蜂紫伝5
時間は遡る。
永木紫銀が、星理亜たちから持ちかけられた「監視としての同棲提案」を受け入れた翌日。
それは休日の朝だった。
静かな朝の光がカーテンの隙間から差し込み、室内の空気を柔らかく照らしている。
けれど星理亜にとっては、そんな穏やかさとは裏腹に、昨夜からの思考の続きがまだ脳裏に残っていた。
紫銀の力の発現、その存在の不確定さ。
「……濃密、でしたね」
つぶやくように、星理亜は次元維持管理局の隊服の胸元の留め具を整えながら、鏡の前に立つ。
学童としての日常は休日なのだが、昨日のこととこれからについて、本局に行く必要があった。
一方、命には正式な隊服はまだ支給されていなかったので、星理亜は、以前に部隊長から私用として支給された私服の中から、ひとつ選んで命に貸すことにした。
白を基調にしたブラウスに、薄青のスカート。
清楚な中に清潔感が漂う、星理亜の好みに沿った控えめな服装だ。
ただ――
「……少し、長いかもしれませんね」
星理亜の目線が、命の膝下まで届くスカートに注がれる。
星理亜の身長ではちょうど膝上丈のそれも、命が着るとふくらはぎ近くまで覆ってしまっていた。
とはいえ、体格の差はそこまで大きくはない。
命も特に不自由そうな様子は見せていなかったが――
「……ちょっと、ウエストが緩い感じです……」
試しに指を差し込んで、命は小さく苦笑する。
「ベルトで調整してください。多少のことなら問題ありません」
星理亜は落ち着いた口調でそう答えながらも、どこか気を配るように命を見つめていた。
「星理亜さん。準備できました」
命は、すっと姿勢を正してそう告げた。
「私のでも、問題はありませんでしたね」
「はい。ちょっと大きい感じがしますが、いい感じです」
「よかったです。それでは、向かいましょうか」
「はーい」
少しだけ声が弾む命の返事。
ほんの小さなやり取りだったが、その瞬間、星理亜の胸の奥に何か温かいものが灯った気がした。
それは感情というには淡すぎて、けれど確かに、昨日までとは違う穏やかさを帯びていた。
星理亜は、部屋の片隅に置かれたキューブを手に取り、軽く半回転させると、低く共鳴するような電子音とともに、クローゼットに設置された姿見の鏡が淡く光を帯び始めた。
最初はわずかな明滅だったが、やがてそれは脈打つような柔らかい輝きへと変わっていく。
部屋に満ちる光はまるで霧のように拡散し、空間そのものを揺らがせる。
星理亜は一歩前に出て、振り返る。
「行きましょう、命さん」
「はいっ」
そして――
二人は、光の中心へと足を踏み出した。
その瞬間、鏡が放つ光は一気に広がり、室内全体を包み込んでいき、星理亜と命の姿はふっと消えた。
※
次元維持管理局内でも限られた者しか立ち入ることを許されないレイブン専用の開発室とされているが、無数の装置と資料が散在しており、無骨な鋼鉄の梁に吊るされた補助灯が、緩やかに脈動する光、機械油の匂いと、低く唸るような作動音が空気を支配し、無機質な空間に独特の生命感を与えている。
そこは、開発室というより研究所。または、試作兵器や義体を組み上げる試作工場と呼ぶ方が相応しい雰囲気だった。
「まさか、こんな短期間で戻ってくるとは思わなかったぞ」
レイヴンの声は、金属壁に反響しながら、低く響く。彼は半身を振り向け、星理亜たちに視線を向ける。
「私も……そう思っています」
星理亜は足元に落ちた鉄板の擦れ跡を見つめながら、声を返した。
レイヴンの背後では、大小のモニターがいくつも点滅していた。
「それで、なんの要件かな?」
「……レイヴンさん。心魂具には――」
星理亜が口を開きかけた瞬間、彼は手を上げて制した。
「『英霊になれなかったが、英霊に近い人霊』が宿されている。だが、それがどうした?」
彼の声音には、既に答えを知っている者の余裕があった。
