蜂紫伝8
ある日の夜。
星々が瞬く空の下、竹西市の街灯りが地上に淡い輝きを落としていた。
都市と田舎の境界を曖昧にしながら、不思議な落ち着きを漂わす風景を見下ろすビルの屋上で、界渡真は風に感じながら、小さく息を吐いた。
「さて、やりますかね」
パチンっと指を鳴らすと、目の前に厚い書物が具現された。
その書物は辞典であるが、辞典としての名は存在しない。表紙には何のタイトルもなく、ただ漆黒の装丁が光を吸い込むように鈍く輝いているだけだ。
だが、その正体は『あらゆる可能性の先に存在する世界において発現した、すべての異能力の完全コピー』を網羅した辞典。
かつてどこかの世界で誰かが使った能力。あるいは誰にも知られることなく、ただ存在しただけの力。そういったものまでも含め、無限にも等しい異能の一つひとつが体系的に記録されていた。
彼はそのページを、ぱらりと適当に開いた。開かれた先をしばし眺めると、ふと手を止めて本を掲げる。
「何をされるのですか?」
問いかけるような声が、夜の静寂を破った。
振り返るまでもなく、彼はそれが誰のものかを知っていた。
その暗闇に溶け込んでいたシルエットを月明かり照らし、その正体を暗闇から現した。
その正体は、錐だった。
「そうですね。これは、あなたのためのようなものですよ、錐さん」
「え、わたしっ?」
思わず間の抜けた声を出した錐は、自分に向けられた“何か”を直感的に察したように、身構える。
「えぇ。本当の目的は別にあるんですが……結果的に、錐さんにも関わっていただくことになります。巻き込むようなかたちで、ですが」
「……まぁ、最初からそうなる気はしてましたけどね」
錐は苦笑し、肩をすくめる。
逃れられない運命、というものに、彼女はすでに幾度も向き合ってきた。
「ただ、危険はありません。あなたの命が脅かされることもない。どうぞ安心してください」
界渡真の口調は淡々としていたが、その目は冗談を許さぬ色を宿していた。
「そう言われると、少しだけ安心しますけど……で、何をされるんです?」
「えぇ。“過去”の改変です。起きた“現象”そのものはそのままに、その内部の“内容”だけを書き換えるという処理です」
錐の眉がわずかに寄る。
「……内容だけ、ですか」
「えぇ。正確に言いますと、錐さんともう一人——既にこの世界に新たに受肉されていますが、魂は変わってないあの子も対象になります。そして、今回書き換えるのは、『竹西学園中等部の転校生』に関する内容になります」
錐は一瞬、意味を理解できずに目を瞬かせた。
「えぇ。本来であれば、星理亜さんがその『転校生』であったのですが、まさかあちら側がこの世界に再度受肉する結果になってしまったので……先に次元維持管理局が、あの子後追いで『転校してきた』ことにしようとしてたのです。ですので、ちょうどタイミングが良かったため、次元維持管理局が先に動いてくれていた内容を、あなた方お二人が『転校生』とし、星理亜さんは最初からそこにいた生徒であったことに、改変します」
「……かなり、やってはいけないことのように聞こえますけど……次元維持管理局側は、大丈夫なんですか?」
「そこは、ご安心を。次元維持管理局は確かに歴史への干渉には厳格ですが、既に『転校処理』そのものは彼らが先に着手していたわけです。私たちはそれに“便乗”するかたちで、少しだけ上書きしたに過ぎません。形式上は、管理局の処理を補完したようにも見えます」
「ずるいですね……」
「えぇ、ずる賢いというのは、こういう時のためにある言葉でしょう」
界渡真は冗談めかして肩をすくめた。だが、その表情に浮かんでいるのは冷静そのもので、行うことへの覚悟と計算が滲んでいた。
「……ですが、次元維持管理局に見つかると、大変なのでは?」
夜の街を見下ろす高台の縁に立ちながら、錐がぽつりと呟いた。風が頬を撫でる音の中、界渡真は口元にわずかに笑みを浮かべる。
「えぇ。大変というよりも、厄介ですね。ですから、いろいろと手順を踏みましたよ」
彼は手にしていた黒革の辞典を軽く指先で弾く。ぱらりと一枚、風に乗ってページが捲れた。紙の擦れる音が、静けさの中に淡く響いた。
