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蜂紫伝11

期間的には一ヶ月足らずのブランク――しかし紫銀の感覚では、二ヶ月以上の間竹刀を握っていなかったような、妙な遠さがあった。


あの頃、手の中でしっくりと馴染んでいたはずの竹刀の感触が、今はほんの少しだけ自分のものではないように感じられる。


足裏から伝わる道場の板の硬さも、かつてより冷たく、遠く、どこかよそよそしい。

張り詰めた空気の中、その違和感がじわじわと意識に入り込み、心の奥にさざ波を立てる。


正面に立つ部長は、軽く竹刀を揺らしながら左右にゆらり、ゆらりと動いていた。

その揺れは、まるで水面に映る月影のように一定のリズムを持たず、次の瞬間にどちらへ踏み込むのか、視覚だけでは全く読めない。

目を凝らしても、揺れの中に攻撃の前触れを見つけることはできない――その事実が、じわじわと肩や腕の筋肉を硬くしていく。

紫銀は柄をぎゅっと握り、竹刀をまっすぐ立たせ、僅かな前傾姿勢。重心は低く、脚の内側に力を溜め、いつ攻められても即座に反応できるよう、呼吸を浅く整え、足の指先まで神経を張り詰める。


道場の空気は静まり返り、見守る部員たちの息遣いすら遠くに感じられた。


――杉板がキュッと鳴る。


その音だけが、次に起こる衝突を告げる合図のように響いた。


先に動いたのは、部長。

低く鋭い気迫の声を吐き、一気に間合いを詰める。その踏み込みの速さは、距離感の予想を裏切るほどだ。


そして、その狙いは面でも小手でもない――真芯を狙い、竹刀ごと押し潰すような叩き打ち。


紫銀は咄嗟に一歩踏み込み、竹刀を合わせて鍔迫り合いの状態へ持ち込む。

ガンッ、と鈍い衝撃が両腕に伝わり、骨の奥まで響く。彼に対して力も迫力も、わずかに部長が上であった。

押されながらも、紫銀は歯を食いしばり、体勢を崩さないよう必死に足を踏ん張る。

が、次の瞬間、部長がすっと距離を取り、そこから怒涛の連撃が襲いかかった。


面――小手――胴――面。


打ち込みと見せかけてのフェイント、横からの変化、竹刀を叩き落とすような力強い一撃。


それらをすべて防御で防ぐ紫銀の竹刀に、ガガガッと連続して衝撃が響き、手首に痺れるような痛みが走る。

木の質感が、痛みと熱を帯びて手の中でわずかに変形していくような錯覚が、紫銀の神経を駆け巡る。

だが、それでも紫銀は下がらなかった。

足さばきで打突を受け流し、相手の間合いの変化を探りながらも、わずかに空いた隙間に竹刀を差し込み、反撃の機会をうかがう。


「おお……」


見守る部員たちから、小さく驚嘆の声が漏れた。

部長の圧倒的な攻めに押されながらも、紫銀は決して引かない。

その姿は、まだ新入部員の身だということを忘れさせるほど堂々としていた。


だが、部長の攻撃はさらに加速する一方であった。


竹刀が残像のように揺れ、踏み込みの音が立て続けに響く。

踏み込みと同時に面、小手、胴、そしてまた面――攻撃の順序は完全に崩され、予測の隙を奪われる。


紫銀は視線でそれらの攻撃動作を追った瞬間には、すでに次の一撃が迫ってきていた。

紫銀の意識がほんのわずか外れた一瞬の隙を突くように、面への鋭い一撃が振り下ろされる。


ガンッ!


辛うじて竹刀を立てて受け止めたが、衝撃で足が半歩下がった。

足裏から伝わる板の硬さが、ずしりと全身に響く。

紫銀は深く息を吐き、再び構えを正す。

手の内は汗で湿り、呼吸は速まっている――だが、瞳だけはまだ折れていなかった。

その眼差しを見て、部長の口元にわずかな笑みが浮かぶ。


「……まだ来るか」


次の瞬間、紫銀の足がわずかに前へと出た。

部長の呼吸の切れ目を感じ取った――そう思った。

踏み込みと同時に、竹刀が一直線に走る。狙いは面。


キィンッ!


