蜂紫伝13
5月の夕方。
沈みかけた陽が、校舎の影を長く伸ばしていた。
放課後の校庭では、野球部の掛け声が遠くから響いてくる。
「いっけー!」「ナイススイング!」
金属バットが白球を捉える乾いた音が、風に乗って断続的に届いた。
ここは、その喧騒から少し離れた校舎裏——武道館。
古い木造の外壁は夕陽を受けて鈍く光り、窓からは剣道部の練習音が漏れ聞こえてくる。
打ち込みの音、気合いの声、そして床を踏み鳴らす音が規則正しく響いていた。
紫銀は、引き戸を開けて外へ出た。
稽古が始まって、まだそう時間は経っていない。
それでも道場の中は既に熱気がこもり、湿った空気が肌に張り付くようだった。
命の正規入部を皮切りに、部員たちは騒然としている。
部長と副部長がテンション高めに質問を浴びせ、命は笑顔で受け答えしていたが、あれはほとんど尋問に近い。
紫銀はタイミングを見計らって、そっと外へ逃げてきたのだ。
「親戚なんですよ。ちょっと疎遠ですけど」——
そう言って彼女との関係を済ませた。
嘘ではない。だが、真実でもない。
彼と命の間にある「繋がり」は、一般世界の理屈では説明できない。
知っているのは、自分たちだけ。
他の人間は、すでに次元維持管理局側で“うまく”記憶を調整されている。
だから、誰も疑わない。誰も気づかない。
紫銀は小さく息を吸い込み、静かに深呼吸した。
呼吸に乱れはなく、平常に近いそれであった。
それでも肺の奥まで満たすように吸って吐く。
そして、左右の手を開いては、ゆっくり閉じた。
その手にまだ、竹刀の感触が残っていた。
久しぶりに握った“武の道具”——あの、叩く感覚と、響く音。
それがいつまでも掌にこびりついて離れなかった。
(懐かしい……けど、どこか違う)
足音が近づいてきた。軽やかで、どこかリズミカルなそれは、すぐに命のものだとわかった。
彼女は貸し与えられている長めの道着の裾を軽く払いながら、紫銀の元へやってくた。黒髪が夕陽に照らされて、わずかに赤みを帯びている。
「ここにいたんですね、紫銀さん」
命の声は穏やかで、いつものように控えめだ。彼女の瞳には、稽古の疲れが少しだけ滲んでいるが、それ以上に、どこか満足げな光が宿っている。
「ん。あー、ちょっと外の空気を吸いたくてね」
「なんか、わかります。それ」
そう言うと、命は彼の隣に並び、大きく深呼吸をした。胸を張り、鼻をすぼめて空気を吸い込む仕草が、なんだか子犬のようで微笑ましい。
「美味しいですね」
新鮮な空気の味を、彼女は素直に噛み締めているようだった。管理局の無機質な施設で過ごした日々を思えば、こんなささやかなものが、どれほど貴重か。紫銀はふと、そんなことを想像して胸が疼いた。
「そっか?」
「はい」
彼女は短く返事し、柔らかく笑った。しかし確かだ。紫その笑顔には、どこか無垢なものと、底の見えない静けさが同居している感じがした。
紫銀は少し目を細めてから、ふと尋ねた。
「なー、命」
「はい?」
「命って、剣道は今日が初だった、よな?」
命は少し考えるように瞬きをしてから、空を見上げた。
そして両手を軽く握り、何も持っていないはずの手で素振りの形をつくる。
その腕が空を切り、風がかすかに鳴った。——竹刀がそこに“ある”と錯覚するほどに。
「はい。初めてですね」
命はそう言いながら、手の中の“何か”を確かめるようにもう一度振る。
動作は驚くほど滑らかだった。
——滑らかすぎた。
紫銀はその光景に、思わず息を呑んだ。
命の腕の軌跡は、武道の素人のそれではない。
ただの素振りではなく——まるで、実際に斬り結んできた者の、身体が覚えている動きのようだった。
静かで、鋭く、どこか祈るように静謐。
その一挙一動に、現実味のない重みが宿っている。
紫銀は知らず知らずのうちに、その動きを目で追っていた。
次の瞬間、胸の奥に小さな違和感が走る。