「まず、ヴェイドさん直下の潜伏部隊を、強制的にあちら側——次元維持管理局の領域に送還させました。あ、もちろん、今までどおり、写世くんがやってくれたことを無駄にしないように、私自らがやりましたからね」
「えぇ。あなたの心魂具に入っていましたから、知ってます。ですが……なぜ、あなたでないといけなかったのでしょう?別に、あの方——写世さんでもよかったのでは?」
錐の問いに、界渡真は一瞬目を伏せ、そして静かに言葉を続けた。
「写世くんでも、問題なく可能です。ですが、彼の能力は“使い捨て”のコピー。使い方次第によりますが、彼の能力を管理局から危険視されないようにしなければなりませんからね。なんでも、最初は『次元干渉者』の疑いがかけられていたらしいのですが、シラホさんが修正をしたようです。ですから、そこは確実に私でなければいけないのです」
彼は空を仰ぎ見て、ほんのわずかの間を置いて続ける。夜空には星々が鈍く瞬き、遠くで犬の鳴き声が微かに響いていた。
「それに、私の能力は、直接シラホさんから授かったものになるのですが……まだ完全に使いこなせてません。もし、そうなれば次元維持管理局的には“危険物指定”される代物です。まだ未熟な状態ですけど、それでも警戒される程度には使えますからね」
「それで、あなたなんですね。もしですが、あなたがそれを使いこなせたとしても……あのシラホさんには、敵わないのですね?」
「当然です。どんな条件でも、私が彼女に勝つ未来は存在しません」
断言するようなその声音には、畏敬にも似た感情がにじんでいた。
「さて、少し話が逸れましたが……私はただ彼らを送還しただけではありませんよ。ちゃんと、後のことまで考えて“対策”済みです」
「…………何を、されたのですか?」
錐の問いに、界渡真は辞典を閉じ、ゆっくりと振り返る。
「主世界と次元維持管理局の間には、“ゲート”と呼ばれる界間路が存在します。それらがこの2つの間にいくつも繋がれています。相互往来可能な経路ではありますが、その中間地点――どういう理由かは誰も知らないものの――に、“扉”のような構造物が、あたかも境界を象徴するかのように設置されているのです」
「とびら……?」
「えぇ。“扉”です。まるで古代建築の遺構のような、物理的な存在感をもつ構造物です。浮遊する大理石の柱に囲まれ、重厚な扉が虚空の中にぽつんと浮かぶ……そんな光景を想像していただければいいでしょう。これが、ゲートの途中に、まるで“意図されたように”存在しているのです。いつから、誰が、何のために設置したのかは、次元維持管理局ですら把握できていないようですがね」
「え……それ、じゃあ誰も……?」
「はい。正確な由来を知っている者はいないそうです。ただ一つだけわかっているのは、この“扉”は、単なる出入り口というよりも、“資格ある者”のみの意思によって開門することができます。そして、現在それを開けられることができるのは、次元維持管理局の上位層ーーーーもとい、最高責任者の4名だけだとされています。ちなみにですが、こちら側に残っている例の部隊の部隊長と、星理亜さんには、その資格がないそうですよ」
「じゃあ……その扉をどうにかした、ということですか?」
「その通りです。シラホさんが、その扉の仕組みを“逆”にしました」
「逆……?」
「えぇ、“逆”です。通常は次元維持管理局側からしか開けられなかったその扉を、こちら側——主世界側で開けられるように変更したのです。これにより、彼らが一方的に干渉することはできません。開けるための資格を持つのは、私とシラホさんだけとなりました」
「どうして……そんなことが可能だったのですか?」
「詳しくは知りませんが、彼女であれば、その程度は造作もないことです。彼女は因果そのものに干渉できるかもしれない存在ですから」
「そこまで、すごい人だったんですね……」
「えぇ。彼女は、あらゆる世界における出来事——過去、未来、そして終焉すらも“見る”ことができます。彼女にとって、“知らないこと”、”見えないこと”など存在しません」
界渡真は再び辞典を手に取り、ページを一枚めくる。その手元の動きに視線を送っていた錐が、ふと視線を逸らす。その横顔に、何かを問いたいという想いがにじんでいた。
「どうなさいました?」