鋭い金属音のような衝撃。

部長が竹刀を横に払って受けたが、紫銀は間を空けず小手を狙って二撃目を叩き込む。

その速度と気迫に、見守っていた部員たちから再びどよめきが上がる。

ほんの一瞬、部長の竹刀がわずかに下がる。

その刹那、紫銀は全身の力を前方に解き放った。間合いを詰め、一気に面を狙う。竹刀が空気を裂く音が響き、部長の面金へ迫った――が。


「おっと!」


部長がわずかに身を逸らし、竹刀を受け流す。

同時に間合いが崩れる。

紫銀は必死に立て直そうとするが、そこへ再び部長の鋭いラッシュが襲いかかった。

面、小手、胴――その打突は容赦なく、しかも正確だ。

紫銀の守りが面へ偏った瞬間、部長の胴打ちが炸裂した。


パァン、と乾いた音が道場に響く。


「一本!」


誰かに指名したわけでもなく、自己的に審判役就いた部員の声が、終わりを告げた。

紫銀は竹刀を下げ、肩で息をしながら一礼した。呼吸は熱く、面金の内側は曇って視界が滲んでいた。

試合が終わると同時に、紫銀は両手で面を持ち上げた。顎紐を解き、頭上へ外す。籠っていた熱気が一気に解き放たれ、額から滴る汗が頬を伝う。額にかかった前髪を手の甲で払い、紫銀は小さく息を吐いた。


部長が笑みを浮かべながら近づいてくる。


「やっぱり、お前は面白いな。久々に本気出せた」


紫銀は苦笑し、竹刀を軽く握り直した。

まだ、やれる――そう思える自分がいることに、少しだけ驚いていた。

ジャージを脱ぎ、渡された剣道着に袖を通したのはいいが――サイズが、どうにも大きい。


袴のウエストは紐でしっかり結べば何とかなる。しかし、裾が問題だ。歩く分には支障はないが、踏み込みや跳躍をすれば確実に足先を取られそうな、微妙に長い丈。


上衣も同じく、やや余裕がありすぎる。内紐と外紐で形は整えられるが、腕をまっすぐ伸ばすと、袖の中に手がすっぽり隠れてしまう始末。これでも部室の予備着の中では最小サイズらしい。