「でしたら、その存在は……死んでいる。ことになりますよね?」
星理亜の目が揺れる。問いかけというよりも、自身の確認のようだった。
「――ああ、そうだ。主世界では、人の命は一度限りとされている。二度目があるとしても、記憶も性格もリセットされ、全く別のかたちになるんだが――」
言いかけて、レイヴンは急に口を閉ざした。そしてゆっくりと、星理亜の背後を見る。
「……君はどうなのだろうかね」
その言葉は、誰に向けられたものか、わかりきっていた。
ビクッ、と星理亜の後ろに隠れていた命が小さく跳ねた。
「レイヴンさんの見解が正しいとしたら、彼女――命さんは『別の』命さんになるんでしょうか?」
星理亜の声は、静かだったが、芯に揺らぎがあった。
レイヴンは答えず、重い足取りで星理亜の背後に回り込む。命の視線が彼を警戒して泳ぐ。だが逃げ場はない。
「確かに……これは『受肉』だな」
レイヴンは感嘆まじりに呟くと、命の頭に手を置き、無遠慮にワシャワシャと髪を撫で始めた。
命の肩がピクリと跳ねる。
小さく身をすくめながらも完全には逃げない。
少しだけ顔を背け、頬を膨らませるような仕草を見せたが、どこか照れ隠しのようにも見える。
唇を尖らせるわけでも、睨みつけるでもなく、ただ――軽く眉を寄せつつ、つつましく視線を落とす。
その表情は、「嫌」とは違う。
戸惑いと、ほんのわずかな甘さが同居していた。
レイヴンは気にも留めず、撫で続けている。
星理亜はその様子をちらりと見て、思わず小さく息を吐いた。
「触れた感じも、生体反応も本物だ。これっぽい技術なら管理局にもあるが、ここまで本物に近いのは見たことがない」
まるで分析でもするように、レイヴンは彼女の髪を弄りながら口にした。
そのとき、不意に――
「そして、これをしたのが『彼』なのでしょ?」
女性の声がした。
その瞬間、星理亜の眉がぴくりと動く。――ありえない。
その声の主は、この空間にいなかったはずだ。
星理亜のすぐ背後には、命がいた。レイヴンがその頭を撫でていたのだ。
誰かが入り込む隙間なんて、どこにもなかった。絶対に。
なのに――どうして。
星理亜は即座に身体ごと振り向く。警戒心から無意識に足が一歩、床を踏み鳴らしていた。
……いたのは、命ではなかった。
命のいたはずの場所に、立っていたのはまるで違う存在だった。
空調のわずかな風に揺れ、優しい光に包まれ長く伸びた純白の髪。
機械油の匂いと鋼鉄の気配が支配するこの空間には、明らかに不釣り合いな、柔らかく清らかな存在感をもたらす白いサマードレス。
先ほどまでそこにあったはずの命の気配が、ふっとかき消されていた。
「……あなたは―――」
唇から漏れた問いかけは、思考が追いつくよりも早く、星理亜の声は自然と掠れていた。
「あぁ、ごめんなさい。星理亜さんには紹介がまだでしたね」
その少女が振り向く。
光を反射して柔らかく揺れる長い白髪。まるでこの空間だけ別世界になったかのような、穏やかで透き通った笑みを浮かべながら――彼女は言った。
「私は、シラホ。よろしくお願いしますね、星理亜さん」
「……え?」
星理亜は言葉を失った。
その名前に聞き覚えはない。だが、まるで自分の名前を当たり前のように呼ばれたことのほうが、不意を突かれる。
見知らぬ存在。見知らぬ名前。なのに、こちらのことはすべて知っているような――そんな目。
星理亜は、ほんのわずかに身構えるなか、シラホはゆっくりと歩きながら、ふと立ち止まった。誰に語りかけるでもなく、ただ自分の中で何かを確かめるように、小さく息を吐きながら言葉を紡いでいく。
「永木紫銀……」
白く長い髪が、彼女の肩越しにふわりと揺れた。
「名前に“紫”って……偶然かもしれませんけど……」
その声音には、確信とも諦念ともつかぬ静けさがあった。
