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蜂紫伝10

転校生の命と錐が、初日の体育で叩き出したシャトルランの回数は、その日のうちに「体育館の床が抜けるかと思った」など、大げさな尾びれ腹びれつきで学校中を駆け巡った。

その結果、昼休みには各運動部の上級生が「逸材を逃すな」とばかりに教室前へ押し寄せる事態となった。

陸上部、サッカー部、バレー部──次々と名乗りを上げる面々に、命は柔らかな笑みで首を横に振った。


それに対して命は、


「興味はあるんですけど……何部に入るかは、もう少し考えてから決めたいと思っています」


その声色は柔らかく、断りの言葉ですら小春日和の風のように心地よい。上級生たちは惜しそうに眉をひそめながらも、どこか淡い期待を胸に秘めていた。


そんな彼らの思いに応えるかのように、ひとりの先輩が手元から一枚の入部届を取り出し、命に差し出した。


「無理にとは言わないけど、これもらっておいてくれ。いつでも歓迎するから」


それを合図にしたかのように、別の部の先輩も「うちもどうぞ」と書類を差し出す。さらに隣の列からも、「これ、参考までに」と笑顔で置かれる。気がつけば、命の前の机の上には、色とりどりの入部届が小さな山を築きつつあった。


命はその書類の山に軽く手を触れ、少し考えるように視線を落とした。


反対に錐はというと──


「大変申し訳ありませんが、部活に入る予定はありません」


と、即答に加え、接客業で磨かれたような完璧な営業スマイル。

そのあまりの潔さに、勧誘に来た各運動部の部長達は「……あ、はい」と一言残し、固まったまま退散していった。

もちろん、この二人の選択は校則的には何の問題もない。

だが、体育の授業での驚異的な結果からすれば、彼女たちは喉から手が出るほど欲しい“即戦力候補”だった。そうやすやすと諦めきれるわけがなかったが、


そんな押し問答のさなか──


「そこの2人ぃ! うちの女子バスケ部、どうかな!」


教室に響き渡る大きな声。

世依奈は聞き覚えのあるその声に、条件反射で顔を上げた。視線の先にいたのは、二年生の高木。女子バスケ部の部長にして、校内随一の声量を誇る人物だ。


「せ、先輩……なんでここに……」

「あれ? 世依奈ちゃんがいるじゃん!!」

「はへっ?」


返事をする間もなく、高木は世依奈の席へまっすぐ突進し、机をバンッと叩いた。


「世依奈ちゃん、女バス初の全国大会出場に向けて、あの二人はすごーく必要なの、わかる」

「え……えぇー。命ちゃんも錐さんもスタミナはすごいと思います。けど……」


世依奈はおそるおそる後ろを振り向く。

命は、手元の机いっぱいに積み上げられた入部届や同意書の山を前に、ペンを持ったまま動かず、視線だけで「どう片づけたものか」と葛藤している。紙の端がふわりと揺れるたび、眉がさらに寄っていく。


その隣では、錐が次の授業用らしいノートと教科書を広げつつ、ページをめくる片手で命に何やら助言を送っていた。小声で「こういう時はまず要らない分を仕分けて……」といった具合だが、命は聞いているのかいないのか、ただ書類の山を前に固まっている。