とはいえ、命にとって本当の問題はサイズではなかった。


目の前の床にきちんと並べられた防具一式――面、胴、垂れ、小手。

どこから手をつければいいのかも分からない。

ましてや正しい装着順など、聞いたことすらない。


「……どうしよう……?」


自分でも聞こえるくらいの小さな声でつぶやき、面の面金を覗き込んだり、胴の革紐を指で引っ張ってみたり。

だが、頭の中に映像は浮かばない。きっと結び方にも決まりがあるはずなのに、全く想像できない。

その時、更衣室の奥――仕切りの向こうから、突如どよめきが響いた。


「おおおっ!」「すげぇ……!」


複数の声が重なり、空気がざわめく。どこか興奮を含んだ笑いも混じっている。

命は防具の紐を持ったまま、首を傾げた。

何事かと気になり、防具を置きっぱなしにして、音の方へ足を運ぶ。

木の床が素足にひやりと伝わり、長すぎる袴の裾が足首にまとわりつく。

そのせいで歩幅が微妙に狭くなり、足運びは慎重になる。胸の奥で、なぜか少しだけ鼓動が早まった。


更衣室を抜けた瞬間、空気が変わった。

道場特有の、汗と竹の匂いを含んだ熱気が一気に全身包まれた。

視線を中央に向けると、そこでは二人の剣士が激しく竹刀を打ち合わせていた。

一方は、間合いを一瞬で詰める踏み込みの鋭さを持ち、嵐のように打ちかかる男。

面越しでも分かるほど圧のある動き。声が先ほど「部長」と呼ばれていた人のものだと気付く。

その打ち込みは速く、正確で、そして重い。


対するは、必死に竹刀を受け流す紫銀。

押されながらも一歩も退かず、守りと攻めの間を必死でつないでいる。

竹刀がぶつかるたび、金属音にも似た乾いた音が壁に反響し、耳に鋭く刺さる。

打突と同時に、面の中から短く吐き出される息。二人の呼吸音すら、観客のざわめきに混じって響いてくる。

部長の打ち込みが面、小手、胴と休みなく襲いかかる。

その合間を縫うように、紫銀が竹刀を横薙ぎに振り抜いた。

一瞬、部長の動きが止まる――反撃の好機だ。観客席から「おおっ!」と歓声が上がる。

だが、部長は迷わなかった。体勢を立て直し、再び前へ。

間髪入れず、鋭く胴へと打ち込む。

パァン――と乾いた音が道場全体に響き渡った。


「一本!」


即席の審判役を務めていた部員の声が、試合の終わりを告げる。

紫銀はその場に立ち尽くし、やがてゆっくりと面紐に手をかけた。

金属の擦れる音、そして面が外れる。額から頬にかけて、汗がきらりと光りながら滴り落ちる。

乱れた前髪が額に張り付き、息は荒い。頬は紅潮し、目には敗北の悔しさと、まだ消えぬ闘志が宿っていた。

命は気付けば、口を閉じるのも忘れて息を呑んでいた。

「お、着替え終わったかな?」


手ぬぐいで額の汗を拭きながら、部長がこちらへ歩いてくる。先ほどの試合で見せた俊敏さはすでに影を潜め、今は柔らかな笑みを浮かべていた。

命は小さくコクンと頷いた。


「おーい、長野ー」

「はーい。なに、部長?」


道場の端で素振りをしていた長野が、声の方へ顔を向ける。額にじわりと汗がにじみ、呼吸を整えつつ竹刀を軽く肩に担ぎ直す。

歩き出す前に、視界の端にかけられた白地に紫のライン入りのタオルが目に入った。手すりに引っ掛けてあったそれを、自然な動作で取り上げる。


竹刀を片手に、軽やかな足取りで近づく長野。そのままタオルを、近くで面を外して休憩していた紫銀へ差し出す。


「お疲れ様。永木君。汗拭きなよ」

「ありがとございます。副部長」


紫銀がタオルを受け取り、頬にあててふっと笑う。その柔らかな仕草に、長野は思わず一瞬足を止めた。だがすぐに顔を戻し、部長の方へと歩みを再開する。


視線の先には、まだ道着姿の命がいた。


「……あれ? もしかしてサイズ、大きくない?」


長野は命の肩幅や腰回りを見比べるように目を細める。予備の防具が並ぶ棚を思い浮かべながら、眉を寄せた。


「うわー……これ以上小さいサイズって、うちにないんだよな。大丈夫かな……」


小声でそうつぶやきながら、長野は少し困ったように顎をかいた。命は何のことかわからず、小首を傾げるだけだった。


「部長、副部長。すみません」


紫銀が静かに切り出すと、部長と長野は同時に彼の方を向く。


「命って、ちょっと人見知りがあって……」


その瞬間、命はすっと紫銀の背後に隠れ、こっそりと二人の様子をうかがった。


「はははは。ま、それは問題ないだろ」

部長は豪快に笑う。


「そうねー。なんか、かわいいじゃない」

長野も口元を緩める。


「あれ? そういえば、防具も一緒に渡していたと思うけど……」

「付け方がわからないから、置いてきた」


命は小さく、更衣室の方を指差した。


「そうか。そうか。ま、今日は体験入部的なものだから、アレはなくてもいいか」


部長が肩を竦める。


「体験入部ですからね」

長野も頷く。


命は少しの沈黙の後、視線を上げた。


