蜂紫伝14
星理亜は、久しぶりにその部屋の前に立っていた。
かつて自分が暮らしていた場所。
今はもう、生活の気配は何ひとつ残っていない。
靴箱の上に置かれていたはずの小物も、窓辺に吊るしていたカーテンも、すべて処分してある。
それでも、この部屋の契約だけは解約していなかった。
理由は、ひとつ。
次元維持管理局との往来に用いる、彼女専用のゲーㇳが、この部屋に割り当てられているから。
ここはもう、空き部屋と変わらない。
守るものも、隠すものもなく、星理亜は鍵をかけることすらせずに扉を開けた。
床と壁だけが残り、部屋は機能だけを保ったまま、静止していた。
「……相変わらず、静か」
ぽつりと呟いた声が、やけに大きく響いた。
生活をやめた空間というのは、こうも音を拒まないものなのか、と星理亜は思う。
靴下越しに床の冷たさを感じながら歩くたび、その小さな足音だけが、空き部屋同然の空間に反響した。
部屋の奥へ進み、クローゼットの前で立ち止まる。
中には、以前から変わらず、姿鏡が設置されている。
星理亜はクローゼットの扉を開け、鏡の前に立った。
映るのは、竹西中学校の制服姿の自分。
だが、どこか“外側”の人間になったような感覚があった。
この部屋で暮らしていた頃とは、決定的に違う立場にいる。
彼女は制服の内ポケットに手を入れ、小さな立方体――キューブを取り出した。
管理局から支給されている多機能端末。
通信、転送、簡易ゲート制御など、複数の機能を面ごとに切り替えて使用する。
星理亜はキューブの一面を合わせ、姿鏡に向けてかざす。
淡い光が走り、空中に連絡ツールのインターフェースが展開された。
「……あれ?」
表示された瞬間、違和感に気づく。
通信状態を示すアイコンが、点灯していなかった。
「通信障害……?」
一瞬、眉をひそめる。
この部屋は、管理局側のゲートに直結している。
通信遮断など、通常ではまず起こりえない。
星理亜は操作を切り替え、再接続を試みた。
――接続中。
――接続失敗。
もう一度。
結果は同じだった。
星理亜はポケットから、管理局から支給されているスマホを取り出し、画面を確認する。
——異常は、検出されなかった。
わずかに視線が鋭くなる。
星理亜は再びキューブを操作し、ゲート側との接続確認に入った。
だが、管理局側のゲートとのリンクを試みた瞬間、接続は即座に切断される。
星理亜側のゲートは正常に起動している。
――にもかかわらず、向こうとだけが繋がらない。
「そんな……」
小さく息を吐く。
星理亜はキューブの別の面を合わせた。
今度は、ゲート制御用の設定。
通常であれば、この操作で姿鏡が起動し、鏡面が淡く光を帯び、向こう側へ通じるゲートが開門する。
だが――。
何も起こらない。
鏡はただの鏡のまま、光る気配すらなかった。
「……もう一度」
今度は意識的に、操作を丁寧になぞる。
手順も、入力も、間違えていない。
それでも結果は変わらなかった。
部屋にあるのは、静寂だけ。
管理局特有の、あの低い駆動音も、空気の歪みも、何ひとつ発生しない。
「……おかしい」
星理亜は、はっきりとそう思った。
通信が遮断され、ゲートが反応しない。
偶然が重なるには、出来すぎている。
――管理局側で、何かが起きている。
その考えが頭をよぎった瞬間――。
ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴った。
星理亜の肩が、わずかに跳ねる。
ここはすでに生活の場ではない。
家具もなく、生活音もなく、実質的には“空き部屋”と変わらない場所だ。
そんな場所に、今このタイミングで――誰が来るというのか。
しかも、管理局との通信が途絶している、この状況で。
星理亜は一瞬で思考を切り替えた。
キューブを操作し、収納状態にあった光銃を実体化させる。
淡い光を帯びた銃身を握り、足音を殺して玄関へ向かった。
鍵は、かけていない。
だからこそ、即応できる距離で構える。
星理亜はドアのすぐ内側に立ち、光銃の銃口を、音を立てないよう慎重に玄関扉へ寄せた。
金属が触れ合う直前で止める。
呼吸を浅く、一定に保つ。
そして――声だけを、扉の向こうへ投げた。
「……誰ですか?」
一瞬の沈黙。
ドア越しに、わずかな衣擦れの音。
靴底が、コンクリートに体重を預け直す気配。
「……いるか?」
低く、抑えた声。
聞き覚えがあった。