「えーと、木村先輩。残念なんですが……たぶん、命ちゃんと錐さん、女バスには入らないと思いますよ」


「え! 実は、もう聞いてたりしたの!?」

「聞いてないですけど……先輩」


世依奈は身を乗り出し、木村の耳元で小声になる。


「スタミナは素晴らしいですが、ボールコントロールがなかったら、試合では通用しないですし……」

「……それは、実際に見たの?」

「え、えぇ。終わってからの授業終了までの休憩時間に試してもらいました」

「で、どうだった?」

「残念ながら、ドリブルできるできない以前に、ボールが手から逃げていきます」


世依奈の声は、ため息と同じくらいの重さで落ちた。


「……そんなレベル?」

「はい。ただし、錐さんは完璧でしたが、本人は部活に入る気一切ありませんから、諦めて下さい」


高木は眉をひそめ、命と錐を順に見やった。

入部届の山を前にしてあたふたする命、錐は営業スマイル。どちらも“その気ゼロ”が全身からにじみ出ている。


「…………」


数秒の沈黙。


「……わかった。諦めるわ」


と、あっさり引き下がったかと思えば、


「世依奈ちゃん!」


机をドンと叩き、突如として満面の笑み。


「部活でリベンジするからね!!」


その宣言に、世依奈は「え、えぇ……?」と引きつった笑みを浮かべるのだった。


一日の授業、そして帰りのホームルームが終わり、紫銀は静かに鞄へ教科書を詰め込んでいた。

窓の外はすでに夕陽の色が差し込み、教室の隅に長く影を落としている。廊下からは部活動へ向かう生徒たちの足音と、笑い声が混じって響いていた。


「永木さん」


声の方へ顔を上げると、星理亜と命がこちらへ歩み寄ってくる。星理亜は相変わらず落ち着いた笑みを浮かべ、命は鞄の紐をもてあそびながらも視線を逸らさずにいた。


「ん? 白羽さん」


紫銀が首をかしげると、星理亜は一呼吸置き、言葉を続けようとした——その瞬間。


「じゃーねー、紫銀くん。星理亜さん、命ちゃん」


席が離れているにもかかわらず、わざわざこちらまで歩いてきた世依奈が、軽く手を振って通り過ぎていく。肩からかけた部活バッグが小さく揺れ、彼女はそのまま颯爽と教室を後にした。

