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蜂紫伝7

四時間目は体育。隣のクラスとの合同授業ということもあり、体育館はいつも以上に賑やかだった。

転校生として迎えられてからまだ半日も経っていない命と錐にとっては、初めての“全体の輪”への参加でもあった。

簡単な準備運動を終えると、体育教師の号令が響く。


「本日のメニューは、シャトルランだ。最初は、4組からいくぞー」


その一言に、体育館内の空気がわずかにざわめいた。

竹西学園指定の体育着――淡いグレー地に水色のラインが入った半袖シャツと、膝上丈のハーフパンツ姿の生徒たちが、ゆるやかに散らばっていく。

肌に当たる空気はやわらかく、窓の上部を開ければ、心地よい風が通り抜けていく。5月の陽気にはちょうどよい、運動にはもってこいの気温だった。


「まぁ、落ち着け。時間は15分固定だ。両クラス終わったら、授業終了まで10分ぐらい余るから、その間は自由に休憩していい」


体育教師の言葉に、生徒たちの表情が少しだけ和らいだ。

ほんのわずかだが、張りつめていた空気に、緩みが生まれる。


「あー、それなら納得かも」

「でもシャトルランだぞ、結局キツいって……」


肩をすくめる者、苦笑する者、それぞれの反応がぽつぽつと交わされるたび、体育館の空気は少しずつ日常を取り戻していった。


4組の生徒たちは、体育教師の指示に従い、並べられたプラスチック製のトレイに目を走らせていく。自分の番号が表示されたIDバンドを見つけ出そうと、あちこちでしゃがみ込み、手を伸ばす姿が次々に現れる。


バンドはそれぞれに色分けされていたが、微妙な違いしかなく、見分けに手間取る者も少なくなかった。

手にしたバンドを、隣の友人に見せて向きを確認する者。逆につけてしまい、慌てて付け直す者。手首に通すたび、きつさを気にして何度も装着を繰り返す者。


その中には、両腕にバンドをつけてみせてふざける者もいた。

笑い声がさざ波のように体育館内を駆け抜け、数人の肩が楽しそうに揺れる。友人の仕草にツッコミを入れるような仕草も見え、互いに肩を小突き合いながら、自然と笑顔が広がっていく。