だが、この状況で聞きたい声ではなく、なぜか周囲を警戒している声音だった。
星理亜は返事の代わりに、ドアに寄せていた光銃の銃口をわずかに離し、軽く扉に当てる。
カツン、と小さな音。
それを合図に、ロックを解除した。
扉が開き、部隊長が中へ入る。
足を踏み入れた瞬間、その視線が反射的に部屋全体を一巡した。
遮蔽物、隠しカメラ、ゲート反応。
すべてを一瞬で確認する、戦場の目。
「悪いな」
「なにがあったんですか?」
星理亜は光銃を下ろし問いかける。
「説明する」
短くそう言うと、部隊長は部屋の中央へ進んだ。
椅子も机もない。
二人は自然と、数歩の距離を保ったまま向かい合って立つ。
「……まず、君にも連絡が入っているはずなんだが――」
「連絡?」
星理亜は即座にキューブを取り出し、管理局の連絡画面を展開する。
星理亜側の通信状態は、正常を示す緑。
管理局側は――異常を示す赤。
「たぶん、来てると思うんですけど……今、管理局との通信が取れない状態です」
「……そうか」
部隊長は一瞬だけ目を伏せ、次に顔を上げた。
「なら、私から教えよう」
空気が、わずかに重く沈む。
「君が知っている、私の部隊は――全滅した」
「ぜ……全滅……?」
星理亜の声が、わずかに掠れた。
「この世界に……あれより強い存在が、いたんですか……?」
「あぁ」
部隊長は、否定しなかった。
「しかも、君も知っている相手だ」
「……私も、知っている?」
「あぁ」
短い沈黙のあと、部隊長は名を告げる。
「界渡真だ」
「界渡真……」
その名に、星理亜の記憶が即座に反応する。
今日、転校してきた少女。
命と同時に現れた、もう一人の転校生。
「……今日、転校生が来ました」
「それは、君のところの“例の件”だろ?」
「いいえ。命さんと、もう一人います」
星理亜は一拍置いてから続けた。
「その子の名前は……『錐』で」
一瞬、言葉を選ぶ。
「――界渡真と、名乗っていました」
「…………そうか」
部隊長の声が、わずかに低くなる。
「関係、ありますよね?」
「あぁ。あるだろうな」
部隊長は視線を動かし、姿鏡を見た。
「そこから、向こうへ行けるんだろ?」
「はい。行けます」
星理亜は即答する。
「ですが今は、ゲートの通信接続が途絶えていて、使用不可です」
「通信接続不可……?」
「はい。そういえば、部隊長もスマートフォン、支給されてますよね?」
星理亜は自分のスマートフォンを見せる。
部隊長はポケットから、傷と汚れの目立つスマートフォンを取り出した。
「接続状態は?」
「……緑だな」
部隊長は操作し、管理局へ発信する。
数秒後。
スマートフォンから、発信を拒むような、乾いた通話接続不可の電子音が鳴った。
部屋の静寂に、その音だけが冷たく響く。
「……やはり、か」
部隊長はそう呟き、端末を下ろした。
管理局は、沈黙している。
※
放課後の生徒会室は、昼の喧騒と夜の静寂が混ざり合う、どこか落ち着かない境界のような時間の中にあった。
窓際のカーテンは半分だけ閉められ、細い隙間から差し込む西日が、埃の舞う室内を斜めに切り裂いている。光の当たらない場所には、高く積み上げられた書類棚の影が重く沈み、部屋の奥行きを奇妙に歪ませていた。
遠くのグラウンドからは、運動部の掛け声やホイッスルの音が、まるで別世界の出来事のように微かに届く。その活気溢れる響きさえも、この部屋に漂う独特の「隔絶された日常」をより深く際立たせる装置に過ぎなかった。
「ほんで、界渡真はん。わいもその能力が欲しいんやけど、ダメなん?」
その淀んだ空気を、躊躇なく崩したのは写世だった。
彼は窓枠の縁に危ういバランスで腰掛け、外を眺めるふりをしながら、肩越しに室内へ言葉を投げた。だらしない姿勢、冗談めかした口調。しかし、その手には常に愛用のカメラが握られ、獲物を狙う獣のような鋭敏さを隠し持っている。
「シラホさんと同じ答えになりますが。無理ですね」
界渡真は、視線すら上げずに答えた。
デスクに広げられた膨大な資料。そこに書き込まれるペンの音だけが、規則正しく部屋の静寂を刻んでいる。拒絶ではなく、単なる事実の提示。その声には、写世の揺さぶりを一切受け付けない鉄の平穏があった。
「即答かいな。つれないなぁ」
写世はわざとらしく肩を落とし、窓枠から飛び降りた。
音もなく床に着地すると、彼は獲物の懐へ潜り込むように、界渡真のデスクへと歩み寄る。
「なんでや。その能力を使っとる界渡真はんを、こうしてバチィ! っと撮れば、わいのカメラならコピれるんちゃうん?」