紫銀は小さくため息をつき、視線を再び星理亜へ戻す。


「で、白羽さん、なに?」

「あー、そうでしたね。すみませんが、私と命さんですが、用事がありますので……」


星理亜は言葉を選びながらも、やや申し訳なさそうに笑みを浮かべる。


「わかった。夕飯はいるんだろ?」


紫銀は手を止めずに尋ねる。机の上にはまだ筆箱やノートが広がっており、その動きは自然に会話と重なっていた。


「えぇ。それまでには帰りますので」

「わかった。僕も今日から部活復帰するけど……」


紫銀は小さく肩を回しながら続ける。


「僕のほうが先に帰れたら、準備しとくよ」

「すみません」


星理亜は軽く頭を下げ、その仕草は相変わらず整然としている。命はその横で、何か言いかけて結局口を閉じ、二人で連れ立って教室を後にした。


しばらくして、二人が教室を出て行ったのを確認すると、紫銀もゆっくりと背を伸ばし、部活へ向かうために席を立った。


「んや、委員長。部活?」


紫銀が教室の扉を押して外に出た瞬間、写世の声が背後から飛んできた。


「あー、そうだよ」


振り返ると、いつものにぎやかな笑顔の写世が立っている。


「んで、お前は?」

「ワイも部活や」


写世はバッグから自前のカメラを取り出しながら言った。


「………そういえば、お前、何部だっけ?」

「おいおい、委員長。忘れたんか?」


紫銀は苦笑しつつも、目を細める。


「ワイはコレやで」


カメラを構え、一瞬のうちにシャッター音が響いた。


「お前な!!撮るなら、撮るって言えよ!!」

「ワイと委員長の中なら、んな不要やろ」


写世は軽く肩をすくめ、にやりと笑う。


「ほな。ワイはこっちだから」


そう言うと、写世は階段の方へ足早に向かっていった。

紫銀はその背中を見送りながら、軽く息を吐き、部活に向かうため階段を降りる。

廊下の窓から射し込む午後の陽光が、校舎の壁を淡く照らしていた。

校舎を抜け、渡り廊下を歩く。

左手に見えるのは体育館。

その反対側に建つ武道館は、ひんやりとした空気を漂わせている。

中では、畳の柔道場から力強い掛け声が、杉の板床の剣道場からは竹刀の音が規則正しく響いていた。

紫銀が武道館の扉を開けると、稽古の手を止めた剣道部員たちが一斉にこちらを見た。


「お久しぶりです」


紫銀は軽く会釈しながら声をかける。


「お、永木!なに、もう大丈夫なのか」


剣道部の部長が心配そうに近づいてくる。


「えぇ。なんとか復帰できました。ただ、毎日は無理ですけどね……すみません」

「いやいや、毎日じゃなくてもいいぜ。で、大会とかは大丈夫だよな?」

「えぇ、日にちによっては調整します」

「そっかそっか」


すると、部長の視線が横にいた誰かに向かった。


「ん?どうした?」

「なー、永木。その子は?」


紫銀が振り返ると、そこには柔らかな笑みを浮かべた命が立っていた。


「命!!なんでここに!!」

「ついてきちゃいました」

「ついてきた、って……」


紫銀は周囲の目を気にしながら、こっそりと命の耳元に囁く。


「管理局の方は大丈夫なのか?」

「はい、大丈夫です」


部長は興味津々に二人を見比べると、紫銀をどけて命の手を強く握った。


「なー、永木。その子って……今話題のシャトルランで驚異的な記録を出した子だよな?」

「あー、はい」


部長が熱い視線を向けながら問いかける。


「剣道部に入ってくれるのか!?」


命は少しだけ照れくさそうに微笑み、ゆっくりと答えた。


「はい。ですが……まだ、正式な入部ではなくて、えーと、仮入部みたいなものです。どうぞ、よろしくお願いします」

体操服から剣道着に着替えた紫銀は、更衣室の隅に置かれた防具袋を開けた。

久々に手に取る胴は、少しだけほこりの匂いがして懐かしい。まずは胴を身につけ、紐をきゅっと結ぶ。次に垂れを腰に巻き、しっかりと締める。続けて小手を両手にはめ、手首を軽く回して感触を確かめた。

面はまだ被らず、抱えるようにして更衣室を出る。久しぶりの重みが肩にのしかかり、歩くたびに防具の革の匂いと微かな軋みが耳に届く。


「お、来たな」


剣道場の入り口で部長が声をかけてきた。


「よろしくお願いします!」


紫銀は杉の板張りの道場に足を踏み入れる前に、深く一礼する。


「永木、調子はどうだ?」

「久々なので、どうでしょうね?」

「久々って……お前な、ほんの数週間来なかっただけだろ」

「そうでした?」

「そうだって。左程、間は空いてないだろ」


紫銀は瞬きをし、頭の中で日付をなぞった。

――入学してすぐの四月の頭に入部。今日は……日誌を書いてから覚えていて、五月九日だ。

指折り数えても、一ヶ月にも満たない。


だったら、なんであのとき休部届なんて出したんだ?

あれは本来、三ヶ月以上来られないときに出すものだ。

入学直後の慌ただしさ――授業や新しい人間関係、そして自分なりの事情。それらが一気に重なって、そうするしかないと勝手に思い込んでいた気がする。


だが、今こうして振り返ってみると、本当に必要だったのかは分からない。あの紙に署名したときの自分は、少しでも負担を減らしたい、余計なことを抱え込みたくない――そんな後ろ向きな気持ちに押されていた気がする。

けれど、それは本当に望んだことだったのか。それとも、ただ逃げたかっただけなのか。


胸の奥に、理由を説明できない小さなざらつきが残り、眉根がわずかに寄った。

――あのときの自分はいったい何を考えていたんだ。


「さーて」


部長が面を被る。その動作は、何度も繰り返してきたはずなのに妙にゆったりと、しかし迷いなく正確だった。

面紐を締める音が、静まり返った体育館に小さく響く。

額から顎へと滑る布地の感触、面金の冷たい光沢――それらが、ここからは遊びではないと告げているようだった。

「久々にやるかっ!」

その声は、籠った呼吸音と共に空気を震わせ、紫銀の胸の奥にまで届く。

気軽な響きの裏に、長年剣を握ってきた者だけが持つ重みがあった


「……はい」


紫銀は一瞬、呼吸を整えながらゆっくりと返事を返した。

その声には、久しぶりの実戦を前にした緊張と、どこか覚悟めいた決意が混ざっていた。

やがて面を被り、顎紐をきゅっと結ぶ。

籠った呼吸音が周囲に響き、面金越しの視界は一気に戦いの世界へと切り替わった。

 


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