利用されるくらいなら、悪女と共に盤をひっくり返しましょう
重厚なドアが閉まる音が、応接室の空気をひどく硬くした。
「お呼びですか、師団長」
リエラ・グランヴェールは、まるで昼下がりの散歩の続きをするような足取りで椅子に腰を下ろす。
ヴァルター・グリムは、背後に衛士を下げ、ゆっくりと机の向こうから彼女を見据えた。
「今回の作戦……あまりに出来すぎている。君の才を疑っているわけじゃないが、気になってね。色々と」
「それは光栄なことです。女が一つ功績を立てるたびに、男たちはまず“偶然か?”と疑い、次に“誰の指示か?”と聞き、最後には“何を企んでいる?”と言い出します」
ヴァルターは口元をわずかに歪めた。
「企んでいることはあるのか?」
「企んでいない者など、上層にはいないでしょう」
挑発とも皮肉とも取れるリエラの言葉に、ヴァルターは一瞬、口を閉ざした。
「……あの峡谷作戦。報告では“予測不能な崖崩れ”だったとあるが、あれは本当に偶然か?」
「記録にはそう書きました」
「だが君の戦歴を見ると、地形操作にも長けている。しかも今回、補給線の断絶にも関わらず、随所で最小限の損耗で勝っている。あまりに都合が良すぎると思わないか?」
リエラは膝の上で指を組み、真っすぐにヴァルターを見返す。
「ええ、まさしく、“都合のいい偶然”だったのでしょう、師団長。……先の作戦で灰中隊が“偶然にも”敵の主力部隊にあんな状況で対峙したように」
ヴァルターの眉がわずかに動いた。
「……ほう。口が立つ」
「それだけが私の取り柄ですので」
ヴァルターは椅子の背にもたれた。
静かに目を閉じ、数秒後、言葉を吐いた。
「レオン・アークライトには、君が必要以上に肩入れしていると報告がある」
「“必要以上”とは、どなたの基準で?」
「私のだ」
リエラはわずかに笑った。
「彼は、必要です。生かす価値のある“戦力”です」
「……あまり私を軽んじないことだ。君が何を考えているにせよ、私が“必要ない”と判断した時点で、それが最終決定となる」
それは、脅しだった。だがリエラはまったく怯まない。
「師団長。……一つ、お伝えしておきます」
リエラは立ち上がり、机越しに一歩近づく。
「盤面の駒は、ただ配置されるものではなく、時に盤面そのものをひっくり返します」
そして、涼やかな微笑を浮かべて言った。
「今はまだ、私は貴方の駒かもしれません。ですが――盤を揺るがす日が来るかもしれませんわ」
リエラが去った応接室。ヴァルターは立ち上がり、側近を呼ぶ。
「……やはり、予定より早く動く必要があるか」
部隊本部の裏庭は、夜になるとほとんど人の気配が消える。
魔術通信の感知を避けるため、リエラはそこを“話す場所”に選んでいた。
「……つまり、師団長は更に次を仕掛けてくると?」
レオンは木のベンチに腰を下ろし、リエラからの報告を反芻するように繰り返した。
「ええ。『成果を出しすぎた駒』は、何よりも処理が難しいから」
リエラは隣に立ち、夜風に揺れる黒髪を耳にかけた。
寝む前だからかいつもはまとめられている髪がおろされている。ふわりと花の香りがした。
「……あなたが、予想以上に目立ってしまった。そういう人間は、嫌われるのよ」
「誉め言葉か、それは?」
「ええ、ちゃんとした意味で。私が想定していたより……ずっと早く成長している」
レオンは苦笑した。
その視線は地面の砂利に落ちていたが、やがて小さな声で問うた。
「……リエラ。お前は、俺を“使っている”だけじゃないのか?」
リエラの目がわずかに揺れた。
「……それ、気にしていたのね」
「まあな。“悪女”ってのは、お前の噂でもあるし。俺が“使われてる”だけなら、少し冷めるだろ」
リエラは答えず、代わりにそっとベンチの隣に腰を下ろす。
肩と肩が触れるほどの距離。だが、不思議とそれが自然に感じられた。
「私が使ってるのは、あなたの“才”よ。あなたの“意思”ではないわ。あなたは、命令じゃなくて、自分の意志で隣にいる。それが、私にとって一番都合が悪くて……ありがたいの」
「……それ、どういう意味だ?」
「私が全部決めるように見えて、あなたは私の掌に乗らない。ちゃんと、自分の頭で考える。その上で、私と組もうとしてくれる。それが……たまに、腹立たしいくらいに、嬉しいの」
しばらく、夜の静けさが二人を包んだ。
レオンは言葉を探すように、少し息を吸ってから言った。
「俺は、お前と戦いたいわけじゃない。……お前と、勝ちたいだけだ」
リエラは一瞬、レオンの顔を見た。
そして、珍しく少しだけ目を伏せて、小さく笑った。
レオンの胸が、小さく跳ねた。
「……じゃあ、一つ“本気の策”を共有しましょうか」
彼女が取り出したのは、一枚の紙――地図と報告書を掛け合わせた、手描きの戦術構想案だった。
「これは次の配置替えの予測。おそらく、私たちは別部隊に飛ばされる。意図的に、味方との連携が途切れる配置」
「つまり、次こそ捨て駒ってことか」