界渡真の指が、ようやく止まった。
彼はゆっくりとペンを置き、顔を上げる。その無機質な瞳が、写世のレンズを正面から見据えた。
「それが、無理なんですよ。確かに、あなたの能力は被写体を撮影することで、その本質を捉え、対象が持つ特殊能力を『記録』し『模倣』することができる。優れたコピー能力です」
界渡真は一度言葉を切り、諭すように続けた。
「ですが、それには絶対的な条件があります。その能力が『自意識型』であること。単に生理現象として発動するのではなく、持ち主が明確に『発動させる』という意志を持ち、精神的なスイッチを介して機能するタイプに限られているのですよ」
傍らで影のように控えていた錐が、その言葉にわずかだけ眉を動かした。
彼女は一言も発さない。だが、その微かな表情の変化と、界渡真へ向けられた真っ直ぐな瞳は、明確な疑問――「その分類に、どのような意味があるのか」という問いを投げかけていた。
界渡真は、錐の無言の訴えを察し、彼女へ視線を向けて補足する。
「そうですね。例えば錐さんや命さんのように、自身の意志で使い手に憑依させ、その能力を顕現させる『心魂具』。これが自意識型の典型と言えます。持ち主の覚悟や意志が力のトリガーとなっている。もちろん、私のこの本も、その定義に含まれます」
界渡真が軽く手をかざすと、空間を侵食するように一冊の本が具現化した。古びているが、底知れない知識の重みを感じさせるその本は、主の意志に応えて静かに宙に浮いている。
「反対に、永木紫銀くんの中に眠っているとされる“紫の意思”――もとい『紫の力』は、これとは根本的に性質が異なる。あれは彼の意志に関係なく、世界の理としてそこに在り、発動するものです。写世くん、あなたのカメラのシャッターが、本人の意志すら介在しない『現象』を捉えることはできない」
写世の口元が、わずかに歪む。図星を突かれた者の、苦い笑みだった。界渡真はさらに畳みかけるように、自身の本を指先でなぞった。
「もちろん、私のであっても同じです。このアーカイブには『紫の力』についての記述は登録されています。しかし、それを具現させ、再現することは私にも不可能だ。なにせ、『紫』は単なる超能力やエネルギーの類ではない。それは『力』というよりは、この宇宙が定めた『理』そのもののようなものですからね」
「……理、なぁ」
写世が、低く呟いた。界渡真の言葉は、彼の探究心を刺激すると同時に、逃れられない壁の存在を突きつけていた。
「ん? やったらさ、やっぱり界渡真はんのソレも、ワイの写真には残らへんの?」
「その理由の半分は、シラホさんによる制約でしょう。そして、もう半分は――」
界渡真は具現させていた本を、霧が消えるように霧散させた。
「私が渡されたこの本もまた、一つの『理』の断片なのかもしれません。そして、写世さん。あなたのそのカメラも同じですよ」
界渡真の指が、写世の胸元にあるカメラを指した。
「それもまた、シラホさんが何らかの目的のために準備した特別な『器』だ。私の本にはその名前と機能についての記録はありますが、私がその力を使うことはできない。理の守護者が持つ道具を、他の者が模倣することは許されないのですよ」
「……そやな。シラホさんの用意したもんに、わいらが口出しできる余地なんて最初からないんか」
写世は深く息を吐き出し、カメラを弄んだ。
「はー……マジで欲しいのぅ、その全知全能感。なぁ、界渡真はん。あんさんはもう、見てきたんやろ。この世界が最後、どうなるか。実際、どうなるんや? わいらみたいな記録者には、結末を知る権利くらいあるんとちゃう?」
写世は界渡真のそばを離れ、入り口の扉へと向かう。途中で足を止め、振り返る彼の瞳には、軽薄さの裏に隠された剥き出しの飢餓感があった。
「――確実に、世界としては消滅します」
界渡真の返答は、あまりにも静かだった。
彼は再び手元の資料に目を落とし、事務的な報告でもするかのように淡々と言い放つ。
「ただし、地球という“籠”だけは残ります。物理的な星としての体裁は保たれるでしょう」
「つまり……人間、消えるん?」
「えぇ。人だけではありません。人が積み上げてきた歴史、作り上げた文明、発展させた技術……。人という意志によって創られたもののすべてが、何一つ残らず無に消えます」
窓の外から、再び運動部の威勢の良い声が届く。
「頑張れ!」「あと一本!」
