいえ。慣れないけど、名前で呼ばせてもらうわ。」


 それから二人は黙った。陽子はいよいよ視線を硝子から逸らし、電車の窓から外の景色を見ている。

 硝子はこの沈黙を不愉快に感じた。

 近づいてきたのは陽子の方なのだから、陽子にはなにか話題があるに違いない。なのにすぐにはその話題を持ち出すことなく黙っている意味が硝子には分からないでいた。

「陽子さん。」

 すぐに名前で呼んでくれたことに陽子は嬉しくなった。

「ん、何?」

「何じゃなくてなにか用があって近寄ってきたんじゃないの?」

「まあ、そうなんだけど…。なんかね…。」

 陽子は眼を伏せて笑った。

「どうかしたの?」

「ううん、なんでもない…。分かった、話す。」

 陽子は顔を上げた。

「ショーコ、あたしのこと覚えてる?」

「どういうこと?あなたとは初対面なはずよ。」

「だよね。そうだよね。」

 陽子は再び眼を伏せた。

「どこかで会ったこと…。」

「あるよ。」

 硝子が言い終わらないうちに陽子が応えた。

「入学式のとき。あたしが誰とも話せないでいるときに声かけてくれたよ。覚えてない?」

 入学式…。そういえば。硝子は遠い記憶を辿った。

「あのときの、気分が悪そうだった人?」

「そうそう。」

 またぱっと明るくなった目が硝子を見つめ始めた。

「髪、短くしたのね。」

「うん、あのときは今よりももっと人見知りだったから、自分を変えたくて髪を切ったの。」

 すると硝子は笑った。陽子にとってはそれが初めての硝子の笑顔だった。

「どうして髪を切ったら『自分』が変わるの?」

「えつ、だって、なんか、軽くなった感じするでしょ?」

「そんなことで『自分』を変えることはできないわ。もしそれで変わったなら、その性格は元々あなたの中に存在していたというだけよ。今まで見えてなかっただけよ。あなたの本質は何も変わらないわ。」


 硝子の言葉に陽子は何も言えなかった。硝子が正しいと陽子は思った。

実際、陽子は今でも人見知りがひどく、初対面の人とは向こうから話しかけてくれないと話せない。陽子はまた俯いて黙ってしまった。電車の扉が開いた。電車を降りて、改札を抜けても陽子は俯いたままだった。そこで、硝子が口を開いた。

「でも、無理に自分を変えようとしなくていいわ。」

「…なんで?」

 予期せぬ援護の言葉に陽子は困惑した。

「陽子さんはいい人だから。」

「ええ?なんで、なんでそう思うの?」

「良い・悪い、好き・嫌いに理由なんてないわ。陽子はいい人だからいいの。」

 そう言われ、陽子は自分の顔が熱くなるのを感じた。

「ほらショーコ、見て、桜。きれいね。」

 恥ずかしさを紛らわそうとしたために、陽子の口から適当な言葉が滑り出た。

「…本当ね。」

 やっと硝子の目にとまったその桜の桃色は新鮮であった。生命が芽吹き始める季節の風に硝子は包まれていた。


 優しい陽気で包まれていた季節が徐々にその温かみを増していた。

「ねぇ、ショーコ。ちょっといい?」

「ええ。」

 陽子に声をかけられたとき、硝子は相変わらず本を読んでいた。

「あっ、新しい本読んでる。」

「そうね、よく気付いたわね。で、何の用かしら?」

 硝子は、陽子の話を一旦逸らす癖には慣れていた。

「ショーコと話したいっていう人がいるの。」

「そう。」

 私と話したいなんて変わった人だと硝子は思った。

「誰?」

「三組の岡本っていうの。知らないよね?」

硝子が知っているはずがなかった。

「知らないわね。」

「そうよね。まあいいや、とりあえずこっち来て。」

 硝子は陽子に手を引かれて教室を出た。三組の教室の前に岡本優介はいた。

「ユースケ、連れてきたよ。この人がショーコ。」

「どうも。」

 優介は軽く会釈した。優介は以前から硝子のことを知っているかのように硝子の目を真っ直ぐに見下ろしていた。その明るくて茶色い瞳は硝子を不思議と吸い込むような澄んだ色をしていた。

「どうも、じゃないでしょう?」

 陽子の笑顔はいつもの屈託のないものではなく、どこか意地悪さを含んだ笑顔だった。

 硝子はそんな笑顔を初めて見た。

 これが心を許した相手にだけしか見せない仕草かと硝子は思った。

「僕から話すの?」

「うん。」

 優介は少しきまり悪そうに話した。

「硝子さん。」

「なに?」

「この三人で夏祭りに行きたいんだ。」

「えっ、夏祭り?」

 思ってもみない言葉だった。

「うん、ダメかな?いきなり知らない人が混じっての夏祭りは嫌かな?」

「行こうよ、ショーコ。」

 たしかに、夏祭りや初対面の人というのは硝子の驚いた理由の一部ではあった。しかし、それ以上に、今まで人と交わろうとしなかった自分がなぜ人から誘われているのかがよく分からなかったからである。

「私、人混みの多いところは苦手なの。うるさいから。」

 そこで優介は朗らかに笑った。

「いやぁ、陽子は硝子さんのことよくわかってるなぁ。感心した。」

「どういうこと?」

 硝子が訊いた。

「陽子がね、硝子さんはうるさいところは嫌いなはずだからお祭りなんて行ってくれないって言ってたんだ。」

「そういうことなの、陽子。こいつセンスないよね。」

 そう言って硝子以外のふたりは笑った。

「いいえ、夏休みに友達とお祭りに行くのは普通のことだわ。普通じゃないのはむしろ私の方よ。」

「そうかな?」

 優介が首を傾げた。

「賑やかなことが好きな人もいれば、嫌いな人もいる。ただそれだけのことだよ。どっちが普通で、どっちが変わってるという問題じゃないと思う。だから硝子さん、君はいたって普通だよ。」

 優介は真剣だった。そのことが硝子には違和感だった。初対面の人間相手に本気で自分の意見を素直に言える人を初めて見たからということもあるが、何より自分と向き合って話してくれる人間がいたことが硝子にとって違和感だった。

「そう?」

 しかし硝子は何食わぬ顔をして言った。

「うん、そう。普通以上の人だと思うよ。」

 優介は優しく微笑んだ。硝子もつられて微笑んだ。

「それに、夏祭りの話に戻すけど、人が賑やかにしてるのを遠目から見るのもいい感じだよ。少し離れて、あまりうるさくないところからでも楽しめるよってことだね。」

「えっ、何するの。どこ行くの?その話聞いてないよ。」

 陽子は騙されたようで、いきなり慌てだした。

「まあそれは行ってからのお楽しみってことで。」

 今度は優介がいたずらっぽく笑った。その笑顔には魅力があった。

「えー何それ、気になるなぁ。もう、ショーコ、行こ、夏祭り。」

「…そうね。行くわ。」

「よし、決まった。」

 優介だけが勝ち誇ってにこにこしていたが陽子は優介に秘密にされていかにも不機嫌そうだった。

「陽子さん、岡本くん、誘ってくれて…ありがとう。」

「どういたしまして。」

「そんなこと気にしない、気にしない。」

 硝子はいつか千代子に言われた言葉を思い出していた。

「硝子さん、陽子さんのこと大切にしてくださいね。」

 硝子は今その言葉の意味がはっきりと分かった。友達と呼べる人が二人に増えた。


 夏祭りの日が近づくにつれて、硝子は落ち着かなさを覚えるようになった。その落ち着かなさを楽しみと呼ぶにはふたりとの日が浅すぎる。また、期待と呼ぶにはふたりの真意が分からない。しかし、不安と呼ぶにはふたりの笑顔は眩しかった。おそらくはその感情の名前が分からないでいるからであろう。