星理亜は黙ってその様子を見つめていた。語りかけられているわけではない。けれど、なぜか耳を傾けずにはいられなかった。
「でも、“紫の意思”、そして“紫の力”……」
そう呟く彼女の表情には、ほんのかすかに笑みが浮かんでいた。
「在るモノを壊して、在ったモノを戻す……」
その言葉が口を離れるとき、空気がわずかに震えたような錯覚を星理亜は覚えた。
命は首をかしげながらも、何か言おうとはしなかった。ただ、その意味を理解しようと、目を細める。
「……紫??」
星理亜と命は、ほぼ同時にその言葉を繰り返していた。互いに顔を見合わせることもなく、ただ純粋な疑問だけが口をついて出た。
シラホは、その問いにすぐには答えず、しばし黙ったまま二人を見つめていた。
やがて、唇の端をわずかに緩め、柔らかな微笑を浮かべる。
「お二人には、まだ少し難しいお話ですから」
その声はまるで、夜明け前の風のように穏やかだった。
そして彼女は、そっと命の方へ視線を移した。
その瞬間、シラホの表情がほんの僅かに変わる。どこか遠くを懐かしむような、それでいて守るような――静かな慈しみの色がその目元に浮かんだ。
命はそんな視線に気づいたが、反応することなく、ただ見つめ返す。
ほんの一瞬の沈黙が、部屋の空気に深さを与えていた。
「命さんは、もう指輪に戻ることができません。それは事実ですが――問題はありませんよ」
シラホの口調はやわらかかった。けれど、それが逆に不吉に思えたのは、星理亜だけではなかった。
しかし、次に続いた言葉は、予感をはっきりとした現実へと変えた。
「ですが、悲しいお知らせがあります」
星理亜も、命も、息を呑んだまま言葉を失い、喉がかすかに鳴った。
「命さんは、星理亜さんの心魂具には宿れません。つまり――星理亜さんでは、命さんを武具へと具現させることは……もう不可能になりました」
「えっ……」
その言葉は、静かに室内の空気を凍らせた。
機械の稼働音が、いつもより大きく聞こえる気がした。
「試しに、やってみてください」
促されるままに、星理亜はゆっくりと右手を持ち上げた。
その手は、ほんの僅かに震えていた。
「具現せよ、心魂具――命」
その瞬間だった。命の身体が淡く光りはじめる。
「はわっ……!?」
命の声が漏れる。身体の輪郭がほどけていく。
まるで、自分という存在が解けていくような――不安と戸惑いが、全身を駆け抜けた。
光は粒子となり、星理亜の右手へと引き寄せられていく。
「えっ……!?」
星理亜の目が、大きく見開かれる。
けれど、次の瞬間、粒子は再び拡散し、光となって空間に舞い――
再び命の姿を形作った。
そして、何事もなかったかのように、命はその場に立っていた。
星理亜は思い知る。
――これは、紫銀が命を強制具現させたときと、まったく同じ現象。
「……そ、そんな……」
声に力が入らない。胸の奥が冷たくなる。
命はうつむき、唇を結んだまま何も言わなかった。
自分が何をしたのか、理解できず、それでも――申し訳なさそうに。
「命さんは、自分でそのように変えてしまったのです」
静かなシラホの声が、その場に落ちた。
命の肩がびくりと揺れる。
「えっ……わ、私が……? そんな、知らない……っ!」
思わず一歩後ずさるようにして星理亜の背中に半分隠れながら、命は自分の胸元を押さえる。
彼女の瞳は大きく見開かれ、恐れとも戸惑いともつかない色をたたえて揺れていた。
小さく首を振りながら、自分の意思ではないことを訴えたそうに、そっと星理亜の袖を掴む。
その仕草には、まるで迷子の子どものような不安が滲んでいた。
シラホは穏やかに微笑む。
「知らなくて当然ですよ。……無意識のうちにやってしまったみたいですからね」
ラホは命に向けて、ほんの少しだけ視線を和らげる。
「ですが、命さんが不在となってしまいました心魂具ですが、ちゃんと役割は、まだ残っていますよ」
