継章1
次元維持管理局の最高意思決定機関。
その中心部に設けられた会議室に、重苦しい空気が漂っていた。
次元維持管理局の軍事部門責任者であり、個人直下の機密組織を人間界側に潜伏させているヴェイドの拳が机を打つ音が、その沈黙を破る。
「この男は、何者なんだっ!!」
壁面のスクリーンには、1人の青年の姿が映し出されている。
界渡真 彰。
その名を知らぬ者は、ここにはいない。
次元維持管理局の学問および教導部門責任者であるセリーナが、静かに資料をめくりながら言葉を返す。
「何者って言われてもね、ヴェイド」
彼女は書類の束から一枚を取り上げると、軽く目を通しながら言葉を続ける。
「あなたにも、この資料、通ってるでしょ?中身、ちゃんと確認した?」
ヴェイトは不快げに鼻を鳴らす。
「ッく……だがなっ!!」
「彼は1868年、主世界上で初めて存在が確認されて以降、何度も履歴に名前が現れているわ。登録名『界渡真彰』。明確な記録もある。で、あなたが気に入らないのは……その存在自体?」
「そうだ、その存在そのものが気にくわん!」
「存在ね……」
セリーナは小さくため息をつくと、立ち上がりヴェイトの元へゆっくり歩み寄る。
「でも、管理局のシステムに正式登録されている限り、彼は“普通の人間”。次元干渉者じゃないとされている。つまり、我々にとっては“問題ない存在”ってことになるのよ」
ヴェイトは沈黙し、セリーナを睨みつける。
「……お前は、それで納得できるのか?」
「納得ね。まぁ、疑念はあるけど――」
彼女が視線を向けたのは、部屋の隅に座っていた次元維持管理局の技術部門責任者であるレイヴン。
「……システムの判定機能を設計したのは、あなたよね? レイヴン」
「……あぁ、わたしだ」
レイヴンはうなずき、疲れたようにため息をつく。
「そうよね」
セリーナがすかさず笑みを浮かべながらも、どこか張り詰めた空気をまとっていた。
「レイヴン、あなたが設計した“判定システム”に関してだけど……正直に言えば、私もヴェイドと同じくらい、いえ、それ以上に引っかかっているの。だって、今回の件はあまりにも不自然よ。
界渡真という存在が、あれだけの異常現象を引き起こしておきながら、『普通の人間』と判定された。それが本当に“正常な結果”だというのなら、私たちが信じて使ってきたこのシステムの根本から見直す必要がある。
もちろん、今までの判定結果が正しかったとは思っている。けれど……今回は特別よ。
レイヴン、誤判定の可能性が“絶対にない”と言い切れるのかしら?」
レイヴンは、しばし沈黙した。
低く息を吐き、目を伏せたまま言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開く。
「“絶対に無い”とは……言い切れません。しかし、それでも――誤判定の確率は、理論上ほぼゼロに近い。言うなれば、砂漠で針を見つけるどころか、それが風に乗って勝手に飛び込んでくるようなものです」
一瞬言葉を切り、彼はリモコンを手に取る。
「ですが……その“あり得ないはずのこと”が、現実に起きているのかもしれない」
スクリーンが切り替わり、解析映像が映し出される。
界渡真によって召喚・具現化された三つの存在。
次元獣。
空間の彷徨者ーーメモリー・ワンダラー。
吸収型次元獣ーーヴォーグラス。
「一見すれば、危険対象そのものです。しかし……解析すればするほど、既知の次元獣と“根本的に異なる”という結果が浮かび上がってくる」
レイヴンの声には、重みと緊張が帯びていた。
「どういう意味?」
セリーナが眉をひそめる。
「つまり、彼は何らかの方法で“あれら”を具現化している。普通の人間が持つはずのない力です。もしそれが真実なら、界渡真が『普通の人間』として登録されているのは――極めて稀な誤判定か、あるいは意図的なすり替えかもしれない」
その言葉に、部屋の空気が一段と冷たくなる。
「ですが、そうであったとしても、議長……」
レイヴンが、卓の上座に座る男に視線を向ける。
議長にして次元維持管理局の最高責任者――ゼイン。
「確かに。登録情報を修正するには、私の認可が必要だ。だが……」
と口を開きかけた時、
不意に、少女の声が響いた。
「レイヴンの推測通り、それは“誤判定”よ」
全員が声のした方を振り返る。扉の前に立っていたのは、白髪の少女――シラホ。
「何者だ、小娘!」
ヴェイドが怒声を上げる。
「ここは貴様のような子どもが介入する場ではない!」
「お静かに、ヴェイド」
レイヴンが割って入る。
「彼女は“心魂具システム”の発案者です」
「彼女が……?」
セリーナが目を見開く。
「ええ。彼女の理論をもとに、我々が開発したんです。よって、彼女にはこの場に立つ十分な資格がありますよ。それで、シラホさん? なんで、ここに?」
レイヴンが訝しげに目を細めた。
その声に応えることなく、シラホは静かに歩み出る。