 陽子は毎日のように祭りの話をした。

「ショーコ、浴衣着てくる?」

「着ないわ。持っていないもの。」

「ええ、もったいない。ショーコ絶対似合うのに。」

「似合うかどうかなんて、着てみなければ分からないでしょう。」

「分かるよ。ショーコは何着てもきれいだと思う。」

 陽子は何でもないことのようにそう言った。硝子は本に視線を落としたまま、頁をめくる指を少しだけ止めた。そんなことを明るく言われることには、まだ慣れていなかった。

「ユースケもそう思うよね。」

 いつの間にか硝子の席の側に優介が立っていた。陽子が呼んだわけでもないのに、休み時間になると自然に硝子と陽子がいる教室へ来るようになっていた。

「うん。硝子さんは浴衣が似合うと思う。今度の夏祭りに着て来てほしいな。」

「ほらね。」

「岡本くんまで何を言っているの。」

「別に変なことは言ってないよ。似合うと思ったから言っただけだよ。」

 優介は少しも気負うところがなかった。優介にとってはいつもの調子なのであろうが、硝子はそういう優介の何気なさが苦手だった。冗談なのか、本気なのか、親切なのか、ただの気まぐれなのか、その境目が分からない。分からないものは、硝子にとって不安であった。


 その夜、硝子が帰宅すると、千代子が居間で裁縫箱を開いていた。その古い木箱は暗く艶のある黒檀の木でできており、角には小さな銀色の金具が打たれている。その中では絹糸を巻いた糸巻き、色ごとに分けられた針山、よく研がれた小さな裁ち鋏、白い和紙に包まれた替え針、折り目のついた端切れが、驚くほど整然と並んでいた。

 居間は広かったが、飾り立てられた部屋ではなかった。部屋の隅には季節の花が一輪だけ活けられている。部屋を支える柱はどれも古く、一様に黒く塗られており、特別目を惹く表情をしていなかった。しかし、年月を経ていることでその木目のゆれや褪せた色が唯一無二の艶へと変化している。


 山本の家は、昔からその土地では名の知られた家だった。千代子の話では、曾祖父の代にはすでに多くの土地を持ち、人を雇い、困った人に金を貸すこともあったらしい。しかし、千代子は家や自分のことを多くは語らないので硝子には詳しいことはわからない。高価なものはあるのだろうが、硝子にとっては興味のない物質であった。広い家も、古い道具も、長く大切に使われてきたものではあるのだろうが、そこで静かに息をしているだけのようであった。硝子はその家の空気を、時に窮屈に感じ、時に守られているようにも感じていた。

 千代子は硝子に気づくと、いつもより少し明るい声を出した。

「硝子さん、少しこちらへいらしてください。」

「なに?」

 小柄な千代子は硝子の身長よりもさらに高さのある桐箪笥の引き出しから、丁寧に畳まれた浴衣を取り出した。白地に、赤と黒の模様をした金魚がそれぞれ2匹泳いでいる。派手ではない。けれど、水の中に小さな命がゆらめいているような華やかさがあった。

「この浴衣を夏祭りに着て行かれてはどうかと思いまして。」

「どうして夏祭りのことを知っているの。」

「この間、間宮陽子さんからお電話がありましたの。硝子さんを夏祭りに誘いました、と。明るくて、声だけでもいいお人柄だとわかりましたよ。」

「勝手なことを。」

 硝子はそう言ったが、怒る気にはなれなかった。陽子の行動には硝子の他人との壁を簡単に通り過ぎてくる善意がある。その混じり気のなさには、硝子の境界を取り去るような明るさがある。

「嫌なら着なくても構いません。でも、きっとお似合いになります。」「……こんなもの、いつ買ったの。」

「私が作りましたのよ。硝子さんに何か送れるものはないかと思って。」


 千代子は嬉しそうに笑った。硝子はその笑顔を見て、なぜだか胸のあたりがざわついた。喜びを向けられると、自分も喜ばなければならないような気がして苦しくなる。硝子はそういう自分を、ひどく面倒な人間だと思った。「私が着ても、浴衣がかわいそうよ。」

「そんなことはありません。」

 千代子は静かに言った。

「硝子さんは、ご自分で思っているよりずっと綺麗です。」

「そういうの、やめて。」

 硝子は顔を背けた。言葉が優しければ優しいほど、受け取る手が分からなくなる。千代子はそれ以上何も言わなかった。ただ、浴衣を硝子の腕にそっと預けた。


 浴衣は軽いはずだった。

 それなのに、硝子にはひどく重いものに感じられた。


 提灯が幾つもぶら下がり、ぼんやりと頭の上を照らしていた。祭りは始まったばかりだというのにもうすでに十二分の人だかりであった。かき氷や綿菓子を手にしてはしゃぐ人。射的や金魚すくいにむきになっている人。そして道をぶらぶらと歩いている人。大きな祭りになっていた。