「ええ。でも、その場こそ……私たちが舞台を創る好機」
リエラの目が、月明かりに照らされて静かに光った。
「使われる側で終わりたくないなら、こちらから使い始めるの。次の一手は、私たちの番よ――レオン」
翌日、レオンとリエラの所属が発表された。
【東部前線・孤立駐屯地〈サイル峡谷〉】。
補給線が脆弱であり、上層部でも“戦死処理が容易な現場”として知られている場所だった。
隊員たちがざわつく。天を仰ぐ者、何やら祈りだす者。
「いっそ見事な捨て方だな……」
配置命令書を眺めながら、レオンは苦笑した。
リエラは一言「予想通り」とだけ言って、すでに新たな地図を広げている。
「サイル峡谷――地形は複雑だけれど、読み筋はあるわ。逆に、ここなら“封じ込める側”を騙す余地がある」
「奴の意図は“こっそり始末する”ことだろ。救援も支援も届かない状況にして、後から“自然な戦死”ってことで処理する」
「だからこそ、“自然に見せて、意図的に崩す”。つまり――こちらから罠を受け入れてみせて、裏をかくの」
リエラは昨夜の構想案をテーブルに広げ、指先で地図をなぞりながら語り始めた。
■リエラの作戦案(概要)
「囮と見せかけた偽装離脱」
小隊を“本隊”と見せかけて敵の奇襲を誘発。レオンとリエラは別行動で待ち伏せ。
「通信遮断の偽装」
部隊の通信が“完全断絶したように見せかける”装置を手配(裏ルートから調達)。敵に「救援不能」と誤信させる。
「味方の裏チャンネルによる録音と記録」
“ヴァルター側の指令が不自然であった証拠”を、現場の記録として残す。上層部の別派閥(リエラの旧知)に届ける用意を進める。
「予告なしの局地制圧」
あらかじめ見抜いていた補給所の迂回路を使い、敵の司令部を短期制圧。戦果として“完全に失敗扱いできない”状況に追い込む。
「この作戦……リスクも高いぞ。そもそも、俺たちが生き残れる保証はない」
レオンの言葉に、リエラはじっと彼を見つめた。
「でも、ただ捨てられるのは、もっと嫌でしょう?」
しばらくの沈黙。
レオンはため息まじりに、地図の一点を指差した。
「ここ。奇襲を誘うなら、崖の稜線を使えばいい。敵が気付く前に、奴らの足元を崩せる。……お前の“得意技”だろ?」
リエラは微かに目を見開き、次の瞬間、笑った。
「……レオン。あなた、だんだん悪くなってきたわね」
「そりゃあ、誰かさんの思考パターンがうつったんだろ」
リエラは、その冗談めいた一言に、少しだけ真剣なまなざしで応じた。
「言ってくれるわね……さあ、“想定通り”に終わると見せて、ひっくり返してあげましょうか、レオン?」
レオンは、眼前に広がるサイル峡谷を見下ろした。
深い谷底は薄い靄に覆われ、底知れぬ深淵を思わせる。まるで、自分たちが放り込まれる『捨て場』そのものだ。
冷たい風が頬を撫でるが、それは物理的な寒さだけではない。この場所が持つ、圧倒的な孤独感が彼の心に重くのしかかった。
しかし、隣に立つリエラは、その殺風景な景色を、まるで新たな舞台装置でも見るかのように静かに見つめている。
サイル峡谷・前哨拠点の仮設作戦室。
地図の上に、赤と黒の小さな駒が並べられていた。
「すっかり囲まれているな」
レオンが皮肉混じりに言うと、リエラは指先で駒をひとつ、横に倒した。
「相手の領地に入り、支配領域を削っていく。ほぼ捨て身ね。」
「そして退路には師団長が差し向けた“処理班”。……これもわかってたのか、やっぱり」
「ええ。“ヴァルター将軍の密命”――三日前には、もう把握していたわ」
そう言って、リエラは懐から一枚の紙を取り出した。
それは、偽造された命令書の下書きだった。ヴァルターが用意した、リエラに不利な“戦局攪乱の証拠”だ。
「情報源は?」
「《東部情報管制局・第七観測班》の副主任。昔、少し借りを作らせたの」
「お前、何者なんだよ……」
レオンは天を仰いだが、リエラはくすりと笑った。
「ただの“悪女”よ。でも、月並みな悪女のように捨てられるつもりはないわ」
■リエラの反撃計画(概要)
“裏部隊”の配置情報を逆探知し、先回りして待ち伏せを構築
→ レオンの防御魔術と偽装術で“崖上から崩す”ギミックを仕掛ける。
ヴァルターが用意した“戦死偽装証拠”をあえて持ち出し、別派閥へ提出
→ 上層部の中立勢力に提出することで、“第三者の目”に触れるようにする。
“味方の撤退命令無視”を逆手にとり、レオンを“現地で戦果を上げた英雄”に
→ 通信記録と敵の撃破報告をセットで提出。命令違反が逆に評価されるよう誘導。
「ねえ、レオン。あなた、本当に馬鹿ね」
「急に何だ」
リエラは、戦略盤に立てた赤い駒を倒した。
「私に“使われる”覚悟で、協力してるつもりかもしれないけど……あなた、気づいてないわよ。――もう、私の計画に口を出す立場じゃなくなってるってことに」
「それ、どういう意味だよ」
「あなたの一手がないと、この作戦は成立しないの。つまり――共犯よ。私と、ね」