小さな混雑と、それに混じるざわつき。

そこには、緊張を和らげる程度の、ほどよい賑わいがあった。


準備を終えた者から、腕時計を確認したり、ストレッチを始めたりと、それぞれのリズムでシャトルランに向けて体を整えていく。

そんな様子を、壁際で見ている3組の生徒たちは、少しだけ肩の力を抜きながら、それぞれに準備を進めていく。

体育館の床に落ちる初夏の陽射しが、IDバンドの反射できらりと光った。


「かぁー。マジかいな。わい、あれは嫌いやで……」


写世が肩をすくめるように言った。周囲を見渡してみても、似たような表情をしている男子は多い。


「僕もそこまで保たないからね」


紫銀は苦笑を浮かべ、軽く脚を伸ばしてストレッチを続けていた。


「私は好きだよ」


世依奈が明るく言う。長い髪を後ろで結び直すと、軽くジャンプして足元を確かめる。


「まぁ、世依奈は女バスのエースだからね」


紫銀が言うと、世依奈は「えっへん」と胸を張ってみせた。からかいに見せかけた、事実を含むやりとりだった。


「白羽さんは、運動神経は?」


紫銀が視線を向けると、星理亜はひと呼吸置いてから微笑んだ。


「そこそこ自信はありますよ?」


なぜか少し首を傾げながら答えるその様子に、紫銀は眉を寄せた。


「なんで疑問形なんだ……」と、思わずぼやく。

「のー、委員長」


写世が声をひそめて言う。何か含むような口調だった。

そのタイミングで、ビーッという電子音が体育館内に響き渡る。シャトルラン開始の合図だ。

一斉に床を蹴って走り出す足音。体育館の空気が一気に動き出す。


「白羽はんと転校生はんって、同じ名字やん? どない呼びわけとるん?」


写世が問う。小声だが、その言葉にはどこか探るような調子があった。


「まぁ、姉妹みたいだからね」


紫銀はあっさりと答える。疑問にすら思っていなかったというように。


「せやけど、呼び方や。混ざらへん?」

「わけるって……そりゃー……」


紫銀は指を伸ばしながら、順に指し示す。


「白羽さんに」――星理亜。

「命、だろ?」――命。

「ひゃわ。な、なんですか」


命が小さく跳ねるように声を上げ、手の甲で頬を押さえた。驚いたような、戸惑うような仕草。


「あー……なるなー」


写世が妙に納得したように言い、顎に手を添えて何か考え込む。


「どうしたの、どうしたの?」


世依奈がぴょこんと顔をのぞかせる。


「委員長が白羽はんと転校生はんをどう呼んどるか気になったんや」

「わかるー。同じ白羽だもんね」


世依奈がうんうんと頷いた。命の肩をとんとんと叩くと、命は恐縮したように目を伏せた。

一方で、すでに走り出していた4組の生徒たちは、次々とバテ始めていた。

息を切らし、膝に手をついて座り込む者。壁にもたれて汗を拭う者。

空調は入っているが、シャトルランの熱気はそれを軽く上回る。

世依奈はそんな中、命と星理亜を引き連れて話し込み始めた。笑顔を浮かべ、なにかを楽しそうに話す様子。命もおそるおそるではあるが、言葉を返している。星理亜は相変わらず微笑をたたえ、聞き手にまわっていた。


