蜂紫伝12
畳の中央に立つ、命と長野。
長野が面金越しに見た命の瞳は、わずかに緊張で揺れていた。
部長の合図とともに、二人は礼を交わした。
「はじめ!」
命は無言で竹刀を構えるが、その構えはどこかぎこちない。
左足がほんのわずかに前へ出すぎ、上体の芯がうまく固定できていなかった。竹刀の先も細かく揺れて、まだ重さに慣れていないのが見て取れた。
長野は、相手が初心者であることを踏まえて、怖がらせないように、柔らかく一歩踏み出す。
「大丈夫、ゆっくりでいいから」
長野の声に、命は小さく頷いた。
カン、と竹刀同士が触れる音。
命は反射的に下がろうとするが、足の運びが遅れ、ほんの一瞬背中を見せかける。
慌てて正面に戻る動きで、胴と上衣の間の隙間がわずかに揺れ、「コトン」と中の胴が鳴る。
観客の部員たちが「かわいい……」と小さくざわついた。
長野は軽く竹刀を下げ、命の様子をうかがう。
「ほら、もう一回構えて」
命は息を整え、ぎこちなく構え直す。その腕はまだ力が入りすぎて、肩にまで緊張が伝わっている。
次の瞬間、長野がほんの軽く「面!」と声を上げて踏み込み、命の竹刀にわざと当てるように振る。
ガシャン、と竹刀が弾かれる感覚に命が驚く。
「わっ……!」と半歩下がる命に、長野は追わず、間合いを保つ。
「焦らなくていい。打たれても痛くないからね」
その優しい声色に、命はまた小さく頷き、深く息を吸い込み、竹刀をしっかりと握り直した。
掌の汗で少し滑る感触も、その感覚さえも冷静に受け止める。
防具は微かに揺れ、胴の内側では振動が小さく残る。だが、その揺れが恐怖や不安に変わることはなく、その反対に、体中の神経が研ぎ澄まされ、彼女の胸の奥で静かに何かが熱を帯びているのを感じた。
「今度は私から――」
小さく心の中で呟き、命は前に一歩踏み出す。
しかし、竹刀は思ったほど力を伝えられず、長野の左脇をかすめて空を切った。
足元のバランスがわずかに崩れ、体が小さく揺れる。命の肩に伝わる微かな振動も、彼女の緊張感をいや増す。
その瞬間を見逃さなかった長野は、竹刀をすっと下げて笑むような声を出した。
「おー、いい踏み込みだったよ」
命は慌てて小さくペコリと頭を下げる。その一挙手一投足が可愛らしく映ったのか、長野の眉がわずかに緩む。だが、道場内の空気は依然として張り詰めたままだった。
命はその場で小さくジャンプを繰り返す。板張りの床に、かすかな足音が反響する。竹刀が空気を切る音も、軽く重なって聞こえる。長野は目を細め、しばし戸惑う。
命は肩の力を抜き、前方の長野へと突進した。その動きは、慎重さを欠いた自由奔放な型――“デタラメな型”だった。足取りは不規則で、竹刀の振りも一定ではない。だが、その予測不可能な動きが、長野の目の前でリズムを狂わせる。
長野は瞬間、目を細めて竹刀を振る。受け流し、後方に一歩飛び、間合いを確保する。命の動きは一見無軌道でありながら、どこか意図を感じさせる。
「白羽さん……ごめんね。本気で行かせてもらうよ」
長野の声に混ざる緊張。彼女は足を踏み込み、竹刀を前に振るう。
面、小手、胴へとそのすべてが寸分の狂いもなく高速で重なる長野の連打は容赦なく命を狙い、竹刀が空気を裂くたび、鋭い風圧が命の頬や首筋を撫でた。
命はただ必死に受ける。
竹刀をぶつけ合い、体を捻り、腕を伸ばし、足を踏み替える。
まるで本能が先に動き、体が追いかけているようだった。
だが、袴の裾を踏み、命の体は大きく揺らいだ。
ほんの一拍の隙。その刹那を、長野は決して見逃さなかった。
「――もらった!」
気迫とともに間合いを詰め、長野の竹刀が唸りをあげて振り下ろされる。命の胴はがら空き。避ける術など、もう残されていないように見えた。
――その瞬間。
命の体が、ふっと沈む。
袴を踏んで崩れたはずの足運びが、不自然なほど滑らかに切り替わり、竹刀の軌道を紙一重で外した。
踏み込みの勢いを殺さず、そのまま体を低く潜らせ、着地の瞬間にはすでに逆襲の構えを取っていた。
「やぁっ!」
鋭い掛け声とともに、命は間合いを一気に詰める。竹刀が大きく薙ぎ払われ、長野の胴を狙う。崩れからの一撃とは思えぬ速さと重さ。
しかし――長野もただ者ではない。
「……っ!」
咄嗟に竹刀を横に構え、盾のように差し出す。金属音が炸裂し、二人の竹刀が激しくぶつかり合った。命の薙ぎ払いは確かに胴を捉えかけたが、その刃筋は長野の防御に阻まれ、火花を散らすかのような衝撃だけを残した。
二人は竹刀を打ち合わせたまま、ほぼ同時に跳ねるように距離を取った。
しんと張り詰める空気。床板を伝う汗の滴りの音すら、聞こえてきそうだった。
次に動いたのは命だった。
「はぁっ!」
短い息とともに踏み込み、竹刀を縦横無尽に振り回す。面、小手、胴、突き――狙いを定めているようで定めきらず、しかし荒々しい気迫が乗った乱打が長野を襲う。
その一撃一撃は、技としての洗練を欠いていた。だが、逆に予測を裏切る軌道となり、見る者の心臓を跳ね上がらせる。
だが――長野は崩れなかった。
「……まだまだっ!!」
竹刀を最小限の動きでさばき、受け、弾き、払い落とす。
命の打ち込みが激しくなるほど、長野の防御は鋭さを増し、まるで岩壁が押し寄せる波を受け止めているかのようだった。
「やっ、やぁっ……!」
「ふっ……!」
必死の連撃。だが、長野の瞳は冷静そのもの。
命の攻撃を受け流しながら、徐々に呼吸を乱す様子を見逃さない。
そして最後の一撃。
命が振り下ろした竹刀を、長野は正面から受け止めた。
ギィン――!
