第23話 祈りのそばに
私は、朝が好きだ。
まだ誰も起きていない時間の空気は、ひんやりしていて、
世界が一度だけ深呼吸したみたいに静かになる。
祈るなら、この時間がいちばん落ち着く。
村の外れにある小さな礼拝堂。
壁は古く、床にはひびが走っているけれど、
私はこの場所が好きだった。
誰も飾らない静けさが、そこにある。
「……今日も、何事もありませんように」
声は自然と小さくなる。
願いというより、挨拶に近い。
「今日もよろしくね」と、世界にそっと触れるみたいな気持ち。
祈りを終えて立ち上がると、
祭壇の蝋燭が昨日より少し短くなっているのに気づいた。
誰かが昨日、ここで祈ったのだ。
胸の奥が、ふっと温かくなる。
「……よかった」
誰かが、ちゃんと来てくれている。
それだけで、今日はいい日になる気がした。
外に出ると、朝の空気が頬を刺す。
畑へ向かう途中、背後から声がした。
「おはよう、エリシア」
振り返ると、隣家の老人が立っていた。
腰は曲がっているけれど、目はいつも穏やかだ。
「おはようございます。
今日は、調子はいかがですか?」
「まあまあじゃ。昨日よりは痛まん」
「それは、よかったです」
それ以上、言葉は続かない。
でも、それで十分だった。
この村では、そういう静かな関係が自然で、私はそれが好きだった。
家に戻ると、母が戸口で待っていた。
「遅かったわね」
「ごめんなさい。蝋燭が少し傾いていて……直していたの」
母は小さくため息をつき、すぐに微笑んだ。
「……あんたは、そういう子ね」
朝食は簡素だけれど、温かい。
父はもう畑に出る準備をしていた。
「教会から、また手紙が来てたぞ」
父が、何でもないことのように言った。
私は、手を止めてしまう。
「……はい」
「行かなくてもいい」
その声は強くも弱くもなく、
ただ、私を思っての言葉だとすぐにわかった。
「聖女だの、候補だの。
そんなものになる必要はない」
母も静かに頷く。
「ここにいなさい。
私たちの娘でいれば、それでいいのよ」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
でも、それは嫌な痛みではなくて、
大切にされていることの重さだった。
「……ありがとうございます」
私は一度だけ目を伏せてから、顔を上げた。
「でも……もし、誰かの役に立てるなら。
それを怖がって断るのは……少し、違う気がするんです」
父も母も、何も言わなかった。
ただ、その沈黙が、私を包むように優しかった。
その日から、二人は私を抱きしめるとき、
ほんの少しだけ強くなった気がする。
私はまだ気づいていない。
この静かな日々が、
どれほど尊いものなのかを。
* * *
村の昼は、静かに忙しい。
畑では鍬の音が続き、
家々の軒先では、干した布が風に揺れている。
私は籠を抱えて、村の中を歩いていた。
中身は、焼いたばかりのパンと、
朝に摘んだ薬草が少し。
「エリシア、悪いねえ」
声をかけてきたのは、川沿いに住む女性だった。
足を悪くしてから、外に出るのが難しくなっている。
「大丈夫ですよ。
今日は、よく焼けましたから」
パンを渡すと、彼女は何度も頷いた。
「ありがたいよ……ほんとに」
私は、どう返していいかわからず、
小さく頭を下げただけだった。
感謝されると、少し落ち着かない。
何か特別なことをしているつもりはないからだ。
次の家では、子どもたちが集まっていた。
「エリシア、これ読んで!」
差し出されたのは、文字の練習帳。
まだ、線が震えている。
「……うん。ここ、きれいだね」
指でなぞると、子どもは嬉しそうに笑った。
「ほんと?」
「ほんと」
それだけで、十分だった。
私は先生じゃない。
でも、少しだけ一緒に見ることはできる。
村の中央にある井戸では、
水汲みをしていた老婆が、桶を落としてしまった。
「あっ……」
音に気づいて駆け寄ると、
彼女は困ったように笑った。
「年だねえ」
「大丈夫です」
桶を拾い、水を汲み直す。
手が少し冷たくなった。
「ありがとうね」
私は、首を横に振った。
「すぐ終わりますから」
誰かの一日が、
ほんの少しだけ楽になるなら、
それでいいと思った。
夕方になると、
村の人たちはそれぞれ家に戻っていく。
すれ違うたびに、声をかけられる。
「お疲れさま」
「気をつけて帰りな」
「また明日ね」
私は、その一つ一つに頷いた。
特別な言葉は、返さない。
でも、胸の奥に、静かな重みが残る。
家に戻る途中、
遠くで教会の鐘が鳴った。
その音を聞いて、
私は足を止めた。
なぜだろう。
その日は、少しだけ胸がざわついた。
理由は、わからない。
ただ、
この村の中にあるものを、
ちゃんと覚えておきたい……
そんな気持ちが、ふと浮かんだだけだった。
まるで、何かが変わる前触れみたいに……