「なー、写世」

紫銀がふと声を落とす。


「んや、委員長?」

「お前が“転校生はん”って呼んでるのって……」


紫銀はちらりと三人の方を視線で示す。


「白羽……さんのこと、だったよな?」

「ちゃうちゃう。妹はんのほうや」


写世はあっさり言った。

その瞬間、紫銀の胸の奥で、なにか小さな違和感が灯った。

ほんのかすかな引っかかり。それは形にならないまま、どこかに沈んでいく。


「それに、委員長」


写世は少し声を落として続ける。


「白羽はんは、ずっとおったやろ? 委員長を推薦した仲やんか」

「あー……変なことを聞いたかな。ごめん」


紫銀は苦笑しながら、頭をかいた。

ちょうどそのとき、これまでの規則的なビープ音とは違う、少し長めのビー……という合図が体育館に響いた。

4組の測定終了を知らせる、区切りの音だ。


走っていた生徒たちの動きが次々に止まり、息を切らしながら歩みを緩めていく。

床に膝をつき込む者、ジャージの袖で額の汗を拭う者、どっとその場に座り込む者――

どの顔にも疲労はあったが、それなりの達成感も見えた。最終的に残っていた数名の男子が、ゼェゼェと肩で息をしながらも、互いに軽く手を上げて健闘を讃え合う。

記録としては、飛び抜けた者はいなかったものの、全体的に平均点はクリアしており、まずまずの出来だったと言えるだろう。


「4組、おつかれ! 後は休んでいいぞー! 次、3組集合っ!」


体育教師の声に、疲労の色が濃かった空気が、少しずつ次の緊張へと切り替わっていく。

「ほな、地獄時間の始まりや……」

写世が肩を回しながら、重たい足取りで前へ進み出す。

「ほな、委員長の」

写世がぽんとIDバンドを差し出してきた。


「ありがとう」

紫銀は受け取りながら、軽く頭を下げる。


「どこがええ? 場所」

「どこでも変わらないだろ」

「せやな」


そんな会話をしていると、前方で手を大きく振る姿が目に入る。

「紫銀君、こっちこっち!」

世依奈が元気よく声をかけてきた。


「あそこでいいだろ」

「やな」

二人はそのまま、並んでいる列の中腹あたりへと向かう。


そこにはすでに世依奈、星理亜、命が並んでいた。自然と、世依奈、星理亜、命、紫銀、写世の順に並ぶ形になる。


「よーし、がんばるぞー」

世依奈が拳を突き上げるようにして、張り切った声を上げる。


「命さん、先ほど見てましたから、大丈夫ですよね」

星理亜がややからかうように、命に目を向けた。


「う、うん。がんばる……」

命は緊張したように小さく頷いた。


「委員長、委員長」


隣で写世が小声で呼ぶ。


「ん?」

IDバンドを確認しながら紫銀が顔を向ける。


「負けへんで」

「こっちもだ」


笑みを交わす二人。

そんな中、体育教師の声が体育館に響いた。


「うーし。並んだなー。準備はいいかっ!?」


どこか気の抜けた、でもあきらめたような空気が流れる。やりたくない気持ちはあっても、誰も逆らおうとはしない。


「はーい」


世依奈が真っ先に手を挙げると、それを皮切りに、あちらこちらで手が挙がっていく。


準備完了の合図が教師に伝わった。

紫銀はふっと息を吐いて、左足の力をわずかに抜く。

隣の世依奈も、星理亜も、命も、それぞれのスタンスで集中に入る。


――ビーッ。


電子音が体育館内に響き渡る。

15分間の地獄が静かに、そして、確かに始まった。


6秒ごとに鳴る、機械的な合図。

その音を合図に、ただ20メートル先のラインを目指して走る――それが、シャトルラン。

単純なルール。やることも明快。

だが、それは想像以上に、いや、想像なんか遥かに越えて――過酷なスポーツであった。


最初は、誰もが軽やか気分であった。

中学1年生であっても20メートルを走り切ることに何の不安もなかった。

むしろ、どこまでいけるか――ちょっとした興味と、遊び心すらあった。

6秒あれば、20メートルなんて楽勝。

ラインに着いたら、1、2、3と数えられるくらいの余裕もある。

立ち止まって息を整え、軽く肩を揺らしてリズムを取ってから、次の合図で再び駆け出す。

テンポは心地よく、走ることがむしろ気持ちよかった。


――そう、“最初のうち”は。

汗もまだ気にならない。

呼吸も整っている。

余裕だと思っていた。誰もが。


でも、違った。


回数を重ねれば重ねるほど、その「余裕」は削られていく。

速く走れば、たしかに多く休める。

でも、速く走れば、それだけ体力を消耗する。

スピードを上げることが、逆に自分を追い詰める。

脚は重くなり、胸が痛くなり、息が荒くなる。

それでも走らなきゃならない。


逆に、疲れてきて走るのが遅くなれば――今度は、間に合わなくなる。

数秒だったはずの余裕が、気づけば消えている。

足が止まりそうになる。

頭は冷静なつもりでも、身体がついてこない。


たった6秒。

でも、その6秒の壁はあまりにも高く、冷たく、無慈悲だった。


一度タイミングを崩せば、そこから先は地獄だ。

ラインに届く前に音が鳴る。

立て直す余裕もない。

次のターンの猶予もなくなる。

ただ、ズルズルと――脱落していくだけ。


走るたび、20メートルがどんどん遠くなる。

膝が笑う。息が切れる。視界が揺れる。

それでも、止まったら終わる。