激しい音を立てて竹刀同士がぶつかり合い、鍔と鍔がかみ合う。
二人の顔が至近距離で睨み合った。命の額からは汗が滴り、肩で息をする。対して長野は、口元にわずかな笑みを浮かべていた。
「終わりだよ、白羽さん」
ぐぐっと竹刀を押し込む力が増す。命は必死に食い下がるが、腕に走る痛みと足元の不安定さが限界を告げていた。
最後は長野の重い一押し。命の体はバランスを崩した瞬間、視界が一瞬ぐらりと揺れた。
その刹那、長野は一気に間合いを詰める。勝負を決めに来る速度と気迫。だが命も、まだ倒れてはいなかった。崩れかけていた姿勢から、左足をぎりぎりで踏ん張り、腰をひねる。竹刀を握る手に再び力を込める。
「……まだ!」
体勢を立て直すと同時に、命は前のめりに飛び込み、迫りくる長野へめがけて竹刀を振りかぶる。狙うは真正面、面。
瞬間――脳裏に、見たこともない景色が浮かんだ。
白と黒だけで構成された世界。自分の視点で、誰かを切り落とそうとする自分が立っている。しかし、それが現実なのか幻なのかは判断がつかない。記憶のどこを探しても、この光景を見た覚えはない。
それでも確かに、目の前に迫る竹刀の感触と同時に、あの白黒の情景が脳裏に張り付く。命は動きを止めた。
竹刀は空を切り、次の瞬間には胴を正確に打ち返される。乾いた金属音が道場に響き、勝負は紙一重で決まった。
命の瞳には、白黒景色の残像がちらつき、息を整えようと深く吸い込んでも、胸の奥の微かなざわめきは消えない。
試し合いを終え、長野はゆっくりと面を外した。湿った呼気が白く散り、深く息を整える。額には汗がにじみ、その表情には勝負の余韻よりも、むしろ安堵と達成感が浮かんでいた。
一方で、命はまだ面を外さず、その場に固まっていた。竹刀を握る手はわずかに震え、瞳の奥には、あの白と黒だけで構成された異様な景色の残像が張り付いている。呼吸の音だけが不規則に胸を叩き、現実に戻る気配を見せなかった。
「……白羽、さん??」
長野がそっと歩み寄り、柔らかい声をかける。肩越しにかかるその響きに、命ははっと我に返り、慌てて面を外した。
「す、すみません! いま……ぼんやりしてしまって……!」
口早に謝罪を口にする命の様子に、長野は怪訝そうに眉を寄せ、心配そうに彼女を覗き込む。
「無理してない? 本当に大丈夫?」
命は小さく息を吐き、無理やり笑みを作る。
「だ、大丈夫です! ちょっと……気を抜いただけで」
そう言いながら、後ずさりするように一歩下がった瞬間――
「わっ……!」
袴の裾を踏んでしまい、そのまま後方へとばたりと倒れ込んだ。
道場に乾いた音が響き、長野は一瞬驚いたあと、吹き出すように小さく笑みを浮かべて手を差し伸べた。
※
「それにしても、白羽さんには驚きだ」
竹刀を軽く肩に乗せながら、剣道部の部長――三年の男子部員がしみじみと言った。
その視線の先には、まだ柔らかい息を吐いている少女、白羽命の姿がある。
「えぇ。あの子、本当に初心者?絶対、永木君が隠れて教えていたでしょ?」
副部長を務める三年女子、長野が目を丸くする。防具を外しながらの声には、驚嘆と少しの警戒が混じっていた。
「ちがいますよ。命、剣道は今日が初体験だった……はずですよ」
答える紫銀の声は、どこか自信なげだ。だが、彼自身も目の前の光景に未だ整理が追いついていなかった。
「それで、あれか」
部長は苦笑を漏らす。
「……私の練習には最適でしたね」
長野は、竹刀を片手で持ち上げて軽く振る。先ほどの立ち合いを思い返し、己の腕に走ったしびれを確かめるように。
紫銀対部長、命対長野。
その試し合いが終わった道場には、しばし妙な静けさが広がった。次いで「素振り!」と誰かが声を上げ、他の部員たちが一斉に竹刀を振り始める。
カシャッ、カシャッ、と規則正しい音が並ぶ。けれど、その中にいた全員が心のどこかで、たったいま見せつけられた新人の異常なまでの動きを思い返していた。