確かにぎこちない。
だが、それは“初心者の不器用さ”ではなかった。
構えや踏み込みに滲むのは、剣道とはまったく別の理—ー人を生かすための型ではなく、自らが生きるための剣。
そんな気配が、命の仕草の端々に染みついていた。
(……人を斬るための、動きだ)
それはまるで、時代劇の立ち回りで見る“殺陣”でもなく、武道の型でもない。もっと実戦的な、血の匂いを知る者の構え。
斬って、生きるための剣。
生かすために斬る剣道とは違う——“生き残るために斬る”剣。
紫銀は目を細め、胸の奥がざらりとするのを感じた。
(まぁ……命も……あの異常な集団の一員だから、か)
思わずそんな結論に行き着いていた。
紫銀の脳裏に、あの光景がよみがえる。
星理亜が、次元獣と激突したときのことだ。
人の身であるはずの少女が、まるで物理法則すら無視するかのような速度で地を駆け、空を裂き、巨体を斬り伏せた。
常識が音を立てて崩れ落ちる瞬間を、確かに見た。
あれを見たあとでは、「人間離れしている」という言葉すら生ぬるい。
その異常な現実を目の当たりにしたからこそ、紫銀にはわかってしまったのだ。次元維持管理局という組織が、どれほど常識から逸脱した世界を生きているのかを。
命もまた、そこに属しているのなら――この“身体が覚えているような動き”にも、納得がいく。
そんな考えが過ぎったそのとき——。
「——あ、紫銀くーんだ!」
声の主は、体育館の階段を駆け下りてくるバスケ部の少女。ユニフォーム姿のまま、額に滲む汗を手の甲でぬぐいながら、こちらへ勢いよく手を振ってくる。
動くたびにポニーテールが跳ね、背中のゼッケンが夕陽を反射してきらりと光った。
息は少し弾んでいる。それでも笑顔は崩れない。
「……世依奈」
紫銀が名を呼ぶと、彼女はにかっと笑ってさらに駆け足で距離を詰めた。
体育館の扉の向こうからは、ボールが床を打つ乾いた音と、コーチの笛の音が交互に響いてくる。
どうやら練習の合間を縫って、わざわざこちらまで来たらしい。
近づくにつれ、熱気と汗の混じった空気がふっと流れ込み、紫銀は思わずまばたきをした。
世依奈はまるで体育館の太陽をそのまま連れてきたように、場の温度を上げていく。
「おー! 部活再開だねー!」
息を弾ませながら駆け寄り、立ち止まると、目をきらきらと輝かせて彼を見上げる。汗が頬を伝い、それを手の甲で乱暴に拭う仕草までが、いかにも彼女らしい。
「ん。そうだね。毎日は無理かもしれないけど……出られるときは出るよ」
「そかそかー。紫銀くんも、まだいろいろあるもんねー」
世依奈はそう言って、ふっと笑いながら前のめりになった。
風に揺れたポニーテールの先が彼の腕にかかり、ユニフォームの襟元が緩く開き、陽の光を受け、うっすら汗ばんだ肌の上に鎖骨の線がくっきりと浮かび、黒いスポーツブラの縁が一瞬だけのぞいた。
紫銀は思わず息を呑み、慌てて視線を逸らす。だが、視界の端に残ったその淡い光景が、脳裏に焼きついて離れない。心臓の鼓動が一拍遅れて跳ねた気がして、彼は小さく咳払いをした。
「……なに?」
「いや、なんでも」
無防備で、屈託のない笑顔。
彼女が悪気などないことはわかっているのに、なぜか胸の奥がざわつく。それが世依奈という人間の“太陽らしさ”なのだと、紫銀は心の中で苦笑した。
彼女は明るくうなずき、ふと思い出したように手を打つ。
「そうそう! お母さんがね、『辛くなったら相談してね』って言ってたよ!」
「なんで今それ?」
「忘れてたからっ!」
どや顔で胸を張る世依奈に、紫銀は思わず笑った。
「世依奈らしいな」
「でしょ?……ん?」
世依奈の視線がふと紫銀の背後へと動き、目を輝かせた次の瞬間——
「ひゃっ!」
道着姿の命に、世依奈が勢いよく飛びついた。
「命ちゃんっ! 道着姿も可愛いーーーーっ!!」「え、あ、ありがとうございます……?」
