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蜂紫伝3

その日の深夜、竹西市の街が静かに眠りについていたころ。

市街地の中心にひっそりと佇んでいた、かつての賑わいの象徴――竹西中央デパートの廃墟が、音もなく崩れ落ちた。


老朽化が進み、立ち入り禁止となって久しいその建物は、昼間こそ無関心に見過ごされていたが、今なお記憶の片隅には残っていたはずだった。

だがその夜、建物が崩れた瞬間を目にした者は、一人もいなかった。


深夜とはいえ、廃墟の前を走る幹線道路には、ときおり車のライトが流れていた。

背後の住宅地には人の気配があり、眠りの中で灯る明かりもあった。

けれども、誰一人としてその異変に気づいた者はいなかった。


そして朝。

そこにあったはずの巨大な建物が跡形もなく消え、ただ広々とした平地が広がっていた。

にもかかわらず、人々は驚くこともなく、騒ぐこともなく、ただその風景を当然のものとして受け入れた。


誰もが、そこに廃墟があったことを思い出せず、まるで最初から何もなかったかのように――

その場所は、ただ「そういう場所」として、街の記憶に静かに組み込まれていった。


そして、永木紫銀の朝も、大きく変わっていた。


いつもなら、自分一人だけの静かな朝だった。

昨晩の残り物や、菓子パンを軽く食べて済ませるような適当な朝食。

そのあと、母の遺影と位牌が置かれた仏壇の前に座り、お供え物の入れ替えをして、手を合わせる。


「おはよう、母さん」


そう小さく呟いたあと、リビングのソファに腰を下ろし、スマホで父親に「おはよう」とメッセージを送信する。

単身赴任中の父との、日課のようなやりとりだった。

そのあとは顔を洗って身支度を整え、ニュース番組をなんとなく流しながら、時間になれば玄関を出る。


そんな、当たり前だった日常が――


「おはようございます。紫銀さん」


眠気を引きずりながら自室のドアを開け、リビングに入ってきた紫銀の目に飛び込んできたのは、キッチンに立つ少女の姿だった。

髪を後ろでひとつに結び、エプロン姿でフライパンに向かっているのは、命。

星理亜と共に、監視名目で紫銀と同居することになった、次元維持管理局の“同僚”だった。


「おはよう。命」


驚きと戸惑いが混じった声でそう返すと、命は穏やかに微笑んだ。


「おはようございます。紫銀さん」


朝日が差し込む窓辺、食卓にはすでに一人、先に着いていた少女がいる。

制服姿のまま椅子に腰かけ、フォークを手にサラダをつつきながら、顔を上げる。


「おはよう、白羽さん」


声をかけると、星理亜は手元のナイフとフォークをピタリと止め、音もなく顔を上げた。


「おはようございます、永木さん。 ……あ、変なこと言うかもしれませんけど、永木さんも、ちょっとそうじゃないですか?」


不意打ちのような一言に、紫銀は眉を寄せた。


「そうって……?」


椅子を引いて腰を下ろすと、すでに彼の席には朝食が並べられていた。焼き目のついたフレンチトーストの甘い香り、カリカリに焼かれたベーコンとふわふわのスクランブルエッグ。皿の端には彩りを添えるサラダとフルーツ。全体に整った盛り付けは、命が用意してくれたのだとすぐに分かった。


「いただきます」


小さく手を合わせると、キッチンから命がこちらに視線を送る。彼女は一瞬だけ、軽く頷いた。


「永木さんの監視っていう形で一緒に暮らしてますけど、呼び方がちょっと堅いなって思いまして」

「堅い?」

「はい。私と永木さん、お互いに“さん”付けで苗字呼びですし……ちょっと距離あるように聞こえるかなって」


星理亜の言葉は穏やかで、しかしどこか会議の議題を読み上げるような正確さを持っていた。まるで、親しみを演出するための手段として“呼称”を分析しているかのように。


「んー、そういわれてもね……こんな形で同棲することになって、さらに僕たちの関係って、あんな設定だし……」


紫銀がトーストをちぎりながら言葉を濁すと、タイミングを見計らったかのように、命が星理亜の隣に静かに腰を下ろした。彼女の動作は一つ一つが控えめで、周囲の空気を乱さない。


