第22話 選ばれなかった名前
王都ファルミナの朝は、いつもと変わらず始まった。
市は開き、パンは焼かれ、子どもたちは走り回っている。
……ただ一つ、違っていたのは、声の大きさだった。
「……なあ、聞いたか?」
「何を?」
「いや……その……聖女様のことだ」
それだけで、会話は小さくなる。
まるで、名前を口にしてはいけないもののように。
「まだ戻ってきてないらしい」
「討伐に出たまま、だろ?」
「でも、今までそんなこと一度も……」
言葉は途中で止まり、視線が交わされる。
誰も続きを言わない。言えない。
教会の前では、祈りの列がいつもより長く伸びていた。
人々は神像の前で跪き、いつもより長く、深く頭を垂れる。
「聖女様を……お守りください……」
祈りの言葉は、願いというより確認に近かった。
……まだ大丈夫だ、と自分に言い聞かせるための。
酒場では、杯を傾ける手が止まる。
「死んだって話もあるらしいぞ」
「やめろ」
「いや、でもさ……」
否定の言葉は出ても、確信は出てこない。
誰も真実を知らない。
だが同時に、誰も無事だとも言えなくなっていた。
昼を過ぎる頃には、噂は噂ではなくなっていた。
「帰ってこない」
「報せがない」
「つまり、そういうことだろ?」
理由は後付けで増えていく。
不安だけが、先に形を持つ。
そして人々は、気づかないうちに同じことを考え始めていた。
……もし、聖女様がいなくなったら。
その問いは、口に出されることなく、
国中に静かに広がっていった。
まるで、それが最初から決まっていたかのように。
* * *
王都ファルミナ、聖堂の最奥。
厚い石壁に囲まれた会議室には、重い沈黙が落ちていた。
円卓を囲むのは、枢機卿、高位神官、そして各聖教国家の代表者たち。
誰も声を荒らげない。
だが、全員が同じ問題を前にしていることだけは明白だった。
「……民の不安が、予想以上に広がっています」
一人の枢機卿が、書類から目を離さずに告げた。
「市場、教会、地方都市。
どこも同じです。
正確な情報がないまま、“最悪の想像”だけが先行している」
「当然だな」
別の神官が静かに応じる。
「聖女は、ただの戦力ではない。
民にとっては、信仰そのものだ」
誰かが小さく頷いた。
「信仰は空白を嫌う」
その言葉が、会議室に落ちる。
「象徴が不在になれば、
人は勝手に別の何かを拝み始める。
それが恐怖であれ、憎悪であれ、だ」
沈黙が続く。
反論は出ない。
事実だからだ。
「聖女アリアの死亡は報告されている。
だが……それを公式にどう扱うかは、別の問題だ」
「だが……」
別の枢機卿が言葉を継ぐ。
「だからといって、
聖女不在のまま時間を過ごすこともできない」
視線が交わされる。
全員が理解していた。
これは感情の問題ではない。
秩序の問題だ。
「……候補は、いる」
その一言で、空気がわずかに変わった。
「アリア・セレスティアには、妹がいる」
名を出さずとも、誰もが思い当たる。
「血縁」
「正統性」
「象徴としての連続性」
それらは、宗教国家において極めて強い意味を持つ。
「もちろん、正式な選定には手続きが必要だ」
「だが、民に“希望の形”を示すことはできる」
それは、決定ではなかった。
だが、方向性は定まった。
この国は、空白を放置しない。
信仰が揺らぐ前に、次の柱を立てる。
会議は静かに終わった。
誰も勝ち誇らない。
誰も疑問を口にしない。
ただ一つの前提だけが、共有されていた。
……この判断は、必要なものだ。
そう信じることが、
この場にいる全員の役目だった。
* * *
聖堂の中央に、少女は立っていた。
黒い喪服に身を包み、頭を垂れ、両手を胸の前で重ねている。
装飾はない。宝石もない。
ただ、祈りの姿だけがそこにあった。
人々は囁き合う。
「……あの方が」
「聖女様の……妹……」
声は自然と低くなる。
それは敬意というより、慎重さに近かった。
神官が一歩前に出る。
「サラ・セレスティア」
名を呼ばれ、少女は静かに顔を上げた。
その表情に、強さはない。
あるのは、疲労と、悲しみと、そして覚悟のようなものだった。
「あなたは、姉である聖女アリア・セレスティアの血を引く者です」
その言葉に、堂内がざわめく。
誰もが知っている事実だが、
今この場で口にされると、重みが違った。
サラは小さく息を吸い、首を横に振った。
「……私は、姉のようにはなれません」
その声は震えていた。
だが、逃げてはいなかった。
「お姉さまは、強くて……迷いなく、前を向いて……
私はただ、祈ることしかできない人間です」
誰かが、息を呑む音がした。
「それでも……」
サラは、視線を床に落としたまま言葉を続ける。
「もし、この身が必要とされるなら。
私は……逃げません」
沈黙が落ちる。
それは拍手の代わりだった。
賛同の声の代わりだった。
人々は、その姿を見ていた。
聖女の妹としてではなく、
悲しみを背負って立っている一人の少女として。
「……あの方なら」
「仕方がない……」
「血は、嘘をつかない」
言葉は、少しずつ形を持ち始める。
サラは、何も主張しない。
何も求めない。
ただ、祈り続ける。
それが、何よりも“ふさわしく”見えた。
この時、誰も疑ってはいなかった。
……この選択が、
最も穏やかな未来へ続いているのだと。
* * *
会議が終わり、人々が聖堂を後にしていく。
祈りは捧げられ、言葉は尽くされた。
残ったのは、静けさだけだった。
石壁に囲まれた回廊で、数名の高位神官が足を止める。
その中の一人が、わずかに眉をひそめた。
「……本当に、それでいいのか」
誰に向けたとも知れない呟きだった。
「サラ・セレスティア。
確かに血筋は申し分ない。
民の感情も、今はあの子に向いている」
別の者が、静かに頷く。
「だが……」
言葉は続かなかった。
代わりに、別の名が落とされる。
「……エリシア」
その名を聞いた瞬間、
場の空気が、ほんのわずかに揺れた。
「……あの娘か」
「辺境の出だが、評判はいい」
「奇跡を誇るわけではない。
だが、信仰は深く、民にも慕われている」
誰も否定しなかった。
誰も肯定もしなかった。
「だが今は……」
最初に口を開いた神官が、そう締めくくる。
「空気が、彼女を求めていない」
それで、話は終わった。
エリシアという名は、
その場に残されたまま、拾われることなく消えていく。
誰かが彼女を排したわけではない。
誰かが彼女を拒んだわけでもない。
ただ、選ばれなかった。
それだけだった。
この時、その選択が、どれほど多くのものを燃やすことになるのかを……
知る者はいなかった。
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