その言葉に、星理亜が小さく息を呑む。
「……残ってる……?」
「はい。星理亜さん、今度はただ単に心魂具に集中してみてください」
「集中……?」
「はい。命さんはいないですが、これまで通りのやり方でいいですよ」
言われるまま、星理亜はそっと右手を胸元の前に掲げた。
そこにある、光を帯びた心魂具の指輪――命のいた証。
星理亜は、両手でそれを包み込むようにして目を閉じ、深く息を吸い込む。
その胸の内に宿る想い――命とのやり取り、交わした言葉、戦った日々。
……祈るように、ただ静かに心を寄せる。
その瞬間、指輪がふわりと淡く輝いた。
初めて命を具現させたときと同じ光、同じ感覚――
「これって……」
戸惑いと微かな安堵が混じったような声が、星理亜の口からこぼれた。
「命さんがそこに宿っていた、痕跡――『残霊子』です」
「ざんれいし……」
呟くように、星理亜がその言葉を繰り返す。
その声には、消えない余韻と、どこかに繋がっている感触を確かめようとするような、淡い希望が込められていた。
「それが指輪に微かに残っているからこそ、数回だけなら具現化できます。けれど……もう星理亜さんが命さんの力を使うことは、二度とありません」
シラホの声音は穏やかでありながら、どこか静かな決意が滲んでいた
そう言ってから、シラホは少しだけ微笑んだ。
「……そして、そういった状況にさせるつもりも、ありません。ご安心ください」
その言葉に込められた静かな決意が、星理亜の胸にじんと染みてくる。
シラホは一歩前に出て、星理亜の正面に立つ。
ゆっくりと、星理亜に背を向けながら――ふっと、振り返った。
「……私の話は以上です。あとは、レイヴンさんにお任せしますね」
手を軽く振り、彼女はそのまま歩き出す。
柔らかな白のサマードレスが、空気をすべるようにして揺れた。
彼女の足音すら、この空間には馴染まず、まるで最初から存在していなかったかのように消えていく。
星理亜は、何かを言おうとして、息を呑む。
でも、出しかけた言葉は喉の奥でほどけ、声にならないまま、霧のように空気へと溶けていった。
呼び止めるべきだったのかもしれない。
けれど、その名を呼ぶ勇気は、星理亜にはもう残っていなかった。
気づけば、部屋は元の静けさを取り戻していた。
かすかに響く機械の作動音だけが、この現実を確かに刻んでいる。
開発室に残されたのは――
立ち尽くす星理亜と、彼女のそばに寄り添う命。
そして、未だ何も言わずに静かに佇むレイヴンだけだった。
※
星理亜は、まだ少し茫然としていた。
頭では理解しているはずだった。
命はもう心魂具には戻れない。
具現化も、彼女の力の行使も、これからはできない。
けれど、それでも。
指輪に残るわずかな痕跡――残霊子。
それだけが、二人の絆を証明してくれていると星理亜は思った。
それに、形はない。
意味としてそこにあるもの。
すでに“武器”ではない。
それでも、彼女の存在そのものが、いま、ここにある。それだけで、何かが確かにつながっている――星理亜は、そう思えた。
ふと気づくと、命が肩をすぼめてこちらを見上げていた。
少しだけ顔を伏せたその様子は、やっぱりどこか申し訳なさそうで、不安げだった。
「……星理亜さん、ごめんなさい」
小さく絞り出されたその声に、星理亜は目を細め、そして静かに首を振った。
「謝らないで。悪いのは……誰でもないと思うから」
自分に言い聞かせるような、そんな声だった。
重たい空気の中に、その言葉は静かに落ちていく。
それからしばらくして、レイヴンがわざとらしく喉を鳴らしながら口を開いた。
「お前な、暗くなるためにここに来たわけじゃないだろ。そもそもお前たちは、ここに何をしに来たんだったか、忘れてないだろうな?」
「……あ」
星理亜がはっとして姿勢を正す。命も小さく肩をすくめた。