その希望に満ちた叫びが、界渡真の語る絶望的な未来と衝突し、虚しく霧散していく。
「それをやるのが……あの、お人好しの委員長っちゅうわけやな」
「はい」
界渡真は短く答え、椅子をゆっくりと回転させた。彼は窓の外、夕焼けと闇が混ざり合い、不気味な紫を帯び始めた空を見つめる。
「ですが、正確に言えば、それは永木紫銀くん本人の望みではありません。彼の中に眠り、彼を器として選んだ“紫の意思”そのものが、世界の初期化を望んでいるのです」
「紫……ねぇ」
写世は、顎に手を当てて考え込んだ。その視線は、もはや界渡真ではなく、壁の向こう側にある「何か」を見つめているようだった。
「のぉ、界渡真はん。わいらは、それを変えるために動いとるんやけど……。やったら、あんさん。最終手段として委員長を殺す……なんて、そんな野蛮なこと考えてへんよね?」
生徒会室の空気が、一気に氷点下まで下がった。
写世の問いは、冗談の皮を被った「警告」だった。もし界渡真が紫銀を害する存在であるならば、この場でカメラのシャッターを切る覚悟が彼にはある。
「写世さん」
界渡真は椅子を戻し、真正面から写世を見据えた。
その瞳には、揺るぎない確信と、ある種の慈愛すら混じっていた。
「それは、絶対にあり得ません。私がこの世界に来た目的は、永木紫銀くんを倒すことではない。むしろ、その真逆です。私は、彼を導き、彼を成長させるための『階段』の一段として、ここに存在しているのですから」
「…………そか」
写世は、数秒の沈黙の後、ようやく表情を緩めた。
それはいつもの軽薄な笑いではなく、重い荷物を下ろした者のような、清々しい笑みだった。
「なら、えぇわ。もしそっちが敵やったとしたら、わいには界渡真はんに勝てる気はせぇへんしな。……まぁ、わいは最後がどうなるか、この目で見届けることはできへんかもしれんけど。界渡真はんからそれだけでも聞けたし、満足やや」
写世は、今度こそ背を向けた。
「ほな、失礼しますわ。せいぜい、えぇ階段になってやりなはれ」
扉が閉まり、廊下を去っていく足音が静寂の中に消えていく。
残された生徒会室で、錐がようやく長い吐息をついた。
※
「…………やっと、出て行きましたね」
扉の向こう側で足音が途絶え、放課後の廊下に静寂が戻ると、錐は深く溜息をついた。張り詰めていた空気が緩み、彼女は流れるような所作で界渡真のデスクの傍らへと歩み寄る。
「騒がしくして、すまないね」
「気にしてません。あの人はクラスでもあんな感じですので。……慣れました」
錐はそう言って、窓の外を見つめた。夕闇が迫り、空の色はオレンジから不穏な紫へと混ざり合おうとしている。
「それで、界渡真さん。本当に……結末は、変えられるのでしょうか?」
「…………そうですね。紫の力による世界の消滅は、確定事項として起きます。ですが、今の状況であればその確率を――五十%までは抑えられます」
「ゼロ、ではないのですね?」
「えぇ。ゼロは無理です。消滅するか……しないかの、二者択一ですよ」
界渡真の声は冷徹な数式を告げるかのように響く。錐は唇を噛み、胸の奥に澱んでいた問いを口にした。
「でしたら、なんで私なんですか? 私よりも、神社で巫女だったあの子だけで十分ではないのでしょうか?」
「そうですね。心魂具であるためには、相当の霊力や神力といった……いわば『出力の高さ』が求められます。その点において、彼女は申し分ない」
「な、なら――」
「ですから、あの子は永木紫銀くんの傍にいるのですよ。あの子の力で、膨張しかねない紫を抑えるためにね」
食い下がるような錐の視線を、界渡真は真っ直ぐに受け止める。
「でしたら、なんで、私も必要となるのですか?」
「前にお話したと思いますが、あなたは永木紫銀くんの中に潜む『紫の力』抑制の第二の蓋です。第一の蓋であるあの子の力は莫大ですから、そうやすやすとは突破されないと思いますが――はっきり言いますと、私もそうですが、シラホさんですら『紫の力』のすべてを知っているわけではありませんからね。今は、あの子だけで十分ですが……一年後の世界では、その第一の蓋が破られています。ですから、そこに錐さんが必要となります」
「そう言われましても……私にはそんな力ないですよ。あの時代で一緒にいたんですから、界渡真さんだって、知ってるでしょ?」
自嘲気味な錐の言葉に、界渡真はペンを置き、かつての火花散る戦場を思い起こすように目を細めた。