「見て、ショーコ。あれ、りんご飴。こっちは金魚すくい。あ、射的もある。何から行く?」

 陽子は花火の柄の浴衣を着ていた。濃い紺地に、赤や橙や白の花火がいくつも開いている。歩くたびに袖が揺れ、そのたびに夜空の中で小さな花が咲くようだった。

「そんなに一度に言われても決められないわ。」

「だって行きたいとこ、やりたいこと、いっぱいあるんだもん。」

 陽子は楽しそうだった。陽子が笑うと、その笑顔につられるように浴衣の花火も揺れた。

「これでもまだ序盤だから。ここから更に人が増えると思うんだけど、そうなったらろくに動けなくなるからね。」

優介は硝子に楽しそうな微笑みを向けて言った。

「だから硝子さん、今のうちにお店をまわっておこう。」

「そうみたいね。でももうすでに息苦しいわ。」

硝子は終始うつむき続けて暑苦しいようだった。人生で初めて着る、千代子から譲り受けた浴衣のせいかもしれないと硝子は考えていた。

「じゃあもう次に行く?」

「えー、せっかくだからなんかしようよ。」

「どうぞ。私のことは気にしないで。」

陽子が明らかに不満げな顔をした。

「それじゃ、硝子を誘った意味がないでしょ。一緒にやるの。」

陽子のあどげなさに、無邪気さに、優しさに硝子は喜ばずにはいられなかった。陽子本人にはそういうつもりはないのだろうが。

「そうね、わかったわ。じゃあ何する?」

「あれ。」

 そう言って陽子は輪投げの屋台へと向かい、お金を出そうとしたときだった。

「ん?あれ?」

「どうかした?」

優介が訊いた。

「…財布がない。」

「慣れない浴衣なんて着てくるからだね。」

「ごめん、ちょっと探してくる。」

 優介の意地悪も聞こえないくらい陽子は取り乱していた。

 言い終わらないうちに陽子は来た道に走り出していた。

「世話がかかるなぁ、陽子は。」

優介は存外平気だった。

「私たちも一緒に探した方が良いわね。」

「いや、陽子も子供じゃないから一人でも探せるよ。その必要はない。」

「そう?」

「うん、そう思うね。それに僕たちまで動くと絶対迷子になるよ。」

「それもそうね。」

 二人は多くなった人通りから外れて、輪投げの屋台の裏にある、一本の楠の下に身を落ち着けた。

「今日は来てくれてありがとう。」

優介は呑気に言った。

「ん?いいえ、こちらこそ。」

「なのにこんな面倒なことになってごめんね。」

「いいわ。全然面倒になんか思ってないわ。」

「そうか。ならいいけど。しかしなんで財布を落としたりなんかするんだろうね。袖から滑り落ちてもしたのかな?」

「まあ、いいじゃない。それよりも陽子の着てる浴衣、陽子に似合ってると思わない?」

「ああ、そうだね。花火の柄だったね。」

優介は思い出したように言った。

「硝子さんのは金魚だね。静かだけど華がある。硝子さんに似合ってる。」

「ありがとう。」

「それは、誰かからの贈り物?」

 優介が何気なく訊いた。

「ええ。祖母が、この日のために用意してくれたの。私のために、わざわざ。」

 硝子は淡々と言ったつもりだったが、いつもよりも少しだけ言葉が固くなっていた。

「硝子さんのお婆さんは、硝子さんのことが大好きなんだね。」  

 優介はいつも通り、朗らかに笑った。

「どうしてそう思うの。」

「なんとなく。」

「なんとなくで分かるの?」

「うん。分かることもあるよ。」

 優介は硝子の浴衣を見た。白地の上で、赤と黒の金魚が静かに泳いでいる。

「その浴衣、硝子さんに似合うように作られてる。派手すぎなくて、でも地味でもない。静かだけど、ちゃんと目に残る。硝子さんのことをよく見ていないと作れないと思う。」

「……そうかしら。」

「そうだよ。」

 硝子は返事に困った。千代子が自分のことをよく見ていることくらい、本当は知っていた。しかしそれは、千代子に向けてきた自分の冷たさまで認めることのようで、どうにも居心地が悪かった。

「硝子さんは、お婆さんのことを話すとき、少し暗い顔をするね。」

「そんな顔してた?」

「うん。少しだけ。」

「でも、それと祖母が私のことを好きかどうかに、どんな関係があるの。」

「硝子さんは、自分に冷たく当たる人のために、時間をかけて何かを用意できる?」

 優介は責めるようではなかった。ただ、静かに訊いていた。

「……私なら、できないわね。」

「僕もたぶんできない。でも、お婆さんは用意したんだよね。この日のために。硝子さんが喜ぶかどうかも分からないのに。」

 硝子は何も言えなかった。

「友達なら、相手が笑ってくれたら嬉しいし、冷たくされたら少し傷つく。だから近づいたり、離れたりする。でも家族って、たぶんそんな簡単じゃないと思う。冷たくされても、心配する。返ってこなくても、待っている。喜んでくれるか分からなくても、用意してしまう。」

 優介はそこで少し笑った。

「僕にはまだ、ちゃんとは分からないけどね。でも、その浴衣を見ていると、そういうものなんじゃないかって思う。」

 硝子は浴衣の左脚の裾あたりに視線を落とした。金魚の尾が、提灯の灯りを受けてかすかに揺れているように見えた。

「……変な人ね、岡本くんは。」

「そうかな。」

「そうよ。人の祖母のことまで考えるなんて。」

「硝子さんが大事にされてることくらいは、十分伝わってくるよ。」

 その言葉は、硝子の胸にすぐには収まらなかった。


十一

 硝子が家を出る前、千代子は何度も硝子の浴衣の帯を直した。硝子にはその違いが分からなかったが、千代子にとっては大事なことらしかった。

「苦しくありませんか。」

「少し苦しいわ。」

「浴衣とはそういうものです。」

「不便ね。」

「けれど、不便なものにも良いところはあります。歩き方が丁寧になりますから。」

 千代子はそう言って笑った。硝子は玄関の姿見に映る自分を見た。黒い長い髪を少しまとめ、白地の浴衣を着ている自分は、どこか知らない人のようだった。

「変じゃない?」

 その言葉が口から出た瞬間、硝子は自分でも驚いた。そんなふうに誰かに確認することは、硝子の性分ではなかった。似合うかどうか、変かどうか、他人の目にどう映るかなど、気にしていないふりをして生きてきた。実際、気にしないようにしてきた。なのにそのときだけは、千代子に見てほしかった。いや、千代子にだけでなく、これから会う陽子や優介にどう見えるのかまで気になってしまっていた。

 そのことに気づいて、硝子はしまったと思った。自分の中にある浮ついたものを、千代子に見られたような気がしたからだった。

 一方の千代子はその一言だけで胸がいっぱいになったような顔をした。

「とてもお似合いです。」

 硝子はそれ以上何も言わなかった。言えば、何か余計なものまで零れてしまいそうだったからである。


 祭りの灯りの中で、優介に「似合ってる」と言われたとき、硝子はその玄関でのことを思い出していた。千代子の言葉は、柔らかい布のように体を包んでくる。硝子の体をそっと包み、寒くないように、傷つかないように、外へ出て行けるようにしてくれるような響きがあった。

「どうしたの?」

 優介が訊いた。

「いいえ。何でもないわ。」

「そう?」

「ええ。」

 硝子はすぐに視線を外した。優介に見られていると、自分が何を考えているのか自分でも分からなくなる。陽子のように分かりやすく笑うこともできない。千代子のように穏やかに受け止めることもできない。ただ、胸の奥で何かが静かに動いている。

 それが嫌ではないことが、硝子には少し怖かった。

 それからしばらく二人は黙って人の往来を何とはなしに眺めていた。

「人が増えてきたね。」

「そうね。」

「陽子が帰ってきたら場所を移そう。」

「うん。」

優介はそこでまた少し沈黙した。

「…硝子さん、こういうお祭りに来たのって初めて?」

「ええ。」

「そっか。じゃあ慣れてないんだね。」

「そうね。」

「ちょっと緊張してる?」

「どうして?」

「うん、とか、ええとかばっかりだから。」

優介はいつものようににこにこした顔をいたずらっぽく硝子に向けた。

「これがいつものなの。」

「そっか。」

「怒ってるの?」

「ううん。いや、ちょっと怒ってるかな。」

優介は硝子をからかってみせた。

「ああ、そう。それなら謝るわ。ごめんなさい。」

「冗談だよ。」

「いじわるね。」


二人は木陰で静かに笑い合った。


十二

 十分待っても、二十分待っても陽子は帰って来なかった。

「どうしたのかしら、陽子さん。遅すぎるわ。」

「じゃあ先に行っておこうか。」

「え?陽子さんのこと置いていくの?」

「大丈夫。子供じゃあるまいし。」

 優介はいつもと変わらない落ち着いた表情だった。

「行こう。」

「…。」

 先ほどは待っておくと言っておきながら、今度は陽子を待たずに先に行こういう優介の考えが、硝子には納得いかなかった。

「どこに行くの?」

「それは着いてからのお楽しみだね。」

 優介は両側に幾つも立ち並ぶ夜店の間を進んでいった。硝子は優介の少し後からついていった。しばらく歩いていると段々と人が少なくなっていった。


 優介の背中は、迷いなく前へ進んでいるように見えた。硝子はその背中を信じていいものかどうか判断がつかなった。少なくとも、優介が自分を困らせようとしているわけではないことは分かる。人混みから離れていく足取りにも、どこかこちらを気遣うような速さがあった。