「……あの、こんなときに訊ねるようなことではないと思いますがーーーー」
「なんで、私たち二人が選ばれたのか。それを知りたい、という顔ですね」
「はい……あの時、燃える城が崩れる中で、私は確実に死ぬと覚悟していました。それなのに今……こうして、生きている。この現実が、いまでも不思議で……」
「あなた方二人を選んだのは、私ではありません」
「それも、シラホさん……?」
「えぇ、彼女です。ただし、私もその理由は知っています。けれど、今ここでは、すべてを明かすわけにはいきません。ですがひとつだけ確かなことをお伝えしましょう。あなた方お二人こそが、“紫の意思”の制御と抑制、そしてこの主世界を救うための“鍵”であるということ」
界渡真の言葉に、錐は深くうなずき、そして静かに視線を夜景へと向けた。街の灯りが遠く瞬き、どこか現実味を帯びない光景の中に、彼女は己の存在理由を探し続けていた。
「それで……界渡真さん」
「なんでしょうか?」
「これからあなたがすることの、本当の目的は?」
「あぁ、それはまだお伝えしていませんでしたね。すみません」
界渡真は辞典を高く掲げると、そのページが勢いよく捲れていき、ある一点でぴたりと止まった。
「現在の永木紫銀君の覚醒状態と、終焉の時までの残された期間を照らし合わせたところ……どうしても、時間が足りませんでした。ですから、彼の覚醒状態を維持したまま、世界全体の時間を“およそ一ヶ月”巻き戻し、その上で過去を書き換えるのです」
「……向こう側から来られないからって、ずいぶんと大胆ですね」
「えぇ、大胆です。しかし、必要なことなのです」
界渡真の瞳が真剣な光を宿す。
辞典のページが青白く発光しはじめる。その光の中心で、界渡真はぽつりと言葉を付け足す。
「……ですが、それでもなお、不十分かもしれませんけどね」
※
朝の光がカーテン越しに射し込み、やわらかな色を部屋に落としていた。鳥のさえずりが遠くから聞こえ、ゆっくりと目を覚ますにはちょうどいい穏やかな朝だった。
「おはようございます、錐さん」
界渡真の声が、キッチン側から明るく響く。眠たげな目を擦りながら錐が寝間着のままふらふらとリビングへと現れた。
「おはようございます……」
まだ半分夢の中といった様子で、ぼそりとした返事を返す。
「朝食の準備ができていますよ」
「ふぁーい……」
錐は小さく返事をしつつ、リビングの椅子に深く腰掛けた。界渡真は丁寧な動作でトレイを手にし、湯気の立つ朝食を錐の前に置いた。
「いただきまーす……」
まだ眠気が抜けきらない様子で箸を手に取る錐。その様子を見ながら、界渡真も自分の皿を持ってテーブルを挟んだ向かいの席に座る。
「食べながらでいいので、錐さんに今日からのことをお伝えします」
「今日からのこと……?」
錐はゆるく眉を寄せながら、ご飯の湯気越しに界渡真を見る。目元はまだぼんやりしていた。
「えぇ。今日からです」
界渡真は、柔らかな笑みを浮かべたまま口を開いた。
「錐さん。今日から、私と一緒に竹西学園中学校に通ってもらいます」
「ふぇっ!?」
あまりに突然の言葉に、錐は箸を持つ手を止め、半開きだった口をしっかり閉じるのも忘れて、声を上げた。
「昨日の夜、お伝えしましたよね。あの子と一緒に錐さんも転校生にしました、と」
「お、覚えてますけど……その、なぜ、あなたも一緒になるのですか?」
慌てたように言いながらも、眠気は一気に吹き飛んでいた。
「あー、すみませんでした。お伝えしてなかったかもしれませんね。これからのことを踏まえ、私は、星理亜さんと同じく、最初からそこにいたことにしました。ですから、私と一緒です」
そう言って、界渡真は錐の足元に制服の入った箱をすっと差し出す。
「こちらが、錐さんの制服です」
「…………」
言葉を失ったまま箱を見る錐。心なしか、開けるのをためらっているようにも見える。
「ご安心ください。私は錐さんのサイズを知りませんでしたので、シラホさんにお願いしました。そのため、サイズはピッタリです」
「……そこまで知ってるんですか、あの人……」
思わず呟いた錐の声には、驚きとわずかな諦めが混じっていた。
「えぇ。彼女ですから」
界渡真は苦笑しつつも、どこか当然のことのように頷くと、次に辞典を開いて一枚のページを見せる。そこには複数の魔法陣が重ね書きされ、淡い光を帯びていた。