「えっと、そうでした……命さんの隊服の支給と、永木さんの監視を兼ねて同棲しますので、その許可を取りに来ました」
「おう、届いてる。まったく、お前さんもとんでもないことを考えるな。永木紫銀は監視対象だが、そこまで監視しろって話じゃなかったはずだが?」
「……私でも、自分がなんであんな提案をしたのか不思議です」
苦笑まじりに星理亜がつぶやくと、レイヴンは鼻で笑った。
「ま、あんなことをされた以上、常にそばにいたほうが、それなりに安心できるってもんか。もちろん、申請書は――受理、受諾、承認、ぜんぶ済んでる」
「ありがとうございます」
「で、足らんのは……受肉した嬢さんの隊服か?」
「できましたら、私服もいただけるとうれしいです」
「了解。ほれ、サイズ表」
レイヴンが一枚の用紙を星理亜に手渡す。
星理亜は受け取りながら、それが何の書類か確認し――思わず動きを止めた。
命が興味津々といった様子で、彼女の脇から覗き込む。
そこには、星理亜と命、それぞれの名前と個人情報がびっしりと記されていた。
身長、体重、そして――二桁の数字が三つ。
バスト。
ウエスト。
ヒップ。
つまり、スリーサイズ。
さらに、最後に大文字のアルファベットが一文字。
つまり、バストサイズ表記。
「ちょっ……レイヴンさん!? な、なんでスリーサイズまで!? しかも、これ――っ!」
星理亜は書類を胸に抱え込むようにして、頬を真っ赤に染めた。
「なんだ。要るだろ、衣類の支給には。隊服も私服も、合わんもん渡されて“着れませんでした”って戻される方が手間なんだよ。実測から自動で算出、登録まで済ませてる。合理的だろ?」
「合理的すぎて……なんかやだっ!」
「星理亜さん」
命が、不思議そうに書類を指差した。
「これらの数字って、なんですか??」
「えっ!? ……あ、うん、それは――」
星理亜が慌てて言葉を探すも、言い淀む。
その横から、レイヴンが肩をすくめた。
「あー……なるほどな。受肉されても、その中身は没する前の記憶のままってわけか」
「どういうことですか?それ」
星理亜が視線を上げると、レイヴンは別の書類を取り出して視線を落としながら答えた。
「嬢さんは、英霊にはなれなかったが、それに近いかたちの人霊だって話はしたろ?」
「え、えぇ。それは、ついさっき聞きましたし、私からも確認しましたから、覚えてますよ。それで?」
「その嬢さんが生きていたのは――今からだいたい百三十年前の主世界って記録がある」
「ひゃ……百三十っ!?」
思わず星理亜は叫んだ。命の顔を見つめる。
けれど、本人はぽかんと首を傾げていて――その様子が、逆に年齢差の実感を強めていた。
「そう見えて、その嬢さんは君よりずっと年上ってことだ。年齢的には、な」
「……年上……え、えっと、私、どういうことに……?」
命はぽそりと呟いて、星理亜にそっとすがるようにして視線を送る。
星理亜は思わず目を逸らした。なぜか、ものすごく言いづらい空気が流れている。
「でな、その時代。スリーサイズって概念がそもそもなかったらしい。知識としても、庶民の娘が触れるような情報じゃなかったろうな」
レイヴンがそう言って、書類をぱたんと閉じる。
「あと、安心しろ」
「な、なにをですか?」
「お前さんたちのトップシークレット級の個人情報は、今のところその用紙一枚だけ。管理も厳重だ。……ま、データは残ってるが、大丈夫だろ。たぶん」
「“たぶん”って言いましたよね、今!?」
星理亜が勢いよくツッコミを入れるも、レイヴンはどこ吹く風で椅子の背にもたれた。
「まぁ、気にするな。とある奴が“三凸してるだけいいじゃない”って言ってたぞ?」
「んなぁっ!?」
星理亜は奇声をあげて立ち上がった。
瞬間、頭の中に浮かんだのは、あのときのリィナの顔――にこにこと笑ってはいたけれど、目だけが据わっていたあの表情。
(……あのバカ……!)