 けれど、まだ優介のことをすべて知っているわけではなかった。

 何を考えているのか。どこまで本気で、どこからが冗談なのか。どうして知り合って間もない自分に、あんなにも自然に向き合えるのか。硝子には分からないことの方が多かった。それでも、足を止めようとは思わなかった。  

 このふたりで歩いている道がどこへ続いているのか、知りたいと思った。夜店の明かりが少しずつ遠のき、人の声が背中の方へと流れていく。

 この先に何があるのか。優介が自分に何を見せようとしているのか。分からないことが、今はただ怖いだけではなかった。

「もう少しだからね。」

「ええ。」

 

 すると突然優介の足が止まった。

「どうしたの?」

 硝子は優介の顔を見上げた。

「あれはもしかして迷子かな?」

 優介の視線の先には、独りで泣いている、4歳くらいの男の子がいた。硝子は優介に言われて初めてその子供に気付いた。

「そうみたいね。」

「うーん、助けるか。」

 そう言って優介は子供のそばに行き、そっとその子の肩に手を置いた。「どうした?迷子になったの?」

 子供は泣き続けていた。返事がこなかった。

「硝子さん、ちょっと来て。」

 優介はその光景を遠くで見ていた硝子を呼んだ。硝子はゆっくり近づいた。

「硝子さん、この子の手をつないであげて。」

「えっ、なぜ?」

「怖い夢を見たら、母親に手を握ってもらったりしたよね?それで安心できただろう?それと一緒だよ。」

 そんな経験は硝子にはなかった。硝子には親のぬくもりを感じられる時がなかった。

「なんだかよく分からないわ。」

「まあ、とりあえず早く。握ってあげて。」

 硝子は言われるがままに子どもの手を握ったが、ぎこちなかった。

「子どものなだめ方なんて分からない。」

「大丈夫。そうしていてくれればいい。」

「でもまだ泣き止まないみたいだけど。」

「そう簡単にいったら親は苦労しないよ。」

 ふたりはふたりだけが聞こえる距離で話した。

「じゃあこの子の親を探しに行くか。」

「迷子になった場所から動かないほうが良いんじゃないの。」

「はぐれた場所から動いたから迷子になったんじゃないかな。陽子といい、この子といい、今日は迷子が多いね。」

 優介はどこか楽しんでいるような笑顔で言った。そうしてふたりは元来た道を引き返していった。


十三

 時間が経つにつれ、子供はおとなしくなっていった。しかし、まだ何を聞いても返答がなかった。

「親がどんな人かくらい言ってくれたらなぁ。名前も言ってくれないんだったら探しようがないな。」

 優介も硝子も、その子供ももうだいぶ歩いた。硝子に代わって優介が手をつないだりもした。二人一緒にということもあった。かなりの時間が経っていた。だが、依然としてその子の親を見つけられないでいた。

「硝子さん、大丈夫?さすがに疲れてきたでしょ。」

「大丈夫よ。」

 硝子が健脚なのは確かであった。

「そうか。ならいいけど、こんなにも見つからないのはどういうことなんだろうね。」

「そうね。おかしいわね。」

 すると子供が口を開いた。

「あれ。」

「ん?どうした?」

 指を差している。見ると『射的』の文字があった。

「あれがしたいの?」

 優介の言葉に子供が頷いた。

「よし、やろう。」

 優介はそう言って子供と一緒に射的の夜店に向かった。子供がおもちゃの銃を構えるとき、優介はその子を抱き上げて、狙いやすいようにしてあげた。すると子供は満面の笑みを浮かべて遊び始めた。硝子も何も言わずに真横に立って、その和やかな雰囲気に包まれていた。

「こうしていると、僕たち夫婦みたいだね。」

 優介は突然そんなことを言った。いつもの朗らかな微笑みだった。硝子はすぐには返事ができなかった。冗談だと分かっていた。優介が深い意味を込めて言ったわけではないことも。しかし、その言葉をまったくの冗談として聞き流すことが、硝子にはできなかった。

 自分と優介が、誰かからそう見えているかもしれない。

 優介自身が、一瞬でもそんなふうに考えたのだ。

 そう思うと、胸の奥が小さく熱を持った。心臓が自分を脈打つ音がはっきりと聞こえた。ただ、どう返せばいいのか分からなかった。いつものように否定してもよかったが、否定してしまうと、自分がその言葉を惜しむような気がした。

 だから硝子は、できるだけ平静を装って返した。

「夫婦にしては私も優介くんも若すぎるけど。」

 そんな硝子の心の揺れ動きなど少しも分かっていないかのように、優介の目は射的の的へ向いていた。子供が銃を撃つ度に、子どもと一緒に悔しがっては楽しそうに見つめている。

 硝子は今の他愛もない言葉を、聞いてほしかったのかもしれない。聞くだけではなく、何か返してほしかったのかもしれない。自分でもそんなことを望んでいたのかは分からなかった。ただ、このまま何もなかったように流れてしまうのが、少し惜しかった。

「それに、夫婦というのはもっと落ち着いているものではないの?」

「そうかな。案外こんなものかもしれないよ。子供のわがままに付き合うために祭りの中を歩き回って、疲れて、いい加減早く終わってくれないかな、もう帰ろうよって大人の方が先に音を上げてしまう。でも後から考えたら、それが幸せだったと気づく。そういうものじゃないのかな。だからこうしてる僕らは案外悪くない夫婦かなと思ったんだよ。」

 優介の言葉が自分の中に入ってくるのを止められなかった。父と母の姿を知らない硝子には、夫婦という言葉に具体がなかった。千代子が時折、父と母の話をすることはあった。優しい人だった、よく笑う人だった、あなたのことをとても大切に思っていたと言う。けれど、どれも硝子の中では輪郭を持たなかった。写真の中で笑う二人は、硝子にとって親というものではなく、見知らぬ男女の幸せに映るのだった。

 だから、優介が何気なく言ったその言葉は、硝子の心の中に隠れていた空白を明らかにした。もし自分に、誰かと並んで歩く未来というものがあるのなら。もし自分が、誰かと同じものを見て、同じことで疲れて、同じことで少し笑うような日を過ごせるのなら。それは、どういう感じなのだろう。

「硝子さん?」

 優介の声で、硝子は我に返った。

「なに?」

「いや、急に黙るから。」

「あ、ごめんなさい。でも黙っているのはいつものことよ。」

「でも今のはいつもとちょっと違ってたよ。」

「そうかしら。」

「うん。」

 優介はそれ以上追及しなかった。優介のそういうところに、硝子は救われている。踏み込んでくるくせに、踏み荒らしはしない。硝子が引いた線の手前で、いつもぎりぎりで立ち止まる。