「えぇ。そうですね。確かに、あなたは普通でしたね。あの戦火に包まれた城の中で、あなたはただ主君への忠義を抱いて戦場を駆ける、一人の侍に過ぎませんでしたからね。ですが、錐さん。あなたは忘れているかもしれませんが……あなたはあの子と仲睦まじかったので、よく一緒にいましたよね? 実は、その時に強大すぎる神力の奔流を、その身で最も近く、浴び続けていたんですよ」
界渡真の言葉が、錐の魂の深層に眠る熱を呼び覚ます。
「普通の人の身でありながら、……彼女の身から知らず知らずに漏れていた霊力や神力を浴び続けていたことで、あなたの魂は、あの合戦の最中に、人としての定義から外れ、名もなき英霊としてのソレに、『変質』しました。結果、私はあなたを選びました。そして、あの子が抑えるための蓋であるなら、あなたはそれらを包み込むことで抑える『鞘』ですね」
「『鞘』……?」
「はい。永木紫銀くんの中に眠る『紫の力』は、いかなる力をもってしても完全に消し去ることはできません。強引に蓋をすれば、いつか圧力に耐えかねて爆発する。彼女が持つ神力でさえ、それは時間の問題です。そして、もしそうなった場合の保険が、あなたなのです。『蓋』が弾け飛び、紫の力が制御を失って溢れ出したとき、あらゆる世界は一瞬で塵……または、別の何らかに還るでしょう」
界渡真は空間を侵食するように、一冊の本を具現化させた。古びた革の装丁が、夕闇の中で鈍く光る。彼は慣れた手つきで頁を捲り、ある一箇所で指を止めた。そこに記録されているのは、あらゆる可能性の枝が枯れ落ち、虚無へと還る「世界の終わり」の予兆だった。
「……それで、あなたやあの人が視てきた結果は変わるんですか?」
「正直、わかりませんね。いろいろと対応はしてきてますが、結果に変化は見られません。一年後、紫の力に飲み込まれ、暴走した存在によって、この世界を起点として、ありとあらゆる可能性の先に存在する枝世界も終わります。……ただ、まだそれは、『そうなる。そうである。』という、強固な可能性の一つに過ぎないのかもしれません」
「可能性…………ですか?」
「えぇ。可能性です」
界渡真は本から目を離し、錐を見据えた。
「永木紫銀くんに会って、同じクラス内で交流して、どう感じましたか?」
「そうですね……界渡真さんから事前に、あの人が一年後には世界を終わらすと教わっていましたが…………正直、信じられません」
「ですよね。私もそうですが、シラホさんも同じなんです。どう考えても、今の彼がそうなる感じがしません。ただ、一年後に彼が『紫の力』に飲まれて終わらすのか、あるいはもっと別の何かなのか……。ですから、可能性なんです」
錐は困惑したように眉を寄せた。論理と直感、未来と現在が複雑に絡み合う界渡真の話は、一人の少女として生きる彼女にはあまりに難解だった。
「すみませんね。説明しようにも、様々な要因が絡み合っているため、うまく言葉にできません。これは私の知識不足でしょうね。アレを説明するには、直接その時空を『視る』のが一番なのですが……それが出来るのはシラホさんと私だけですし、他の方を同行させた場合、その方の現在と未来における存在に影響を与えかねない」
界渡真の声に、微かな痛みが混じる。
「ただ、あなたを危険状況下に送り出すことになります。……そこは、謝らせてください。あれでしたら、私を恨んでいただいても構いませんよ」
「そうですか…………界渡真さん。勘違いしないでください」
錐は、まっすぐに彼を見て、微笑んだ。その表情は、先ほどまでの迷える少女のものではない。数百年を越えても色褪せない、揺るぎない魂の光を宿していた。
「私は、あなたを恨みません。むしろ、その逆です。私は、あの時にあの崩れ行く城と一緒に死んでいました。それを、こうして二度目の人生を与えてくれたことに感謝します。もちろん、記憶を失ってはいますが、あの子ともう一度会えたことも……本当に、嬉しいです」
「そうですか…………ありがとうございます」
界渡真の口元に、微かな、しかし確かな温かみが宿った。
「まだ、次の行動をするまでは時間がありますから。今は、あの時と違った平和な人生を楽しんでください」
錐は清々しい笑顔を向け、軽く一礼する。その瞬間、校内に放課後の終わりを告げるチャイムの音が響き渡った。
(永木紫銀くん……君が一年後の君を認識するまでは、まだ時間がありますからね)
界渡真は心の中でそう呟き、窓の外に広がる紫の空へと視線を戻した。