ぶるぶると震える肩、拳を握りしめたまま、星理亜は無言でレイブンに背を向け、部屋を出ていこうとする。
「せ、星理亜さん! どこに行くんですかっ!?」
「決まってるでしょ! あのバカを叩きに行ってきます!」
星理亜は振り返ることなく拳を握りしめて言い放つ。
その背中からは、怒気というより、妙な使命感すら漂っていた。
「ま、待ってくださいよ、星理亜さん!」
命の声も届かず、星理亜は廊下へと飛び出していく。
「にぎやかだねぇ……」
レイヴンは書類を片手に、どこか楽しげに口の端を上げた。
「あ……しまった」
ほんの一言、しかしそこには“やっちまったな”というニュアンスが色濃く滲んでいた。
視線を上げた先には、もはや二人の姿はなかった。
星理亜はすでに、怒りの矛先を携えてリィナの元へ突撃中。
命も慌ててその後を追い、静まり返った空間に残されたのは、レイヴン一人だけだった。
「あー……嬢さんも、星理亜と同じ学校に潜伏できるように手続き済ませたんだった。……伝え忘れたなー。完全に」
言いながら、書類の端をくいっと指先で持ち上げる。
そこには「竹西学園中等部・編入許可通知」の文字と、命の名前がしっかりと印字されていた。
「ま、あとでメールでも送っときゃいいか。制服は既に送られてるみたいだしな。こっちの仕立ては早い。便利だよなー、局内縫製ユニット」
レイヴンは肩をすくめ、くすりと笑ってから、別の紙へと手を伸ばす。
それは次なる依頼申請書か、もしくはまた別の機密書類か。
指先で紙を滑らせながら、ぼそりとつぶやいた。
「にしても、星理亜がああなるとはな……人ってのは、わからんもんだ」
楽しげなようでいて、どこか遠くを見るような声色だった。
※
その日の夜。
次元維持管理局内に、ひとつの異常が走った。
ザインの勅令を無視し、主世界に極秘潜伏していたヴェイド直属の特殊部隊が、何の前触れもなく全員、強制送還されたのである。
送還された者たちは、誰一人として傷を負っていなかった。
だがその目には、深い困惑と――恐怖すら浮かんでいた。
部隊員たちは、皆口を揃えてこう証言した。
「見たことのない虫に襲われた。蜂のような……黒くて、羽音だけで身がすくむような……」
「三匹いた。動きが異常に速い。まるで命令されたように正確に、無慈悲に――」
「そのあと、界渡真が現れた」
「彼が何かを言った気がする。でも、すぐに意識が飛んで……気づけば、戻っていた」
しかし、その報告の中には、部隊長――現地指揮を任されていた男の姿がなかった。
事態は重大と判断され、次元維持管理局の中枢において、最高責任者たちによる緊急集会が即時招集された。
そして、その様子を、遠くから見下ろすように眺めている者がいた。
白いサマードレスに、長く純白の髪を揺らしながら、シラホは誰に見つかることなく、一人で座していた。
「これはまだ序章だよ。これからのことを考えると、『君たち』はすごく邪魔になるから、戻してあげたよ」
足元に浮かぶ光の残滓が、彼女の輪郭にそっと絡む。
「それにしても、準備が早いですね。舞台上の役者に、観客席のゲストまで揃えちゃうんですから。あとは──」
ふと顔を上げる。
「あなたにお任せしますよ。界渡真さん」
その声は、空間に溶けるように静かに消えた。