「でも、そう言われたらいつも通りだったかもね。」

 そこで優介は硝子に視線を向けた。そこには硝子の涼しい横顔があった。頭の後ろで束ねられた黒髪が映った。視線を感じた横顔は優介の方に向き直った。切れ長の目が優介を見つめ返す。

「なに?」

「何でもない。」

「そう。」

「強いて言うなら腕が疲れてきたな。」

 ふたりはそれからは何も話さなかった。ただ子供が無邪気に遊ぶ姿をじっと見つめていた。そうしていると子供の母親が現れた。向こうも必死にわが子を探し回っていたという。運よくいい人たちに保護してもらえて良かったとお礼を言われた。が、硝子も優介も疲れていたためか会話の内容をよく憶えていなかった。

 母親と子供が去って行ってから二人は陽子のことを思い出した。

「もう帰ってるかもね。」

「そうかしら、まだどこかにいると思うわ。」

「そう?」

「とりあえず、歩いているのがいいわ。」

 再び幾つもの夜店が両側を過ぎていく。しばらく経って優介が言った。

「今日は面倒なことに付き合わせたね。ごめん。」

「謝らなくても大丈夫よ。楽しいって言ったら能天気かもしれないけど、でもやっぱり楽しかったわ。」

「そうか。それなら良かった。」

「それよりもいいの?どこか行くところがあったみたいだけど。」

「もういいや。歩きすぎて疲れたし、今更引き返して見るほどのものでもないし。」

「そう。それならもういいわね。」

「うん、いい。」

 そこからは無言の時間が続いた。ぼんやりとした雰囲気があった。きっと疲れのせいだ。硝子はそう信じようとした。


十四

 三人が再び合流できたとき、陽子の片手には大きな綿菓子があり、もう一方には夜店の景品が手に負えないくらいになっていた。もうすでに夏祭りを満喫していたらしい。

「その様子だと財布は見つかったんだね。」

「うん。でも、最初は全然見つからなかったの。それで、自分ひとりじゃ見つけられそうにないから周りの人に財布が落ちてたかどうか訊いていったの。」

「人見知りの陽子がよくやったね。」

 優介が感心して言った。

「だって、財布がないと遊べないから。そう思うと自然に話しかけられたの。」

 陽子は得意げに笑った。

「それに、案外いい人がいっぱいでね。中には一緒に探そうかって言ってくれた人もいて、さすがにそれは相手に悪いから断ったんだけど嬉しかったなぁ。なんで今まで自分から人に話しかけなかったんだろ。損してたなぁ。」

「そう思うんだったらこれからもっと友達の輪を広げていけばいいわ。」「うん、そうする。」

「今日はみんな思い思いに楽しめたみたいだね。」

「そうね。」

 硝子と優介は同時に笑った。陽子の女性であることが、すかさず二人の笑顔に勘付いた。

「なんかあった?」

 陽子が訊いた。

「いいえ。いたって普通だったね。自然すぎたのが逆にいけなかったようにも思えるけどね。」

「絶対なんかあったでしょ。教えてよ。」

「話せば長くなるよ。それに、そもそもはぐれる方が悪いね。」

「二人とも見つからなかったの。あの後いっぱい探したんだよ。」

「綿菓子抱えて言うことじゃないよね。」

 陽子は必死になって優介の秘密を明かそうと頑張ったが、とうとう最後まで明かせなかった。


 帰りの電車では硝子だけが違う方面だった。二人に、今日一緒に楽しめたことにお礼を言って別れた。電車の中には浴衣を着た人たちが大勢いた。硝子は窓から真っ暗な夜の景色を眺めた。市街地から少しでも離れると夜はその深さを増す。電車の窓に映るその顔は少し疲れている。しかし、朝に家を出たときとは違う、自分でも知らない表情をしていた。人は、今まで生きてきた中で一番楽しかったと思えるとこんな表情をするのか。自分にもそうできる感情があったなんて思ってもみなかった。優介に言われた何気ない一言が頭から離れずにいた。


十五

 夫婦みたいだね。

 優介の声が、耳の奥で何度も小さく響いた。あれはただの冗談だ。硝子はそう考えた。優介は誰にでもああいうことを言える人なのだろう。実際、陽子にも自然に冗談を言う。あの子供にもすぐに近づいていった。自分だけが特別というわけではない。

 それなのに、どうして自分はこんなにもその言葉を覚えているのだろう。 

 硝子は窓の外へ視線を逃がした。夜の景色はほとんど黒く、たまに街灯が流れていくだけだった。その一瞬の光に、祭りの提灯を思い出した。迷子の男の子の小さな手。射的の台。優介が子供を抱き上げた腕。陽子の大きな綿菓子。千代子が作ってくれた金魚の浴衣。

 今日一日の出来事が、ひとつずつ胸の中に並んでいく。

 どれも、今までの硝子なら避けていたものばかりだった。人混み、会話、子供の泣き声、誰かに褒められること、誰かと並んで歩くこと。その全部が煩わしいはずだった。なのに、今は名残惜しい。来年もまた夏祭りに行くのなら、そのときもあの二人と一緒がいい。

 そう思った自分に対しても、硝子は気づかないふりをした。


十六

硝子が家に帰ってきたときには夜も静まっていたが、千代子は待ちかねたように出迎えた。

「お帰りなさい、硝子さん。」

「ただいま。」

「今日はどうでした?」

「どうって、楽しかったわ。」

「そうですか、それは良かったですね。浴衣が似合ってますね。」

 千代子は満面の笑みを硝子に浮かべてきた。その笑顔を見て硝子には急に千代子が年老いたように思えた。笑ったときにこんなにも顔に皺がいく人だったか。この人の顔には年齢のわりに、というのだろうか、年齢が醸し出す美しさ、千代子にしか出せない美しさがあったはずだ。しかし今日はいつもと違ってどことなく醜い。

「こんな夜中まで起きていたのね。」

 硝子は千代子に寝ておいてもらいたかった気分であった。さっきまで硝子は、自分には縁のないものだと思っていた世界の中にいた。提灯の灯り、人の声、陽子の笑顔、優介の何気ない冗談。どれも硝子の日常にはなかった。眩しくて、騒がしくて、疲れるもののはずだった。それなのに、帰りの電車の中でもまだ、そのひとつひとつが胸の中できらきらと残っていた。

 だからそのまま眠りたかったのだ。誰にも何も訊かれず、何も説明せず、楽しかったという事実だけを胸にしまって、今日という一日を終えたかった。

 しかし千代子の顔を見ると、硝子は急に現実へ引き戻されたような気がした。広い家、静かな廊下、いつもの居間、いつもの祖母。祭りの喧騒から遠く離れたこの場所に戻った途端に、さっきまで自分がいた世界がやはり自分がいるべき場所ではなかったかのように思えてしまうからである。

 けれど、その夢のような時間の中に、自分を送り出したのは他でもない千代子だったと硝子は分かっていた。金魚の浴衣を用意し、帯を何度も直し、玄関で見送ってくれたのは千代子だった。そのことを分かっているからこそ、余計に顔を合わせづらかった。

 感謝しなければならない。でも、感謝の仕方が分からない。楽しかったとただ素直に話せばいいのだろう。でも、その楽しさを言葉にした瞬間、その楽しさが千代子のものになってしまうような気がした。だから硝子は、千代子にはもう眠っておいてほしかった。