「…………やってみたいです」


その一言に、部長と長野、そして紫銀までもがわずかに驚く。


「私も、部長さん……紫銀さんとやってみたいです」


命は、先ほどの模範試合の光景をまだ鮮明に思い出していた。あの速さ、力強さ、そして剣先の迷いのなさ——胸の奥が熱くなるのを感じた。


「んー。だがなー、君と俺とでは性別の差が大きいから、ここは長野でどうだ?」

「わ、私ですかっ!?」

「二年連続関東大会出場し、お立ち台に立ってんだから、俺よりは強くないが、女子の中では上位クラスだろ?」


部長があっさりと言う。


「無茶苦茶ですね」


長野は苦笑しつつも、どこかやる気が滲んでいた。

「すみません、副部長」


紫銀が頭を下げる。


「いいのよ、永木君。防具、私の向こうだから、えーと……」


長野は命の名前を思い出そうと首を傾げる。


「白羽、命」


命がはっきりと答える。


「白羽さんの防具もあっちに置いてあるんだから、その時にルールと付け方を教えてあげる」


長野はそう言って、命を連れて更衣室へと向かった。

命は足を進めながら、まだ耳の奥で竹刀が打ち合う乾いた音を聞いていた。あの瞬間、自分の中に芽生えた衝動が消えていないことを、彼女は自覚していた。

更衣室の隅、長野は命の前にしゃがみ込み、防具の付け方をひとつずつ説明していた。


「まずは垂から。腰に巻いて……そう、そのまま背中で紐を交差させて」


命は言われた通り、ぎこちない手つきで紐を結ぶ。結び目がずれているのに気づき、あわてて直そうとする仕草が妙に幼げで、長野は口元を緩めた。


「次は胴ね。肩からこの紐を通して……」


長野が手渡した胴を命が抱え上げた瞬間、ふわりと持ち上がったそれの大きさに、長野は思わずまばたきをする。


(……あれ? こんなに余る?)


肩に掛けても、脇の下に隙間ができてしまい、正面から見ると胸の位置がやや低く見えるほどだ。

紐を締めても、命が腕を動かすたびに胴が小さく揺れ、カタカタと乾いた音を立てていた。


「ちょっと……大きいかもね」

「え、そうですか?」


命はきょとんと首を傾げ、その拍子に肩紐が少しずれてしまう。

長野は思わず手を伸ばして直しながら、(これは正規入部のとき、絶対専用サイズを作らないと……)と強く思う。


「じゃあ、最後は面。顎紐はしっかり結んで――」


命が両手で面を持ち上げ、ぎこちなくかぶる。

長野が横から覗き込むと、面金の奥で目が少し隠れすぎている。顎紐をぐっと締めてやっと安定したが、命が首を傾けると、面がわずかにずれて瞳がちらりと覗く。


(……反則でしょ、それ)


ほんの一瞬だけ見える瞳が、何故か胸をざわつかせる。


「……動きづらかったら、すぐ言って」

「はい。でも、大丈夫です」


命は小さく頷き、両手で胴の位置を直してみせる。そのたびにカタカタと音が響き、布と革の隙間がわずかに開く。

長野は、守ってやりたいような、もっと見ていたいような、相反する気持ちを抱えながら、その光景を目に焼きつけた。

更衣室の扉が開き、防具をつけた命が姿を現した。

その瞬間、近くで雑談していた部員たちが一斉に振り返り、ざわ…と空気が揺れる。


「……おい、あれ」

「え、あれ一番小さいのだよな?」

ひそひそ声があちこちで飛び交う。


命はそんな視線を気にする様子もなく、真っ直ぐに部長と紫銀のもとへ歩み寄った。

そして二人がその姿を目にした瞬間、部長が思わず言葉を漏らす。


「これは……」


紫銀も軽く眉を上げたが、何も言わずに口元だけ笑った。


「あー……まぁ、クラスの中でも低いほうだったから、まさかとは思ったが……」


部長が腕を組みながら視線を上下に走らせる。命は首を傾げ、その拍子に面が微妙にずれ、面金の隙間から大きな瞳がのぞいた。


「一応、部室にある一番小さいサイズを渡したんだが……それよりも下だったか」

「みたいですね」


防具をつけ終えた長野が、竹刀を片手にやってきた。


「白羽さんが正規入部することになったら、彼女専用のサイズを作らないとですね」


「竹刀は――」と部長が口にしかけると、

「僕のを貸しますよ」紫銀が先に差し出した。


命は差し出された竹刀を両手で受け取り、軽く上下に振って感触を確かめた。

「命……大丈夫?」と紫銀が尋ねると、面の奥で小さく頷く。

その動きに合わせて、胴がカタンと上下に揺れて小さな音を立てた。


「永木ー、どくぞー」

「はい」


紫銀と部長は、部員たちが見守っている位置に移動した。

「それじゃ、白羽さん。お願いしますね」長野が声をかける。

命は再び小さく頷いた。


長野は、その防具の付け方があまりにぎこちないのを見て、命が完全な初心者だと察する。

そこで、初手から勢いよく攻め込むのではなく、間合いを測りながら優しく、慎重な構えを取った。

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