そんなことを思ったわけじゃないのに、
どうしてか胸が少しだけ痛んだ。
* * *
昼を少し過ぎた頃、
家の戸を叩く音がした。
こんな時間に訪ねてくる人は、あまりいない。
母が顔を上げ、
父が一瞬だけ私を見る。
私は、その視線の意味がわかってしまって、
立ち上がる前から、胸の奥が少しだけ重くなった。
扉の向こうに立っていたのは、
教会の使者だった。
白い法衣に、胸元の紋章。
その姿を見た瞬間、
村の空気が、わずかに変わるのを感じた。
「エリシア……」
名を呼ばれただけで、
周囲が静かになる。
「王都より、正式な要請です。
あなたを、聖女候補としてお迎えしたい」
声は丁寧で、淡々としていた。
そこに、感情はなかった。
私は、すぐに返事ができなかった。
頭の中で、
朝の礼拝堂の冷たい空気や、
井戸の水の冷たさや、
干された布の揺れが、
ばらばらに浮かぶ。
「……少しだけ、
時間をいただいてもいいですか」
自分の声が、
思ったよりも落ち着いていることに、
少し驚いた。
「もちろんです」
使者は頷いた。
「ですが、
あまり長くは待てません」
それだけ言って、
彼は一歩下がった。
私は、家の中に戻る。
父も母も、何も言わない。
ただ、
母の手が、私の袖を掴んだ。
その力は、強くなかった。
引き留めるためでもなかった。
ただ、
確かめるような手だった。
「……行きたいの?」
母の声は、静かだった。
私は、少し考えてから首を振る。
「行きたい、というより……
呼ばれている、気がして」
それは、本当だった。
使命だとか、
選ばれたからとか、
そういう言葉じゃない。
ただ、
扉を叩かれた以上、
そこに向き合わずにいるのは、
違う気がした。
父が、深く息を吐いた。
「……そうか」
それだけだった。
反対もしない。
賛成もしない。
でも、その一言には、
全部が詰まっていた。
私は、ゆっくりと頷いた。
「少しだけ……
準備をします」
使者は再び頷き、
外で待つと言った。
私は部屋に戻り、
小さな袋を手に取る。
中身は、ほとんど変わらない。
着替えと、
祈りの本と、
村で使っていた小さな紐。
それだけで、
十分だと思った。
家を出る前、
振り返る。
いつもの家。
いつもの光。
いつもの静けさ。
それが、
少しだけ遠く感じられた。
でも、
まだ失われてはいない。
この時の私は、
そう信じていた。
* * *
その夜は、いつもより静かだった。
風の音も、虫の声も、
なぜか少し遠く感じる。
夕食は、いつもと同じものだった。
母の作るスープ。
父が切った固いパン。
味も、量も、何一つ変わらない。
それなのに、
箸を置くたびに、
時間がゆっくりになっていく気がした。
「寒くなるわね」
母が、何気ない声で言う。
「そうだな」
父が、短く答える。
それで会話は終わる。
でも、不自然じゃない。
この家では、
言葉が少なくても困らなかった。
食事を終えると、
母はいつものように皿を洗い、
父は戸締まりを確認する。
私は、その背中を見ていた。
いつも見ているはずなのに、
今夜は、少しだけ目を逸らせなかった。
部屋に戻ると、
小さな灯りだけを残して腰を下ろす。
祈りの本を開く。
でも、文字はすぐに頭に入ってこなかった。
代わりに浮かぶのは、
畑の土の匂い。
朝の礼拝堂の冷たさ。
井戸の水の感触。
ページを閉じて、
本を胸に抱く。
これでいい。
今夜は、それでいい。
戸を叩く音がした。
「……起きてる?」
母の声だった。
扉を開けると、
彼女は私の顔を見て、少しだけ安心したように息を吐いた。
「これ、持っていきなさい」
差し出されたのは、
縫い直された古い布袋。
ほつれていたところが、
きれいに整えられている。
「使い慣れてるでしょ」
「……ありがとう」
それ以上、言葉は続かなかった。
母は、私を抱きしめる。
強くもなく、
離れすぎてもいない。
ただ、確かめるように。
父は、少し離れたところで立っていた。
「無理はするな」
それだけだった。
私は、頷く。
「……はい」
夜が深くなり、
灯りを落とす。
寝床に横になると、
天井の木目が、ぼんやりと見えた。
明日、ここを出る。
そう思っても、
胸が高鳴ることはなかった。
怖さも、
期待も、
まだ、名前を持っていない。
ただ、
この静けさを、
ちゃんと覚えておきたいと思った。
朝が来たら、
私は歩き出す。
それだけのことのはずだった。
* * *
一方その頃、森の奥では……
ライアの膝枕はいつもの定位置だが、
加えて左足を犬っ娘のクレマリーの膝の上に。
右足を狐っ娘のリンクスの膝の上に。
「アリアも全く来ないし、今日も平和だな」
誰に向けたわけでもないその言葉は、
遠い王都の空には、届かない。
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