「だって硝子さんが夏祭りに出かけられるなんて。それもお友達お二方と。私も自分のことのように嬉しくてずっと眠れずにいましたの。」

 硝子には少し大げさなような言葉に聞こえた。

「硝子さんがそうして羽を広げて、のびのびとしていてくれると安心します。」

「じゃあいつもの私といると、ずっと落ち着かなかったってことね。」

「…そういうわけではないのですけれど。」

「けど?」

「けれど、いつも硝子さんは難しい顔をして難しいことを考えてそうなので、もっと毎日を楽しんでもらえたらなと思います。」

「余計なお世話ね。」

 千代子に伝えたい言葉はそうではなかった。頭ではわかっているのに、硝子の口を通すと違う言葉に変換されてしまう。それが悔しくて、悲しくて、硝子はさっさと自分の部屋へ戻った。そしてますますその整った顔を冷たくした。


十七

 暑さはとうに過ぎ去り、風に冷たさを感じる季節のある日、珍しく千代子が寝坊をした。今まで一度も硝子が千代子より早くに起きたことなどなかったのに、その日は硝子が家を出る直前になって慌てて、

「硝子さん、いってらっしゃい」

 と言ってきたのだった。夏祭りの一件以来、千代子とあまり口をきかないことにしていた硝子であったが、そのときは思わず

「いってきます。」

 と挨拶を返した。それほど珍しいことだった。

 学校に着いてから硝子は何気なしに朝の出来事を陽子と優介の二人に話した。

「それは変だね。人間だから時々失敗することはあるかもしれないけど。」

「でも、あたしなんか毎日朝起きられないもん。たまにはゆっくり寝たいって思う気持ち、よく分かる。」

「そういうことならいいんだけど。」

 硝子の表情は暗かった。

「様子がおかしかったの?」

 優介が訊いた。

「おかしいといえばそうね。決して慌てるような人じゃないし…。」

 考えすぎだ。硝子はそう思った。千代子が寝坊をしたからといって何か問題があっただろうか。あるはずはなかった。だから硝子は今日のことは深く考えないようにした。


「ただいま。」

 硝子が家に帰っても千代子はいなかった。こういう状況は今までも時々あった。だから別段心配する必要はないのかもしれないが、最近では千代子の不在が多いような気がした。硝子は自分の部屋に入り、椅子に座り、本を読もうと手に取るもどうも落ち着かなかった。無理に読み進めてみても視線が文字の上を滑るばかりで、本の内容が全く意識に入ってこなかった。なぜこんな些細なことの連続で頭が悩まされるのだろう。硝子は自分がいかに小さい人間であるかを知覚した。

 そのとき、千代子の声が聞こえた。

「ただいま帰りました。」

「おかえりなさい。」

 不意に千代子にはっきり聞こえるように言ってしまった。

「ただいま。」

 もう一度返事する嬉しそうな声が聞こえた。


 その夜、硝子は部屋の扉を少しだけ開けたまま本を読んでいた。普段ならそんなことはしない。千代子の気配が廊下を行き来するたびに、頁の上の文字が少しだけ遠くなる。

 しばらくして、台所の方から小さな物音がした。茶碗を置く音ではなかった。何かを落としたような、乾いた音だった。

「お婆ちゃん?」

 硝子は自分の声に驚いた。いつもなら千代子のことをお婆ちゃんとは呼ばない。

「大丈夫です。」

 すぐに返事があった。声はいつも通り穏やかだった。しかし、少しだけ息が混じっているように聞こえた。硝子は扉を開け、長い廊下を見た。千代子は台所の椅子に腰かけていた。手元には薬袋のようなものが見えた。硝子が近づこうとすると、千代子はそれを素早く袖の下へ隠した。

「何を隠したの。」

「何も隠していませんよ。」

「今、何か持っていたでしょう。」

「これですか。これはただの常備薬です。年を取ると、いろいろと必要になりますから。」

 千代子は笑った。硝子はその笑顔に嘘が混じっていると思った。けれど、それ以上踏み込むことができなかった。踏み込むことは、相手に近づくことだ。近づけば、自分の中の何かも見せなければならない。硝子はそれが怖かった。

「具合が悪いなら、そう言えばいいのに。」

「悪くありませんよ。」

「そう。」

 会話はそこで終わった。硝子は部屋へ戻り、また本の続きに目を落とすが、頁をめくる手は動かなかった。


 常備薬と言っていた袋を直す千代子の背中が小さく見えた。前からそうだったのか、それとも今日急にそう見えたのか分からない。いつも家の中にいて、いつも自分を出迎えてくれて、いつも変わらないと思っていた人が、本当は少しずつ変わっていたのかもしれない。


十八

 吐く息が白くなり、夜の底がすっかりと冷えるようになっていた。千代子は寒さが応えるらしく厚着をしていた。

「お若いってやっぱりいいですね。少しも寒そうにしませんものね。」

 千代子が制服姿の硝子を見て言うのだった。硝子は言葉を返さなかった。未だに硝子は千代子との仲を悪くしているのであった。

「今日は早くに帰ってくるんですか?」

「どうしてそんなこと訊くの?」

「……いいえ。ただ知りたくなったものですから。」

「どうしたの?このごろ変ね。」

 千代子の顔色が少し暗くなったように見えた。

「いつも通りですよ。」

「そう。」

 玄関の扉を開けて出ようとしたときだった。

「硝子さん。」

千代子が呼び止めた。

「なに?」

硝子は驚いた。声がいつもよりも大きく、呼び止める語調には丁寧さがなかった。

「硝子さん、あなたはなんにも我慢しなくていいんですよ。あなたが本当にやりたいことがあれば、それを全力でやればいいんですよ。こう言うと楽天的だと嫌がられるかもしれませんが、もっと楽しく生きてください。」

 硝子の気持ちは掻き乱された。

「それ前にも言ったよね。そういうこと言われるの嫌いなの。」

 硝子は思わずあふれそうになる気持ちを必死に抑えながら応えた。

「でも言わずにはいられない気がするんです。硝子さんには私が見えているだけでも良いところが沢山あります。私には見せてはいただけない良いところも沢山あると思っています。ですから、自分を抑えつけるようなことはもうやめてください。」

「別に無理にこんな人間をしているわけじゃないわ。」

 そう言って玄関の扉を力いっぱいに閉めた。雪の降る静かな朝に荒々しい音が悲しかった。硝子の眼には涙が浮かんでいた。なぜあんなにも急に、自分の一番嫌っていることを言うのか、硝子には分からなかった。家の近くの公園に行った。朝のこの時間には誰もいない。そこで硝子は泣いた。溜まっていた怒りを全部吐き出すように。何をするにもずっと独りだ。

 その日、硝子は学校を休んだ。公園のベンチは冷たかった。硝子はそこに長い間座っていた。雪は積もるほどではなかったが、髪や肩に触れては溶けていった。指先は感覚を失い、頬だけが熱かった。


 ひとしきり泣いて平静さを取り戻した硝子は、家に帰らなければならないと思うようになった。しかし、そう思うたびに玄関の扉を閉めた音が耳の奥で鳴り、素直に千代子に会いに行くことができなかった。何を言えばいいのか分からなかった。ごめんなさい、と一言言えば済むことなのかもしれない。しかし、その一言を言うにはあまりに自分の心が乱れていた。

