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蜂紫伝6

そして、時は戻り――命の登校初日。


 「それでは、私は職員室に寄っていきますので」


星理亜が穏やかな口調で言うと、その場にいた紫銀と世依奈が顔を見合わせるようにして、同時に口を開いた。


「職員室?」


登校時間を少し過ぎた昇降口は、すでに混雑が落ち着き、ひんやりとした空気が流れていた。

三人は並んで靴箱の前に立ち、それぞれに上履きへと履き替えていた。


「はい」


星理亜が短く返事をしながら、後ろに立つ小さな影へ自然と体をずらす。


「命さんは今日からなのですが、教室に行く前に先生にお渡しすることになってますので」


そう言って、星理亜は命の手をそっと取ると、丁寧に一礼して二人から離れた。


職員室は教室棟とは別の棟にあり、渡り廊下を抜けた先にある重厚な建物だった。 朝の光が差し込む廊下を歩きながら、命は周囲の景色にきょろきょろと視線を向けていた。 どこもかしこも初めて見るものばかりで、視線の落ち着く先がなかった。

やがて二人が立ち止まった先にあったのは、「職員室」と書かれた札のかかった扉。

星理亜は命の様子を見て、ゆっくりと語りかける。


「ここが、職員室ですよ。命さん」


命は扉を見つめながら、小さく首を傾げた。


「……職員室、って……どういう場所なんですか?」


その素朴な疑問に、星理亜は一瞬だけ言葉を探したが、すぐにやわらかな笑みを浮かべた。


「そうですよね、知らなくて当然でした。えっと、簡単に言えば――先生たちの詰所、ですかね」

「先生……の……」

「先生っていうのは、この学園の大人たちのことです。教室で授業をしてくれる人たちですね。命さんの担任の先生も、ここにいらっしゃいます」

「……あの、緊張してきました……」

「大丈夫。ちゃんと話は通してありますから。命さんのこと、先生も理解してくださってますよ」


星理亜はそう言って、命の手をそっと取って軽く握った。 その指先の温もりに、命の表情がほんのわずかだけ和らいだ。


「失礼します。白羽ですが――」


星理亜が静かに扉を開くと、室内の奥からひとりの男性教員が手を上げた。 やや気の抜けた雰囲気ながらも、人の良さがにじみ出ているようなその人物は、立ち上がって軽く手招きをする。


「お、こっちだ。おはよう、白羽」

「先生、おはようございます」

「お前、まじであのクラスとは思えんくらい礼儀正しいな……」

「は、はぁ……」


星理亜は苦笑した。


「いやな、担任として言わせてもらうけど、あのクラス、七割が自由人だ。永木なんて陰で毎日めっちゃ苦労してるぞ。ま、そのぶん俺は楽できてるがな」

「……先生。それ、永木さんに伝えていいですか?」

「やめてくれ」


即答で手を振るクラスの担任教師である袴田。


「それで、その子が……」


袴田が命の方へ視線を向ける。


「はい。今日からお世話になる命さんです。義理ではありますが、妹になります」

「そっか。わざわざありがとな、白羽。俺が担任の袴田だ。緊張せんでいいからな。分からないことがあったら、なんでも聞いていいぞ」

「……はい」


命は小さく返事をした。


「じゃあ、命さん。私は先に教室へ行ってますね」


星理亜は命に一礼し、職員室の扉を静かに閉めると、廊下に出た。

扉が閉まるか閉まらないかのうちに、すぐ前から誰かの足音が近づいてくる。

反射的に視線を上げた先――そこにいたのは、一人の女子生徒だった。


制服の着こなしはきちんとしており、背筋も真っすぐ。

黒曜のように艶のある黒髪を後ろでまとめ、その表情は静かで、どこか人を寄せつけない空気を纏っている。

すれ違う瞬間、彼女は無言で小さく頭を下げた。

星理亜も、反射的に一礼を返す。


それだけ――ほんの一瞬の出来事だった。


だが、星理亜の中には妙な印象が残っていた。

視線が合ったわけでもないのに、心の奥を見透かされたような錯覚。

なぜか、そんな感覚を覚えた。


(……誰だったんだろう)