「ピッ」――その音が鳴った瞬間に、走り出せなければ終わり。


シャトルランは、体力勝負じゃない。

根性論でもない。

それは、自分自身と、6秒との、静かで終わりの見えない戦いだった。


50回を越えたあたりで、体育館のあちこちに脱落者が転がり始めた。

足をもつれさせ、そのまま崩れ落ちる者。ラインの向こうで膝に手をつき、うずくまる者。

苦悶の表情を浮かべ、誰かの名前を呼ぶでもなく、ゼェゼェと荒い息を吐く音だけが、体育館中に散らばっていく。


次第に、その呼吸の音と靴音だけが支配する空間になっていた。

声もなく、叫びもない。

ただ疲労と、限界と、静かな脱落の気配――。


女子のほとんどは、その時点で限界を迎えていた。

それは恥ではない。むしろ、当然のことだった。

人の体力には限度がある。

特にまだ成長途中の身体にとって、この種目はただの体力測定という枠を軽々と越えている。


――それでも、残っていた。


世依奈、星理亜、命、錐。

その4人が、まだ走っていた。


世依奈と星理亜は、納得の顔ぶれだ。

バスケ部のエースである世依奈は、日頃から鍛えられている。

星理亜もまた、才色兼備にして文武両道と噂される存在。最近では「どんな体育種目でも息ひとつ乱さない」と、裏でひそかに語られるほどだった。


だが――。


転校してきたばかりの命と錐が、その中にいることは衝撃だった。


70回を越えると、男子たちも次々と脱落していった。


写世が、膝に手をついて「無理やーっ!」と叫び、息を切らしながら崩れ落ちたのが75回付近。


紫銀も、すでに表情を歪めていた。

眉根を寄せ、唇をかみ、何度もタイミングを測るようにライン手前で跳ねるような走りを繰り返していた。

足が鉛のように重くなり、膝が笑いはじめている。

それでも、意地だけで前へ進む。教師や誰かの評価ではなく、自分自身にだけ向けた意地。


80回目、81回目、82回目……

ゼェゼェと荒い息が喉を焼き、内臓が持ち上がってくるような苦しさが押し寄せる。

もはや、呼吸なのか呻き声なのかもわからない。


――それでも、前へ。


そして、86回目。


「だぁぁっ! 無理ぃっ!」


限界の叫びを吐きながら、紫銀はその場に座り込んだ。

膝がガクガクと震え、呼吸が追いつかない。口から漏れる音はまるで肺をひっくり返すようで、喉が焼けつくほど痛い。

冷たい体育館の床が、汗で濡れた背中に触れて、不快というより痛みに近い刺激を与える。


視界の端に、動く影があった。

世依奈、星理亜と命、そして錐。

まだ走っている。しかも――まったくペースを崩さずに。


彼女たちの足音は、まるで時計の秒針のように正確で、一切の乱れがない。

呼吸の乱れも、顔の歪みもない。ただ淡々と、ラインを往復し続けていた。


「お疲れや、委員長。ほれ、タオル」


写世が、いつの間にか紫銀の荷物から取り出しておいてくれた、自前のタオルを差し出してきた。

紫銀は、驚いたように目を瞬かせ、それから少しだけ苦笑を浮かべた。


「……気が利くな、写世は」

「いや、しんどそうやったからな」


タオルは、紫銀が朝、きれいに畳んで持ってきたものだ。

自分の名前が小さく刺繍された隅を握りしめ、額と頬を拭う。

その瞬間、目に入り込んだ汗がじんわりと沁みて、わずかに顔をしかめた。

座ったまま、額をぬぐいながら紫銀は前方を見つめる。

体育館の高い天井。無機質な蛍光灯の光が、床に反射して白く滲む。

その下を、彼女たち四人が、まるで別次元の存在のように駆け続けていた。


音もなく。ブレることもなく。

静かに、ただ淡々と、ルールに従って走る姿――


「……すごいな、あの四人……」


紫銀はぽつりとつぶやいた。

その声は誰に向けたものでもなかった。

ただ、自分自身の中にある「常識」がひとつ、崩れた音を立てた気がしたのだった。


特に――命と星理亜。


彼女たちが“普通じゃない”存在であることは、紫銀は、知っていた。

次元維持管理局。

あの、現実味の薄い技術と知識を操る組織に属し、表の世界では到底ありえない任務に関わる者たち。

彼女たちは、そこで“日常”ではない日々を過ごしている。


紫銀も、その一端に触れたことがある。

いや、むしろ否応なく巻き込まれてきた。

だからこそ、理解していた。命や星理亜が“ただの中学生”ではないことを。


――それでも。


それでも、こうしてシャトルランのような「単純な持久運動」においてまで、圧倒的な違いを見せつけられると、何か割り切れないものが心に残った。


彼女たちは、まるで最初から最後まで、一定のリズムを刻み続けるメトロノームのようだった。

疲労の色も、迷いの気配もない。

呼吸は静かで、足取りは正確。周囲が倒れていく中でも、まるで“機械”のように走り続けている。


――紫銀は思う。


『だから、体力もすごくて当然――なのかもしれない』

無意識に、そうやって納得しようとしていた。

あれは“普通じゃない人間”だから。

だから、自分たちとは違って当然。走れるのも当たり前。

……そうやって、心のどこかで自分を慰めていたのだ。


でも、それは本当に“当然”なのか?


命の瞳は、ずっと前を見据えている。星理亜のフォームには、一切の無駄がない。

ただの訓練だけで、ここまでなれるものなのか?