「いただきます」


命が小声で呟く。少し寝ぼけたような声色だったが、それでも食卓には温かな気配が漂っていた。

しかし、その空気を切るように、紫銀の脳裏には、この同棲するという、予想外の提案と同時に、もうひとつ“話し合い”が紫銀と星理亜間で行われていたことを思い出していた。


「私の提案を引き受けていただき、ありがとうございます。これからは永木さんの監視――いえ、生活を共にしつつ注意深く見守らせていただきますね。本部にも報告済みです」


そのとき星理亜が見せてきたスマホの画面には、局内の承認通知が映っていた。淡々とした報告、形式的な言い回し、しかし一つ一つに抜けはなく、既に話は“完了”していた。


「それでですね。同棲するにあたって、すごく大きな問題がありまして――」

「あー……部屋数とか?」


紫銀の家は3LDK。空いている部屋は一つ。三人で住むにはやや窮屈だが、現実的ではある。


「そこは、私と命さんが同室で問題ありません」

「……いいの?え、ほんとに?」

「はい。私たちは、任務中ですから」


命も隣でコクンと頷く。まるで当然のように。


「じゃあ、何が問題になるんだ?生活費……?」

「そこも心配無用です。生活にかかる全ての費用は、なんと、次元維持管理局に負担させますので」


あっさり言い切る星理亜。まるで家計簿でも読んでいるかのような調子だった。


「もちろん、永木さんのお父様にも正式にご連絡し、同棲についての許可は得ております」

「……いや、父さん、よく許したな……」

「ちなみに、これまでの仕送りはストップされるそうです」

「は?」

「“次元維持管理局っていうところが払ってくれるなら、愚息に金を渡す必要はない”――と仰っていました」

「なんだよそれぇ……」


思わず額に手を当てた紫銀。その指先からじんわりと伝わる熱に、ため息が混じる。父親の合理的すぎる判断に、軽い眩暈すら覚える。


「で、結局、その“すごく問題なこと”ってそれじゃないの?」

「いいえ。生活費も部屋数も、すべて許容範囲です。――問題は、これです」


星理亜の声が、わずかにトーンを落とした。彼女にしては珍しく“深刻さ”を含ませたような抑えた口ぶりだった。


「“私たちと永木さんの関係性を、どうするか”です」

「……関係性?」

「はい。“私たちが永木さんとどういう関係にあって、なぜ一緒に住んでいるのか”という部分が、記録上、非常に曖昧です。現地の行政にも適切な書類を提出し、周囲に怪しまれないようにするためには、もっともらしい“関係性”が必要になるのです」

「そ、それってつまり――」


そう話す間にも、星理亜はスマートフォンを操作し、いくつかのファイルを呼び出す。画面に映る文字列は、役所や局内用語で埋め尽くされていた。

静かな時間の中、紫銀はなんとなく嫌な予感がしていた。


「このケースで処理が簡単なのは――」


スクロールしながら彼女が示したリストには、衝撃的な選択肢が並んでいた。


「『住み込みの下処理兼メイド』、『親が隠していた実の子』、『親が決めつけてきた身勝手な許嫁』、『生活契約付き奴隷』、『脅迫結婚前提の交際関係』、『金で買われたパートナー』、『仮想親子』、それと『未成年保護代行制度による一時監護』、『外部モニタリング対象との強化同居観察』、『家庭内適応訓練制度』、『保護観察中の共同生活改善プログラム』、『強制転居型適応措置』、『擬似家族形成試験』などがあります。どれがよろしいですか?」