突然の抱擁に、命は思わず体をそらす。
道着の袖を手で押さえたり、肩をすくめたりして、慌てた様子を隠せなかった。
その動作の端々に、緊張と戸惑いが入り混じる。
世依奈のテンションは最高潮で、声も弾むように響き、体育館の空気を揺らしていた。
「でもさ、なんで道着姿?」
「あー、うちの剣道部に仮入部の体験見学だったはずなんだけど、正規入部したから、かな」
紫銀が代わりに答える。
「おかげで部長と副部長は大興奮だ」
「なんでって……」
紫銀は一拍置いてから、軽く肩をすくめた。
言葉を選ぶというより、どう説明すべきかを測るような間だった。
「初心者のはずなのに、副部長と、ほぼ互角だったから、だよ」
その一言で、世依奈の動きがぴたりと止まる。
命を抱きしめたまま、ゆっくりと紫銀のほうを振り返った。
「……副部長?」
最初はきょとんとした声だった。
が、次の瞬間、彼女の中でその名前が結びついたのか、目が一段と大きく見開かれる。
「副部長って……あの長野先輩だよね?」
「そ。あの長野先輩」
紫銀は淡々と答えた。
その名前が持つ意味を、今さら説明する必要はなかった。
閉じられた武道館の扉の向こうから、竹刀が床に置かれる乾いた音が、練習の気配に混じって漏れ聞こえてきた。まだ、練習は続いているはずなのに、なぜか一瞬、周囲の空気が静まったように感じられた。
「え、ちょっと待って……」
世依奈は命から腕を離し、改めて彼女を上から下までじっと見つめる。
道着の着こなし。立ち方。無意識に整えられた足の位置。
「命ちゃん、今日が初めてなんだよね? 剣道」
「は、はい……そう、です」
命は少し戸惑いながらも、正直にうなずいた。
その様子はどこまでも素直で、取り繕ったところがない。
「それで、あの長野先輩と……接戦?」
世依奈の声には、疑いよりも困惑が滲んでいた。
「ほんとに、いい試合だった」と紫銀が静かに補足する。
「間合いも、打ち合いも、駆け引きも。初心者って言葉が、途中から意味を失うくらいには」
世依奈はしばらく言葉を失っていた。
それから、ふっと息を吐き、妙に納得したように口元を緩める。
「……なるほど」
「なるほど、って何が?」
紫銀が怪訝そうに眉を寄せる。
「いやさ」
世依奈は命の足元をちらりと見てから、にっと笑った。
「立ち方がさ、なんか普通じゃないもん。かわいいのに、芯があるっていうか」
命は思わず、自分の足元を見下ろした。
無意識に取っていた姿勢。
重心は低く、背筋は伸び、逃げ道を残した立ち方。
「そ、そうですか……?」
「うん。バスケでもね、たまにいるんだよ」
世依奈は肩をすくめる。
「初心者なのに、コートの“空気”に最初から馴染んでる子」
「おかげでさ」
紫銀は話題を戻すように言った。
「部長と副部長、完全にスイッチ入っちゃって」
「そりゃそうでしょ」
世依奈は即答する。
「そんなの、放っとく理由がないじゃん」
「逸材……ってやつ?」
「うん、完全に」
命はその言葉を小さく反芻し、困ったように笑った。
「そんな……私は、言われた通りに振っていただけで……」
その言い方に、紫銀はわずかな違和感を覚える。
いつ、どこで、誰に言われたのか。
だが、その疑問を口にする前に、世依奈がぱっと手を叩いた。
「ねえ、じゃあさ」
その声は、いつも通り明るい。
けれど、どこか無邪気すぎるほどに核心を突いていた。
「剣道部初の混合部門全国大会進出とか狙えるんじゃない?」
「部長も、同じこと言ってたよ」
紫銀は苦笑しながら言う。
「『奇跡的な予想外すぎる初心者の白羽がいて、負け知らずの長野がいて、僕が戻ってきて……これは来てる』って……」
紫銀は一度言葉を切り、苦笑を浮かべた。
「……ってかさ。僕が戻ったくらいで、そんな期待されてもな」
ぽつりと零れた本音は、冗談めいているようで、どこか投げやりだった。 自分の名前を並べられること自体が、居心地悪そうに見える。