そう思いながら、星理亜は肩を軽くすくめ、再び廊下を歩き出す。

その少女の名前を、星理亜が知るのは、もう少し先のことになる。――界渡真かいどま きり


「じゃ、俺が『入ってこい』って呼ぶまでは、済まないが廊下で待っていてくれ」


そう言い残して、袴田は命たちに軽く会釈すると、教室の中へ入っていった。

カラリ、と音を立てて閉まったドアの向こうからは、ざわつくクラスの気配がかすかに聞こえてくる。


『みんなー、席につけー! 朝のホームルームを始めるぞー』


袴田の明るい声が、教室の中に響き渡る。

廊下には、命と錐のふたりだけが残された。

どちらからともなく視線を交わすと、命は気まずそうに微笑みながら声をかける。


「え、えーと……」


だが、それに対して返ってきたのは、鋭さと静けさを併せ持つようなまなざしだった。

錐はまっすぐ命を見つめている。その双眸には、どこか人間離れした深さがあった。


「どうしましたか?」


命がたずねると、錐はふっと口元をほころばせる。


「ふふ。なんでもないわ」


彼女はそれきり一拍おいて、さらりと続ける。


「ただ……なんかあなたを見てると、不思議と落ち着くの。というよりも、安心するのよ」

「わ、私ですか!?」


思わず声を上ずらせた命に、錐は確かに頷いた。


「えぇ。そうね」


少し顔を近づけるようにして、錐は問いかける。


「ねぇ?」

「な、なんでしょうか……?」


命は戸惑いながらも聞き返す。


「あなた、なんか感じない?」

「感じる……?」


錐の問いは、具体的なようでいてどこか抽象的だった。

命は首を傾げる。

そして、錐の声は静かだったが、どこか張り詰めた糸のような緊張感を帯びていた。

まるで、命の内側にある何かを探り当てようとするかのように、ゆっくりと、けれど確実に言葉が落とされる。


「えぇ。例えば――この空気」


そう言いながら、錐はふと顔を上げて、廊下の天井を仰いだ。

窓から射し込む朝の光が静かに差し込み、床に淡い光の縁を描いている。

その中に、細やかな塵がふわふわと舞っていた。


「例えば、この身体を動かす感じ」


錐は自分の手のひらをゆっくりと広げた。

指先がわずかに震える。何かを確かめるような、あるいは思い出そうとするような仕草だった。


命は、黙ってその様子を見つめていた。

どこか、自分と似ている気がした。

この世界に適応しきれていない、微妙な違和感。

足元が地面に馴染まないような、身体の重さに慣れないような、名もなき不一致が胸をかすめる。


「そして、私を見て……何か思わない?」


視線が合った瞬間、命は身体をわずかに強張らせた。

その眼差しは、どこまでも深く、澄んでいて――

でも、その奥にある何かが、命の胸の奥を不意に叩いた。


「……」


口を開こうとして、言葉が出なかった。

何か、何かが引っかかっている。けれどそれが何なのか、命自身にも分からなかった。

ただ、胸の中に生まれた静かなざわめきが、消えずに残っていた。

命は小さく唸りながら、視線をさまよわせる。

けれど、明確な答えは見つからない。

そんなタイミングで、教室の中から袴田の声が再び届いた。


『……よし。じゃあ、入ってこい』

「はわっ!」


命は小さく跳ねるように反応する。


「呼ばれましたね」


錐は目を細めて微笑んだ。

そして、静かに教室のドアへと手を伸ばす。


「あなたから、お先にどうぞ」


その言葉とともに、扉がゆっくりと開かれた。

命は一度深呼吸をしてから、小さくうなずき、一歩教室の中へと足を踏み入れていくのだった。

休み時間。転校生としての宿命。


チャイムが鳴ると同時に、教室の空気がふわりと色めき立った。命と錐の周囲には、好奇心を隠しきれないクラスメイトたち――主に女子たちが自然と集まり、気がつけば、ふたりは机ごと人垣に取り囲まれていた。


質問の内容は多岐にわたった。見た目の印象、髪や肌のケア、普段の趣味や休日の過ごし方、お弁当の中身に至るまで、まるでインタビューのようなにぎやかさ。目を輝かせて問いかけるクラスメイトたちの中には、鉛筆片手にメモを取る者すらいた。


命は、そんな圧に完全に押され気味だった。何か言おうとするたびに言葉がつかえ、視線を泳がせては小さく肩をすくめ、声にならない声を繰り返している。その小動物のような反応が、また一層の注目を呼び、好奇心の火に油を注いでいた。


一方で、錐はまるで水を打ったように静かだった。焦る様子もなく、問いかけに対しては落ち着いた態度でひとつひとつ答えていく。深くは語らない。けれど、笑みを添えて返す言葉には妙な説得力があり、それ以上追及しづらい雰囲気を自然と作っていた。


穏やかな無防備さと、凛とした静けさ。

ふたりの空気の違いが、そのまま教室の中に明確なコントラストをもたらしていた。


その一方で、教室の隅には男子たちの数人グループが、やや距離を置いた場所から静かにその様子を眺めていた。机に肘をつき、顔を伏せたり、そっと視線を送ったり。明らかに気にしているのに、それを言葉にも行動にもできずにいる。