 昼を過ぎても、硝子は公園にいた。こんなとき陽子ならどうするだろう。今すぐ陽子に助けを求めたかった。優介ならどうするだろうか。優介に相談すればきっと自分の力になってくれるはずだと思った。しかし、困っていると言える相手がいることにも、硝子はまだ慣れていなかった。

 夕方になり、ようやく家へ帰る気になった。謝ろう。お婆ちゃんに謝ろう。自分は楽しく生きることができるかどうかは分からない。自分の本当の気持ちを抑えているのも確かだった。けれど、あんな言い方をする必要はなかった。

 謝らないと。硝子は立ち上がった。体は冷えきっていた。けれど、胸の奥には火花のような決意があった。家までの道を、硝子は今までになく急いだ。


十九

 その翌日、千代子が死んだ。あまりにも突然のことだったので、最初は何のことかよくわからなかった。あの日、ひとしきり泣いて気分が落ち着いてくると、やはり千代子には謝らなければという思いに駆られた。そしてすぐに家に戻ったのは日が暮れかかったときだった。


 家には千代子がいなかった。そのとき既に千代子は病院に搬送されていた。千代子の主治医から病状や死因などを様々に報告されたが硝子の耳には届かなかった。泣き喚く気力さえ起こらなかった。座っている椅子がまるで粘土のようにぐにゃぐにゃになったような感覚に襲われた。自分と周りの世界が分厚い透明な壁に分断されたかのようだった。ただひとつ聞き取れたことは、千代子は心臓を悪くしており、この病院に通院していたということだった。千代子の帰りが度々遅くなっていたのはそのためだった。


 理由はどうでもよかった。なんでいつもより帰りが遅かったのか。なんで寝坊なんかしたのか。なんであんなに厚着だったのか。訊いたって言おうとしなかっただろうけど訊いておけばよかった。私がもっと良い子で、言われたことを素直に聞いておけば、こんなことにはならなかったんじゃないかな。扉を思いっきり閉めたからびっくりして病気が悪化したんじゃないかな。昨日、もっと早く帰ったらよかった。そうしたら謝れたのに、でも今日だからもう謝れない。くだらないことで喧嘩するんじゃなかった。もっと仲良くしておけばよかった。それもこれも全部昨日だったら。それもこれも全部今日だから。どれ程後悔したって、どれ程泣いたって、過ぎ去った時間は元には戻せない。


二十

 葬儀の日のことを、硝子はほとんど覚えていなかった。


 黒い服を着た大人たちが何人も家に来た。誰もが硝子に優しい言葉をかけた。大変だったね。しっかりしてね。お婆さまも心配しているでしょう。どれも悪意のない言葉だった。悪意がないからこそ、硝子には返す言葉がなかった。

 陽子も優介も来てくれた。陽子は硝子の顔を見るなり泣いた。優介は黙って頭を下げたあと、硝子の少し離れたところに立っていた。二人とも、何かを言おうとして、何も言えない顔をしていた。しかし、硝子は泣かなかった。泣くべき場所で泣けない自分を、また少し嫌いになった。


 葬儀が終わってから、家は急に広くなった。千代子がいないだけで、廊下の長さも天井の高さも変わってしまったように思えた。自分の部屋に戻ると綺麗に折り畳まれた浴衣があった。夏祭りのあと、千代子が丁寧に洗い、皺を伸ばし、しまう前に風を通してくれたものだろう。白地に泳ぐ2匹の金魚は、あの夜と少しも変わらない顔をしていた。硝子はそれを手に取ることができなかった。その布には千代子の手つきが残っているような気がしたからだ。帯を直す指。襟元を整える声。変じゃないかと訊いた自分に、胸がいっぱいになったような顔をした千代子。あのとき、もっと素直に喜べばよかった。似合うと言ってくれてありがとう、と言えばよかった。夏祭りは楽しかったと、もっと話せばよかった。


 浴衣は何も言わなかった。ただ静かに畳まれて、そこにあるだけだった。硝子はその浴衣を自分の手でしまえなかった。


 次の日の朝になっても「いってらっしゃい」は聞こえない。

 その日の夜になっても「おかえりなさい」はもう聞こえてこなかった。


 硝子は学校へ行こうと何度も制服に袖を通したが、玄関の前で立ち止まってしまう。扉を見ると、あの日の音が蘇る。荒々しく閉めた扉。その向こうに残した千代子の顔。次の日も、その次の日も、硝子は家を出られなかった。やがて食事をしなくなった。眠っているのか起きているのかも分からなくなった。陽子と優介は何度か家まで来てくれたが、硝子は会わなかった。会えば、二人が優しい顔をするに決まっている。その優しさに触れたら、自分はもう形を保てない気がした。


 ある朝、硝子は廊下で倒れていた。千代子の部屋の前だった。何をしにそこへ行ったのか、硝子自身にも分からなかった。ただ、そこに行けばまだ千代子がいるような気がしたのかもしれない。


 気づいたときには、病院の白い天井が見えた。


二十一

 入院後も硝子には無気力な状態が続いていた。何も口にすることができなかった。何も話せなかった。医師たちは硝子の心身の衰弱を重くみた。陽子と優介が見舞いに来ても、表情ひとつ変えなかった。硝子のことを二人は心の底から心配した。


 しかし、入院してから幾日も経ち、回復の見込みがないように思われていた日の朝のことだった。若い看護師が硝子の様子を見に行くと、硝子が窓辺で気持ち良さそうに朝日を浴びていた。

「すみません。わたしはどれくらい眠ってましたか。」

 前までとは明らかに表情が違っていた。以前の硝子にはなかった充足した表情をその顔に湛えていた。

「ええと…。ずっと起きてましたよ。」

「ずっと?おかしいわね、入院してからの記憶がないんですけど。」

 硝子が静かに言った。

「あの、今から主治医の先生を呼んできます。」

 思い出したように看護師が半ば駆け足で病室を出て行った。


 しばらくして主治医とさっきの看護師がやってきた。その医師は清潔感のある、人当たりの良さそうな人だった。背も高かった。

「気分はどうですか。以前と比べてとても元気そうですね。」

 笑顔で訊いてきた。何はともあれ、硝子の病状が回復してとても嬉しそうだった。

「以前よりも元気です。」

「そうみたいですね。元気になって本当に良かったです。若いのに…、大変な苦労がありましたね。そのことは覚えていますか?」

「はい、覚えています。」

「君の過去のことは色々と聞いたりはしないけど、ひとつだけいいですか?どうしていきなり症状が良くなったんだろう。思いあたることはあるかな?無理しなくてもいいけど、もし話せそうなら先生たちにだけこそっと教えてほしいな。」

医師と看護師は同時に微笑んだ。二人とも人間が美しかった。

「夢を見ました。」

「ゆめ?」

「はい。とても鮮明な夢でした。お婆ちゃんがわたしの寝ているベッドの横に立っていたんです。心配そうな顔をしていました。わたしはずっとお婆ちゃんに会いたかったので思わず顔がほころんで、笑顔になりました。するとお婆ちゃんはもっと嬉しそうな笑顔を浮かべました。