そう問いかける自分がいる。

それと同時に――その問いに答えを出すのが、少しだけ怖い気もした。


――だが、それにしても。


まったく息の乱れを見せず、ペースを崩さず、無言のまま走り続けるあの姿は、どう見ても中学生のそれではなかった。

どこか、非現実的ですらある。

命も、星理亜も、錐も。あの速度で、あの距離を、あの回数を――淡々と、まるで感情も肉体的な限界も存在しないかのように。


そして、そこに食らいつくように走り続ける世依奈もまた、十分に異質だった。


「パねぇな、あの四人……」


写世がぽつりと呟く。その声には驚きと、少しの畏怖が混じっていた。


「う、うん……世依奈も頑張ってるけど……もう、そろそろ……」


紫銀も、息を飲みながらその姿を目で追っていた。


――102回目の合図音が、体育館に響き渡る。


「むりぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」


叫ぶような声が、空気を震わせた。

その声と同時に、世依奈の身体が前のめりに傾く。

片手をついて、かろうじて転倒は免れたものの、脚はもう一歩も動けそうになかった。


肩が激しく上下し、喉の奥からは苦しげな呼吸音が漏れる。

汗で濡れた前髪が額に貼りつき、吐息が濃く、熱い。

顔を上げる余裕もなく、ただその場で必死に呼吸を整えるようにしゃがみ込む。


周囲は静かだった。

だが、それは決して冷淡さからではない。

まだ試技の途中であることもそうだが、それ以上に――世依奈の走りが、それほど真剣だったのだと、皆が理解していた。


誰よりも真面目に、全力で、このシャトルランに挑んでいた。

だからこそ、声も拍手も、かけられなかった。


だが、まだシャトルランは続いている。

体育館にはビー音が鳴り続け、命、星理亜、錐の3人が淡々とラインを往復していた。

もはや、競技というより儀式のような光景。


その静寂を破るような拍手や歓声はない。

あるのは、ざわつきと、目を見開いたまま声も出せない視線。


誰もが、ただ“見守る”しかなかった。


彼女たちの呼吸は乱れていない。

足取りも変わらない。

既に回数は120回を超えていた。


まるで――人間ではないかのように。


体育館に、不穏な静けさが広がっていく。

熱気のはずの空気が、冷たい緊張に満たされていく。

生徒も、教師も、空気ごと固まっていた。


体育教師が、目を疑うように腕時計を確認する。

制限時間の15分まで、あと3分。

このまま行けば、間違いなく“記録”になる。


125回目。

ついに、動きがあった。


星理亜が、命と錐にわずかに遅れはじめたのだ。

これまでは制限時間の6秒に対して1秒ほどの余裕を持っていたが、徐々にその隙が削れていく。

呼吸が乱れ、ついにギリギリでラインを越えるようになる。


ビー音が鳴る。

星理亜は短く息を吐き、足を止める。

そして、右手を挙げた。


――棄権。


一切の無駄を排した、その動作。

潔いその選択に、逆に誰もが息を呑んだ。


残るは命と錐。


背丈で言えば、女子の中で最も小柄な命と、上位に入るほど長身の錐。

対照的なふたりが、今もまったく変わらぬ速度で走り続けていた。


呼吸に乱れはない。

姿勢の崩れも、ない。

それどころか、脚さばきすら美しかった。


128回目のブザー直後。

錐がぽつりと声をかける。


「さすがですね」

「なにが?」と命が返す。


129回目。

ラインを踏んで折り返しながら、錐が小さく笑う。


「そのスタミナと体力にですよ」

「んー。ありがとう」


短いやり取りだったが、それが逆に衝撃的だった。

この状況で、余裕がある。

まだ“話せる”のだ――。


138回目。

命の足元がふっと滑った。

ほんの小さなバランスの乱れ。

だが、それだけで全体のリズムは狂いかける。


その瞬間、緊張が体育館に走った。


命は即座に体勢を立て直す。

一歩、そしてもう一歩――ラインを踏む。


139回目。

呼吸を整える間もなく、再び走り出す。

140回目。リズムは、見事に元通りに戻っていた。


145回目、146回目、147回目――。

もう、誰も声を出していない。

時間も、限界も、とうに超えているはずだった。


そして――


150回目。

最後のブザーが、体育館の空間を切り裂くように響き渡る。

長く、甲高く、確かに“終了”を告げる音。


命と錐は、ぴたりと並んで最後の往復を始めた。

タイミングは完璧。

走り出しの瞬間から、ふたりの足音はまったく同じだった。


そして、同時にラインを踏む。


――その瞬間。


「うわっ!」


命が、盛大に足を滑らせた。


前のめりに倒れ、そのまま体育館の床を――


ゴロゴロゴロゴロッ――!


転がる転がる。

勢いそのままに、最後のラインを見事に越えていく。

完璧すぎる滑り込みフィニッシュだった。


「……あわわわわ……」


仰向けに倒れたまま、命は脱力した声を漏らす。

手足は小さく痙攣し、息はヒューヒューと浅く荒い。

それでも、笑っていた。


「お疲れ様です、命さん」


錐が静かに歩み寄り、手を差し出す。


「ありがとう……」


命はその手を取り、ようやく上体を起こす。


顔は汗でぐちゃぐちゃだ。

でも、その笑顔は――何より、誇らしげだった。


こうして、地獄の15分間は終了し、天国と思える約10分間の体育の授業が終わるまでの追加の休み時間が始まった。

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