「紫銀さん」
命が、まっすぐ彼を見た。
その視線には迷いがなく、感情の揺れもない。
ただ、事実を確認するような静けさがあった。
「はい?」
「紫銀さんの自己評価は、少し低すぎます」
思いもよらない切り返しに、紫銀が瞬きをする。
「……え?」
「部長さんの期待は、楽観でも、お世辞でもありません」
命は淡々と続ける。
「戻ってきた、という一点だけでなく。 打ち方、間合いの取り方、相手の癖を見る視線―― それらを“今も”持っているから、です」
まるで試合後の講評のような口調だった。
「そ、そうか……?」
「はい」
即答。 そこに一切の躊躇はない。
そのやり取りを見て、世依奈が思わず吹き出した。
「ほら。命ちゃん、紫銀くんのこと、めちゃくちゃ客観視してるじゃん。命ちゃんが言うんだから、そうなんだって」
紫銀はそれ以上言い返せず、照れ隠しのように視線を逸らした。
「……はいはい」
紫銀が半ば降参したように返すと、
「でもさー、剣道部だけズルいよー」
世依奈が、むっと頬を膨らませた。 さっきまでの茶化すような笑顔とは違い、どこか本気で悔しそうだ。
「ズルい?」
紫銀が聞き返す。
「だって、だってさ」
世依奈は言葉を探すように一度息を吸い、
「命ちゃんっていう、奇跡の拾い物が来たんでしょ?」
そう言って、再び命にぎゅっと抱きつく。 道着越しでも伝わる体温に、命は少し驚いたように肩をすくめた。
「女バス――私たちにも、そういうの欲しいよー」
軽い冗談のような口調。 けれど、その奥にははっきりとした焦りが滲んでいた。
「だってさ」
世依奈は紫銀を見る。
「三年生が引退したら、高木先輩と私のツートップだけなんだよ?」
指を二本立てて見せる。
「今年、全国いけなかったらさ……たぶん、もう今後はずっと無理」
そう言い切る声は、いつもの快活さより、少しだけ低かった。
「ん……」
紫銀は言葉に詰まり、曖昧に息を漏らす。
「……白羽さんは?」
何気なく投げたその一言に、
「紫銀くん」
世依奈が、ぴたりと命から手を離した。 そして、珍しく真っ直ぐな視線を向ける。
「なんで、そこで白羽さんなのかなー」
その声は穏やかだが、冗談ではなかった。
「え? だって」
紫銀は眉を寄せる。
「世依奈と一緒に、女バスに入部してなかったか?」
その瞬間、
「紫銀くん」
世依奈は、はっきりとした声で呼んだ。
「何言ってるの?」
空気が一段、静まる。
「え? あ、あれ?」
紫銀は自分の記憶を探るように視線を泳がせる。
「……入部してた、ような……」
だが、どれだけ辿っても、確かな映像が浮かばない。 そこにあるのは、“そうだった気がする”という感触だけだった。
「あのね」
世依奈は、小さく息を吐いた。
「もし、そうだったら」
それから、少しだけ笑う。
「私だって、今みたいにのんびりしてられないんだよ」
「……」
紫銀は何も返せなかった。
その沈黙の横で、
「……世依奈さん」
命が、そっと口を開いた。
「全国、行きたいんですね」
世依奈は一瞬驚いた顔をして、
「うん」
それから、少し照れたように笑った。
「欲張りかなーって、思うけどね」
そのときだった。
閉じられていた武道館の扉が、がらりと音を立てて開き、中から、汗だくの剣道部部長が顔だけを覗かせた。
「永木ー! 戻ってこーい!」
声はやたらと通る。
「再戦すっぞぉっ!!」
気合いというより、完全にテンションの問題だった。
紫銀は小さく肩をすくめる。
「……はいはい。今行きますって」
その様子を見て、世依奈がくすっと笑う。
「ほら、呼ばれてるよ」
その直後。
今度は体育館のほうから、別の声が飛んできた。
「そこのイチャイチャしてるリア充エース! 戻ってこーーーーい!!」
あまりに直球な叫びに、紫銀と命が同時に固まる。
「……」