 それからわたしは昨日はごめんと素直に謝りました。実際は『昨日』じゃなかったんでしょうけど。そしたらお婆ちゃんは、あなたは悪くありません、前から言っていたように、あなたが良い人なのはわかっていましたからって言って許してくれました。

 すると急に心が軽くなって何でも話したい気分になったんです。学校の友達のことやその友達とした他愛もない会話のこと。夏祭りで楽しく過ごせたのはお婆ちゃんが作ってくれた浴衣のおかげだってことも話せました。

 本当はお婆ちゃんが生きているときに話せばよかったような取るに足りない話ばっかりでした。けれど、お婆ちゃんはすごく喜んでくれました。うん、うん。それで、その次は?って。お婆ちゃんとあんなに話したのは今回が初めてでした。それが夢の中で残念でしたけど。」

「そうか、そんなことがあったんだね。今日初めて会った人から言われてもだけど、君のお婆ちゃんに対する気持ちはちゃんと伝わっていると思いますよ。ほら、この看護師さんがあなたの話を聞いて泣いてしまってるくらいですから。お婆ちゃんは亡くなった後も、いや亡くなったからこそ、いつも君の側にいてくれています。ちなみにこの人、実は君が中々回復しないから毎日心配してたんだよ。」

 医師は優しく笑い、目鼻立ちの整ったその看護師は顔をくしゃくしゃにして泣いてくれていた。その二人に硝子も涙ながらに笑い返した。自分にはこんなにも心配して、こんなにも親身に話を聞いてくれる人がいるということに、素直に感謝することができた。


 硝子はいますぐにでも退院して陽子と優介に会いに行きたかった。しかし、医師と看護師の両方に止められた。まだ色々と検査を受ける必要があり、退院はそれからなのだと。

 話を終えた二人がそろって病室から出て行った。医師は硝子の病状が回復してニコニコしていたが、看護師の方はまだ涙がおさまらないようであった。硝子の頭の中でなんとなく、自分の両親とあの二人の面影が重なった。


二十二

「久しぶりだね、ショーコ。入院してたときお見舞いに行ったんだけど、全然反応がないからさぁ。あのときはどうなることかってすごく心配したんだよ。優介と二人で、ね。」

「そう。正直に言うけど病室を出てから人目を気にせずに泣いたね。」

「そうなの?」

硝子が笑いを吹き出しながら訊いた。

「そりゃそうでしょ、ショーコ。あたし泣くの我慢してたのに隣で大声で泣くから…。僕が夏祭りなんかに連れて行くからあんなことになったんだって。それ聞いてあたしも泣いちゃったんだよ。」

「大声は余計だけどね。ちなみに陽子はそんな僕より号泣してたよ。」

そうして三人一緒に笑った。

「今となっては笑い話ね。」

 しかし、陽子と優介はうかない顔をした。

「そうでもないよ。お婆さんのこと、辛いね。」

「うん、そうね。悲しくないって言ったら嘘になるけど、ふたりが思ってるほどは悲しんでないわ。」

「えっ、なんで?」

「わたしのことを診てくれたお医者さんが言ってくれたの。いつでもわたしの側にいてくれてるって。これからもずっと心の中で生きていてくれる。またあの浴衣を着られるのが楽しみだわ。」

 そこで優介が優しく笑った。

「硝子さん、強くなったね。」

「ええ、そうね。自分でもそう思う。」

「元気になって本当に良かった。でも、これから先は何かあったらすぐに僕たち二人に相談してよ。絶対に硝子さんの力になるから。」

「優介はいつも優しいね。それじゃあまた来年の夏祭りに連れて行ってほしい。あのとき行けなかった場所に行きたいわ。」

「覚えてくれていたんだ。」

 優介が少し嬉しそうに言った。

「忘れるわけない。あのとき、これからどこに行くんだろうって少し不安がったけど、でもとても楽しかった。」

「僕も。硝子さんとふたりきりで一緒に歩けて嬉しかった。」

 そう言って優介は笑った。硝子も小さく笑った。その笑顔を見て、陽子が少しだけ二人を見比べた。いつものように大きな声でからかうこともできたはずなのに、そのときの陽子は何も言わなかった。ただ、満足そうに頬を緩めた。

 硝子はその視線に気づいた。

「陽子、どうしたの?」

「ううん。なんでもない。」

「陽子がそう言うときは、何かあるときでしょう。」

「え、あの、ひとつ気づいたことがあってね。」


 そう言ったとき、授業の開始を知らせるチャイムが鳴った。優介は自分のクラスに戻っていき、陽子は硝子の隣の席に着いた。

「話の続き、聞かせてほしいわ。」

「え、いいの?自分ではあんまり自信ないんだけどね。」

「いいから聞かせてほしい。」

「わかった。」

 陽子は照れくさそうに笑った。

「ショーコ、覚えてるかな。あたしに自分の『陽子』って名前の意味を教えてくれたよね。太陽のように周りの人に温かくて明るい光を与えられる人だって。」

「ええ、覚えてるわ。」

「あたし、あれからずっと考えてたの。じゃあ、『硝子』ってどういう意味なんだろうって。」

 陽子は窓の方を見た。冬の光が、教室のガラスを通って机の上に落ちていた。

「ガラスって、たしかに割れやすいかもしれない。冷たいって思われることもあるかもしれない。でも、それだけじゃないよね。」

 硝子は黙って陽子の顔を見ていた。

「ガラスは、光を通すんだよ。外の景色を映すして、ガラスの向こう側にあるものもちゃんと見せてくれる。」

「……。」

「傷つきやすくてもいい。冷たく見えてもいい。無理に明るくならなくてもいい。それでも、いつか誰かの光を受け取って、自分の中を通して、ちゃんと周りの人に光を返せる。そういう人になってほしいって願いが込められた名前なんじゃないかな。その光があたしだったら嬉しいな。」

 陽子はそこで恥ずかしそうに笑った。

「やっぱりうまく言えないけど、あたしはそう思う。ショーコは、何も感じてない人なんかじゃないよ。ちゃんといろんなものを見てるし、ちゃんと受け取ってる。ただ、それを外に出すのが苦手だって自分で思いこんじゃってただけなのかなって。」

「陽子。」

 硝子が微笑みながら言った。

「ん?ショーコ、どうしたの?」

 硝子の目から、大粒の涙が溢れた。

「わたし、陽子と出会えて本当に良かった。ありがとう。自分の名前が、やっと好きになれた。」

「こっちこそ、硝子と友達になれたあたしの方がうれしい。ほんとにありがと。」


 硝子と陽子、ふたりの少女があどけなく笑った。


(終)

 この物語は、前書きで引用した「エウテミア」に至った人たちを表現したいという思いで作成しました。

 「エウテミア」とは何ものにも動かされない内心の平安を意味します。

 この物語を書いていくうちに、本当の平安とは何も感じなくなることではないということに気づきました。

 悲哀や動揺、恋慕、喪失、再生。そのすべてが自分にとってなくてはならないものだと悟り、静かに生きていけること。

 それこそが、硝子がたどり着いた平安だと感じました。

 硝子が自分の名前を好きになれたように、この物語を読んでくださった方の中にも、自分では欠点だと思っていたものを、ほんの少し違う角度から見つめ直せる瞬間があれば嬉しく思います。

 

 最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。

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