足音だけが会議室に響くなか、彼女はスクリーンの前で立ち止まり、くるりと振り返った。
「軌道修正よ」
言葉は短いが、その声は鋭く、場の空気を切り裂くようだった。
視線を巡らせることなく、ただ前を見据えたまま、静かに続ける。
「さっきからあなた方が言っていた通り――この“界渡真”って人間、あなたたちの判定システムでは“無害な一般人”。でも実際には、次元獣すら操るような異常事態を引き起こしている。……そんなの、信じろってほうが無理ってもんだよ」
彼女は、スクリーンに映る界渡真と召喚・具現化された三つの存在のを指し、皮肉交じりに肩をすくめる。
「その一方で、“写世集樹”は既に次元干渉者として登録されている。……けれど、彼の行動は今のところ極めて穏やかで、脅威と呼べる要素は見えてこない。逆に言えば――こちらも誤判定の可能性があるかもしれないわね」
静かだが、明確な断定口調だった。
「ほぉ……だが、君がここに来た理由は、それだけではあるまい?」
ゼインが腕を組み、わずかに笑みを浮かべながら問い返す。彼の声には柔らかさがあったが、その奥にある探るような鋭さは隠せなかった。
シラホは一度だけ、ゼインに視線を向けた。氷のように冷たく、それでいてどこか試すような眼差し。まるで、彼の言葉の真意を量るかのように。
「――さすが。鋭いね」
そう言って口元に淡い笑みを浮かべたが、それは感情の伴わない、何かを隠すような仮面めいた微笑だった。
リモコンが操作され、スクリーンの映像が切り替わる。界渡真の姿がフェードアウトし、代わって現れたのは、一人の少年――永木紫銀。
彼女の姿が映し出された瞬間、空気が変わった。会議室にいた者たちの表情が一斉に強ばる。緊張、驚愕、そして、理解。
「『紫のモノ』による主世界の滅亡。あなたたちも、把握してるでしょ?」
シラホの声は淡々としていたが、その一言は確実に場を揺らした。
「……確か、滅亡は数ヶ月以内だと記録されていたな」
ゼインが映像から目を離さずに言った。
シラホは小さく頷き、視線をスクリーンに戻す。
「その通り。心魂具の提供によって、一応、使用契約は成立してる。でも、それでも――主世界が消滅する確率は、まだ七割を超えてるの」
会議室がざわめき立ち、ヴェイドが目を見開いた。
「なに……!? 小娘の開発した心魂具で、崩壊を防げるんじゃなかったのか!」
怒りと困惑が入り混じったような声に、シラホは眉一つ動かさず答えた。
「完璧に運用できれば、阻止は可能よ」
その言葉にセリーナが眉をひそめた。
「完璧って、何を基準に?」
シラホは視線をスクリーンの少女に向けたまま、静かに口を開く。
「彼自身が“認知”すること。自らの力と、それを制御する意志を持てたなら……崩壊確率は三割にまで下がるわ」
その場に重い沈黙が落ちた。映像に映る紫銀の瞳は、まだ自らの運命を知らぬまま、どこか遠くを見つめていた。
「……つまり、完璧でも“ゼロ”にはならない……のか」
ヴェイドが呻くように呟いた。だが、シラホは何も返さない。ただそのまま、紫銀の姿を見つめ続けていた。
「……あぁ、あと、そうでした」
ふと思い出したように、ハクホがゆるく首をかしげる。
「ゼインさん。『紫のモノ』に対する介入は――」
その声にはどこか無邪気さが混じっているが、目だけが笑っていない。
ちら、とヴェイドを一瞥しながら、続けた。
「心魂具を渡した“あの子”だけ、でしたよね?」
ゼインは無言でその視線を受け止め、静かに頷く。
「……あぁ、そうだが」
「……そうですか」
ハクホは一度小さく目を伏せ、短く息をつく。
そのまま、何かを確かめるような足取りで、ヴェイドの傍に歩み寄る。
足音はほとんど鳴らない。研ぎ澄まされた空気の中で、彼の気配だけが静かに近づいてくる。
ヴェイドの横に立つと、ハクホはその身をほんのわずか傾け――耳元へと低く、小さく囁いた。
「……“あの子”、とてもお世話になってるみたいですね、ヴェイドさん」
声は穏やかだった。
責めるわけでも、詰めるわけでもない。ただ、事実を伝えるような静けさ。
だがその裏に隠されたものが何であるか、ヴェイドほどの男が読み取れないはずもない。
沈黙。
ヴェイドは何も応えず、視線すら動かさなかった。
それでもハクホは止めずに、囁きを重ねる。
「……あなたの直下の機密部隊が、先に潜ってくださっていたおかげで……いろいろ、助かっているようです」
それは感謝とも皮肉ともつかない、曖昧な響き。
ハクホの言葉は、糸のように細く、鋭く、耳朶を掠めた。
そして、まるで何事もなかったかのように一歩離れ、姿勢を戻す。
ヴェイドから目を逸らさぬまま、部屋の端に立つレイヴンへと軽く視線を投げる。
まるで、最初からただ報告を終えただけのように。
「――では、失礼します」
ひと言、丁寧に言い置いて。
ハクホはその場を後にした。
音もなく閉じられる扉。