「待って待って待って!? なんか、全部、地味に……ひどくない!?」


紫銀の声が、わずかに裏返る。あまりの内容に口が追いつかず、咄嗟にツッコミを入れることしかできなかった。


「大丈夫ですよ。どのパターンにも、事前想定の書類フォーマットと補足設定、それから提出用のテンプレートも揃ってます」

「テンプレあんのかよ……」


もはや突っ込みすら虚しい。


「……では、“まとも寄り”のものだと……『遠縁で、しばらく疎遠だった兄と妹っぽい親戚関係』ってのがありますね」

「……っぽいって何だよ、“っぽい”って……!」


そう呟いた紫銀の声には、うまく言葉にできない苛立ちと、若干の諦めが入り混じっていた。


「関係性の設定は柔軟に運用できますので、互いの理解と外部からの印象に基づいて調整が可能です」

「……うん、まぁ……他よりはマシ……?」


明確な納得ではなかった。ただ、これ以上言えば、より酷い案が出てきそうな気がして、これ以上は突っ込めなかった。


「では、申請はそれでいきますね」

「ちょっ!? 決定なのそれ!?」

「問題ありません。記録には“相互同意”として処理されますので」

「……そっちの手際だけ良すぎるんだよなぁ……」


紫銀は、誰にともなくつぶやいた。


そして、その結果が今朝の状態であった。

変わってしまったとしても、これはこれで悪くない――紫銀はそう思っていた。


一人で過ごす朝に慣れていたはずなのに、今は違い、窓の外は薄曇りだが、部屋の中はどこか穏やかで温かな空気に包まれていた。


「設定では、そうなってると思いますが、やはり呼び方はもうちょっと親しい感じがいいと思います」


星理亜がナイフを置いて、ふと口を開いた。


「だって、命さんのことは――『命』って呼ばれていますよね?」

「ふぇっ!? わ、わたしですか?」


命がパンの端をくわえたまま、目を丸くする。小動物のような仕草に、紫銀は思わず口元を緩めた。

フォークを伸ばしかけていた紫銀の手が止まる。


「確かに……そうだな。……気にしてなかった」


命を見ると、彼女は少し恥ずかしそうに笑っていた。


「わ、私は今のままで大丈夫ですよ。気にしてませんから」


気を遣わせないようにと、優しく言うその声に、紫銀の胸がわずかにあたたまる。


「で、白羽さんはこれがダメだと……?」


紫銀が水を飲みながら星理亜のほうを向くと、彼女はすっと姿勢を正した。


「そうですね。できましたら、名前で呼んでいただけないでしょうか?」

「名前、ねぇ……」


紫銀はちょっと目を伏せる。コップの縁を指でなぞりながら、ぼそりと漏らす。


「永木さん的に抵抗があるのでしたら、無理強いは致しませんが」


星理亜はあくまで丁寧に言ったが、その言葉の端にほんの少しだけ柔らかさがあった。


「抵抗はないけど……なんか、照れるな」


正直に言えば、それに尽きる。改まって名前で呼ぶという行為は、どこか気恥ずかしい。


「でも、命さんと世依奈さんは、名前で呼ばれてますよね?」


星理亜に言われて、紫銀は少し顔をしかめた。


「世依奈は幼馴染だからあまり気にしてなかったけど……なんで、命は名前呼びなんだ、僕?」


思わず自分に問いかけるように言って、命に目をやる。

彼女はスプーンを持ったまま、きょとんとした顔でこちらを見ていた。


「私に聞かれましても……紫銀さんのことですから、紫銀さんしかわかりませんよ?」

「……だよね」


紫銀は小さく笑って首をすくめた。


言われてみれば――彼女のことを“命”と呼ぶのが自然すぎて、これまで気にしたこともなかった。

初めて会ったのは、星理亜から同棲の提案を受けたあのとき。けれどそれより前に、どこかで出会ったような感覚がずっとある。


(……なんでだろ)


なにより“命”と呼びつけにしていることに、初対面からまったく違和感を抱かなかった。


「善処してみるよ」


紫銀はそう言って、小さく息を吐く。


「私もですが、やってみましょう」


星理亜も穏やかに応じる。そのやりとりだけで、少し距離が近づいたような気がした。


紫銀は食器をまとめ、席を立ったその瞬間、ふと命の姿に目が留まった。


「あれ、命。その服装って……」


制服だった。自分たちが通う竹西学園の指定ワイシャツにエンジ色のリボンタイ。

整った身だしなみに、命の表情がわずかに引き締まっているのがわかる。


「そうですよ」


先に応じたのは星理亜だった。


「今日から、命さんも同じ中学校に登校することになっています」

「……そうなんだ。ま、まさか、それも……?」


思わず聞き返す紫銀に、星理亜は微笑を浮かべて頷いた。


「えぇ。そのまさかです。次元維持管理局がやってくれました」

「本当にすごいな……次元維持管理局の技術は……」


制服姿の命は、どこか新鮮で、それでいて不思議なほど馴染んで見えた。

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