視線は交差し、わずかな身じろぎや咳払いが飛び交う。誰からともなく足を組み直したり、消しゴムをいじったりと、落ち着かない仕草ばかりが目につく。中にはちらと窓の外に目を向ける者もいたが、その目の端には確かに、教室中央の輪の中が映っていた。


誰も声をかけようとはしない。

けれど、その視線はずっと、あの“転校生たち”に向けられていた。


その一角だけが、教室の中で異質なほどの熱気を帯びていた。


その中で紫銀は自席に座り、手帳サイズの学級日誌を広げてペンを走らせていた。日直でもないのに、誰に言われたわけでもなく、その手を止めることはない。委員長としての責任感――というよりも、習慣と化していた。


「さっすが、転校生やな」


写世の間延びした声が、机越しに届く。


「ま、そうだね」


紫銀はペンを止めずに短く返す。


「ん? 委員長、何書いてんや?」

「学級日誌だよ」

「そっか。委員長専用の特別任務やなぁ」

「まあ、そんなところかな」


タイミングを見計らったように、窓側の最後列の紫銀と写世の席から離れた自席から近づいてきた世依奈が顔をのぞかせた。


「紫銀君、何を書いてるのー?」

「学級日誌」

「うへー、委員長って大変だねぇ」

「まったくやで」


写世が横で相槌を打つ。

紫銀は軽く溜め息をつくと、二人を交互に見て言った。


「そんな大変そうな肩書に推したのは、君たち……だったはずだが?」

「うん。頑張ったもんね、私たち」


世依奈が胸を張る。


「ほま、ようやったな」


写世が笑いながら拳を突き出す。


「んふふっ」


世依奈も拳を当て、ぺちんと軽い音を立てた。


「あのなー……」


紫銀が呆れ気味に言葉をこぼすと、どこかからもう一つ、穏やかな声が加わった。


「本当に、大変ですよね。委員長って」


星理亜が控えめに立っていた。

星理亜の席は、転校してきた命の隣。

どうやら、少し席を外した結果、あの人垣ができてしまい、自分の席に戻れなかったようだ。


紫銀が軽く肩をすくめながら、皮肉っぽく言った。


「確か、君もその“委員長を推した仲間”に入ってなかった?」


星理亜は少しだけ目を細め、にこりと優雅に微笑んだ。


「さぁ、覚えておりませんね」


さらりと受け流すようなその言葉に、紫銀は小さくため息を漏らす。


すると、すかさず隣から元気な声が割って入った。


「星理亜ちゃん、星理亜ちゃん!」


世依奈が勢いよく顔を覗き込み、まるで雰囲気などお構いなしに笑いながら身を乗り出す。


「どうかなさいましたか、次元さん?」

「命ちゃん、すっごく人気者だよ!」

「えぇ。私も、嬉しいですね」


星理亜が目を細めて命の方を見る。

だが、その目の奥に一瞬、翳りが走った。


「でもさ……なんか、こっちに助けを求めてるような顔、してない?」


紫銀の言葉に、星理亜はゆっくりと頷いた。


「そうですね。命さん、人見知りがあるというか……私や永木さんの前では普通でも、他の方々の前だと、やっぱり緊張してしまうんです」

「私の時もそうだったなー」


世依奈が自分を指さす。


「でもでも! すぐ仲良くなったよ! えっへん!」

「……いや、それはたぶん……君の圧が強すぎて、命が根負けしただけな気もするが……」


紫銀は乾いた笑いを漏らした。

そのやりとりを見守っていた星理亜が、そっと視線を転じる。


「……あれでは、近いうちに大変なことになりそうですね。少し、様子を見てきます」

「いってらっしゃーい」


世依奈が手を振る。


「ガンバやでー、白羽はん」


写世が気の抜けたような声で応援した。


「ん……?」


紫銀が一瞬、眉をひそめた。

写世の口から自然に出た「白羽はん」という呼び方。それ自体は不思議ではないのに、どこか妙に引っかかった。心の奥がざらつくような――そんな感覚。


「どったん、委員長?」


写世が首をかしげる。


「……いや。なんでもないよ」


紫銀は、気のせいだと自分に言い聞かせるように、日誌の続きを書く。

月日欄に、「五月九日」と記した瞬間――再び、違和感が胸を刺した。

(あれ……この日付、前にも書いたような……?)

そんなはずはない、と首を振り、紫銀は視線をページから離した。だが、どこかに小さなしこりだけが、そっと残っていた。

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