「あと、こちらに触れてもらっていいですか?」
「それは……一体、何ですか?」
「大丈夫ですよ。これは危険なものではありません」
錐は半信半疑といった表情で、辞典のページに視線を落とす。光の揺らめきが彼女の瞳に映った。
「触るとどうなるのでしょうか?」
「私が知り得る限りのこの世界における智学、それと次元維持管理局の隊員とほぼ同等の体力を得られます」
「しないと……ダメなんですよね?」
界渡真は静かに頷く。
錐は小さく息を吐いて、ためらいながらも右手を魔法陣の中心に置いた。
ページの上の魔法陣がわずかに明るく光り出し、そしてすぐにその光は消えた。見た目に特別な変化はない。
「……何も、変わった感じがしませんが……」
「大丈夫ですよ。きちんと反応しています。これは即座に何かが変わるというより、あなたの身体の根本に組み込まれるものですから。焦らず、ゆっくり慣れていけばいいのです」
界渡真は穏やかな声でそう言い、食事の手を止めずに続けた。
「それで……界渡真さん?」
「はい。なんでしょうか?」
「界渡真さんも、一緒ですよね? 学校……」
「えぇ。一緒です。私は上級生――3年生として在学していることになっています」
「…………その姿で、ですか?」
錐は思わず問い返した。界渡真の姿は、どう見ても年季の入った大人の男であり、中学生として通うのは無理がありすぎた。
「あぁ、すみませんね。この姿でそれは無理がありますので、こちらです」
彼がそう言った瞬間、淡い光が彼の全身を包み込んだ。まるで衣のように揺らめく光が数秒後に消えると、そこにいたのは、どこか中性的で洗練された――高校生くらいに見える青年だった。
髪は少しだけ長く、柔らかそうな黒。目元には知性の影を残しながらも、年相応の柔らかさが加わっていた。声も、どこか若返っている。
「それとですね、錐さん」
「……はい?」
「これから、錐さんは『界渡真 錐』という名前になってもらいます。私の“義妹”という設定にしてありますので」
「……え?」
錐は硬直し、スプーンを口の前で止めたまま界渡真を見つめる。
「冗談ではありません。公式書類も全て通しました。ですから、私のことは兄として慕っていただけると助かります」
錐は呆然とした表情のまま、箸を持つ手を止めていた。口を開こうとしたが、言葉が出てこない。
「あと、注意点があります」
界渡真は一拍置き、少し表情を引き締めた。先ほどまでの柔らかい口調から、わずかに重さが加わった。
「注意点……?」
「えぇ。一応、今の時代ではあなたを知っている方は誰もいませんし、『あなたがいた』という歴史そのものも伏せることができています」
静かに、しかし確信を持って彼は言葉を続ける。
「ですが――彼女がいます」
「……命のこと?」
錐の声には緊張が滲んでいた。何気ないやりとりのようでいて、名前を口にするだけで胸の奥がひりつく。
「えぇ。命です」
界渡真はゆっくりと頷いた。
「あなたは、過去の記憶を持ったままこの時代につれてくることができましたが、彼女は異なっています」
「記憶……が、ない?」
言葉を繰り返しながら、錐は自分でも気づかぬうちに胸のあたりをぎゅっと押さえていた。
「えぇ。残っていません。厳密に言えば、消されている状態です。次元維持管理局が過去からの因果干渉を避けるため、彼女の記憶は“この時代”のものだけに調整されています」
界渡真の口調はあくまで冷静だったが、その内側には、錐の心情を慮る静かな配慮があった。
「ですから、あなたからしてみれば、永く久しぶりな再会になるかもしれませんが――」
少し間を空けて、言いにくそうに続ける。
「彼女からすれば、あなたは初対面の人間です」
沈黙が落ちた。
錐は目を伏せたまま、なにも言えずにいた。感情が混じり合い、すぐには言葉にできなかった。喜びと、期待と、戸惑いと……そして、恐れ。
「彼女の態度や言葉が、あなたの記憶の中の“命”と異なっていても、それは当然のことです。決して、彼女があなたを拒絶しているわけではないと、理解していてください」
界渡真の声は、やさしかった。
「……はい」
錐の返事は、小さく、しかし確かな音でリビングに響いた。