命の動きは、洗練された型を持たない。
だが、相手の一手を見切る直感の鋭さと、体捌きの柔軟さは常識を逸していた。
転がるように避けるかと思えば、まるで重力の制約を無視したかのように立て直し、即座に間合いを詰めて打ち込む。
長野が盾のように竹刀を差し出していなければ、彼女は確実に胴を斬り払われていただろう。
そんな非常識な才能を前にして、部員たちは落ち着かぬ心を抑えながら素振りを続けているのだ。
竹刀を振る音を背景に、部長と長野が顔を見合わせた。
「なー、永木」
「永木君。あのね」
二人の声が、見事に重なった。
「あの子、仮入部ではなく正規に入ってくれないか?」
「白羽さん、入ってくれるようにお願いできない?」
またもや、きれいに同時。
紫銀は思わず苦笑した。
「んー……まあ、命に聞いてみますけど」
彼自身、内心ではすでに答えを予想していた。
命が首を縦に振るかどうか、それは紫銀との距離感に左右され、剣道に興味があるかどうかなど、二の次だ。
ちょうどそのとき、更衣室の扉が開いた。
命が小走りで出てきた。
トタトタ、と小動物のように駆け寄ってくる姿は、試合中の鋭さとはまるで別人だ。防具を外し、長い髪を後ろで一つにまとめただけのラフな姿。その幼さすら残す容貌に、道場の空気がわずかに和らぐ。
「命」
紫銀が呼びかけると、少女は首を傾げた。
「んー?」
「剣道部に正規入部するか?」
その問いに、命はしばし瞬きを繰り返す。
「……紫銀さんは、ここにいるの?」
命が問いかけた声は、どこか慎重で、普段の無邪気な調子とは違っていた。
紫銀は一瞬だけ彼女の視線の奥を読み取る。
そこには、単なる「部活に友達がいるかどうか」の不安ではなく、もっと重いもの――次元維持管理局員としての義務が見え隠れしていた。
星理亜に代わって自分を監視する、その責務。
部活中も、それを放棄できないことを命は理解していた。
「そうだね。毎日ってわけではないけど、週三日は部活に出るつもりだよ」
紫銀はあえて軽く言う。だがその答えを聞いて、命の眉はわずかに曇った。
「んー……その間は、私が紫銀さんを視てる感じになるのでしょうか?」
彼女は小さく呟くように言った。監視ではなく「視る」と言い換えたのは、せめてもの柔らかさだろう。それでも、背負った責務が彼女を縛る。
紫銀は苦笑し、肩をすくめた。
「あ、まー。そうだろうね」
彼の答えは軽いものだったが、その軽さの奥には「それを君一人の負担にしない」という静かな意志が込められていた。命の胸に残る迷いを和らげるためのものだ。
命はしばし黙り、視線を落とした。だが次の瞬間には顔を上げ、ほんの少し強がった笑みを浮かべて、短く答える。
「……わかりました」
その素直な返事に、紫銀はほんの少し肩の力を抜いた。
すぐに彼は振り返る。
「部長、副部長。命、入部いるそうです」
「おっしゃーーーーー!!!」
部長の絶叫が道場に響き渡った。
歓喜に跳ね上がった声に、素振りをしていた部員たちが一斉に手を止めて振り返るほどだ。
長野は堪えきれず、命に勢いよく抱きついた。
「ほんとに!? 入ってくれるの!?」
「わ、わ」
命がきょとんとした顔で抱きつかれたまま立ち尽くす。その小柄な身体が少し揺れる。
紫銀は肩を竦めて、補足を入れる。
「ただ、僕と同じで毎日は無理ですけどね」
「オッケー。オッケー。そんなの全然構わない!」
部長は大きく頷く。
「これで、オレの最後の一年で、念願の男女団体で全国が叶う!」
「あー、ついに全国に行けるのね」
長野も胸に手を当てて感慨深そうに呟いた。
「いや、待ってください」
紫銀が控えめに口を挟む。
「僕の再開と命の入部があっても……団体戦って五人だから、まだ分からないんじゃ……」
その現実的な一言に、場の熱気が一瞬だけ冷める。だが、すぐにまた歓声と笑いに包まれた。
命だけは状況を理解できていないのか、きょとんと首を傾げていた。