「……」
「はーい!!」
返事だけは元気よく、世依奈が手を大きく振った。
「もう、うるさいなー」
そう言いながらも、表情はどこか楽しそうだ。
紫銀は一歩引いて、軽く手を振る。
「ま、お互い、頑張ろうか」
命は一瞬だけ考えるようにしてから、こくりと頷いた。
「……はい」
「だね」
世依奈はそう言って、くるりと踵を返す。
体育館へ向かって走り出し、途中で思い出したように振り返った。
「あ、今日の帰りさ! 一緒に帰ろーよ。校門で待ち合わせね!」
「わ、分かったー!」
紫銀は反射的に手を挙げて応える。
「じゃーねー! 命ちゃんも、ファイトだよー!」
その声に、命は一瞬戸惑ってから、
「……はいっ」
小さく拳を握り、ぎこちないながらも“頑張るポーズ”を取った。
それを見て、世依奈は満足そうに笑い、体育館の中へ消えていく。
残された武道館の前には、夕方の風と、まだ熱の残る空気だけが漂っていた。
紫銀は一度、深く息を吸う。
「……じゃ、戻るか」
命はうなずき、並んで武道館の扉へ向かう。
その背中はまだ小さくて、少し不器用で、
それでも確かに、放課後の真ん中にあった。
※
ほぼ同時刻。
専門教室や生徒会室が集まる別棟、その三階。
放課後の別棟は人影もまばらで、廊下には昼間の喧騒が嘘のような静けさが残っていた。
開け放たれた窓からは、少し冷えた風と、遠くの部活の音がかすかに流れ込んでくる。
「何を見られるのでしょうか?」
その声に反応し、界渡真が振り向くと、そこには錐がいた。
「おかえり。そうだね……見てるとしたら、アレかな」
そして、界渡真はそう言って、言葉よりも先に、静かに指を伸ばした。
促されるまま、錐は窓辺に歩み寄り、その指差す先を見下ろすと、ちょうどその武道館へ向かって、二つの背中が並んで歩いていくところだった。
肩の高さも歩幅も微妙に違うが、不思議と揃って見える後ろ姿。
紫銀と、命だった。
「ほー。委員長、マジで部活再開したんやな」
不意に背後から聞こえた声に、錐は小さく息を呑む。
反射的に振り向き、咄嗟に右手を伸ばした。
「あー、安心しーや。転校生はん。わいは敵やないで」
ひらひらと両手を見せて、軽い調子で笑う写世。
「の、界渡真はん」
冗談めかした呼び方とは裏腹に、その視線は鋭く界渡真を捉えていた。
錐は写世から目を離さぬまま、横目で界渡真の表情をうかがう。
「そうだね、錐さん。彼は敵ではないさ」
淡々とした声。
そこには迷いも警戒もなく、事実だけを述べている響きがあった。
錐は、ゆっくりと写世の方を向く。
「ってか、転校生はん。わいと同じクラスやん。やのに、それされると、わいでもヘコむで」
「すみません。ただ――あなたが突然、この場に現れたから、警戒しただけです」
正直な言葉だった。
写世は肩をすくめて、わざとらしく溜め息をつく。
「まちぃや。のー、界渡真はん。わいの能力、まだ教えてへん?」
「あー……そうだな」
界渡真は一瞬考え込み、
「教えてなかったな」
と、あっさり言った。
「あんなー。それ、重要とちゃう?」
写世は半歩近づき、界渡真の隣に並ぶ。
そして、武道館へ視線を投げたまま、低く問いかけた。
「ほんで、界渡真はん。なんで、時間を戻したん?」
「紫の覚醒に要する時間に対して、足りなかったからですよ」
即答だった。
「そかー。界渡真はんがそう判断したんやから、そうなんやろな」
写世は軽く笑い、しかし次の言葉で空気を変える。
「んで、界渡真はんも、シラホはんと同じで――」
一拍置いて。
「現時点での委員長が、どんな結末を迎えるか……知っとんやろ?」
沈黙が落ちる。
遠くから、竹刀が床を打つ音が、かすかに響いた。
「………………」
界渡真は、窓の外から目を離さないまま、
「ええ。教わってますから知っていますし、見てきましたから知っていますよ」
とだけ、答えた。




