始紫伝27(了)
星理亜は、まだわずかに震える膝に力を込め、慎重に立ち上がった。 身体の中に満ちた光力は十分回復している。けれども、あまりに激しい戦いの余波が、精神の奥深くにまで疲労を刻んでいた。
彼女はふらつきながらも足を運び、紫銀のもとへと駆け寄った。
紫銀の横には、さっきまで彼が具現させていた心魂具が突き刺さっていた。
しかしそれも、今やゆっくりと、光の粒子になって空中へと散っていく。
「な、永木、さん……?」
星理亜は小さく呼びかけ、恐る恐る紫銀の肩に手を伸ばした。
指先が触れた、その瞬間だった。
紫銀の身体が、力を失ったかのように膝から崩れ落ちた。
「わわわっ――!」
星理亜は慌ててその身体を抱きとめた。
軽い。
だが、全身から力が抜け落ちているのがわかる。
「永木さん、大丈夫ですか!? しっかりしてください!」
必死に呼びかけながら、彼の顔を覗き込む。
紫銀の目は閉じられ、静かな寝息を立てていた。
気絶しているだけ――それを確認して、星理亜は胸を撫で下ろす。
そのときだった。
「いやはや、さすがや」
どこか皮肉げで、聞き覚えのある声。
星理亜はびくりと肩を震わせ、その声のした方を睨んだ。
そこには、界渡真 顕が立っていた。
「......界渡真 顕......」
無意識に、星理亜の口からその名前が漏れる。
警戒心を隠さず、紫銀を庇うようにしながら、星理亜は睨みつけた。
「なんや、そんなに睨むことないやろ。ほい、転校生はんの落とし物やろ」
界渡真は、軽く手を振ると、何かを投げてよこした。 咄嗟に手を伸ばして受け止める。
それは――自分がいつの間にか落としていた、光銃だった。
星理亜は反射的に光銃を構え、界渡真に向けた。
「待ちぃや。そなことはあかんやろ」
それでも、星理亜は引き金に指をかけたまま、静かに問いただす。
「......なら、なんであなたが、今頃になって、出てきたんですか?」
界渡真は、肩をすくめ、まるで大したことではないかのように言った。
「んな、終わったからに決まっとるや」
「......終わった......?」
「そや。わいの役割が終わったんや」
界渡真は飄々とした態度を崩さない。
「いやはや、『紫の力』ってんのはパないもんやなぁ」
その言葉に、星理亜は無言で銃口をわずかに上げた。威圧の意思表示だった。
界渡真は気にする素振りも見せず、話を続ける。
「あの心魂具の強制剥奪だけでもエレぇーもんなのに、あのウニョウニョクチャクチャしたドキモい触手ボールも、一撃でズバンやん。いやー、パないの」
星理亜は何も言わず、じっと睨み続けた。 彼女の沈黙に、界渡真は愉快そうに笑う。
「んで、あの次元獣や。あれ、転校生はんらが次元維持管理管局指定の危険生物やで? 最初のデカいライオン混じりのやつと同じや」
「あの触手のも......?」
「そや。あれもや」
星理亜の眉がわずかに動く。 彼女は静かに問いかけた。
「何が目的なのですか?」
界渡真は考えるように首をかしげた。
「んー。それ、前にも聞かれたと思うんやけどなぁ」
わざとらしく思案し、指を鳴らす。
「確か、あのときは『心魂具の解放』って答えたと思うんや。 なら、今回は――そやな、『永木紫銀が心魂具をつけるようになること』が目的やな」
「.......」
「ま、細かいことは知らんけどな。あと、最後にバードン擬き遣わされた理由も、ワイにはわからへん」
「......使わされた? あなたが、使ったのではないのですか?」
界渡真は軽く肩をすくめた。
「使ったのはワイや。やけど、指示されたんや。つまり、ワイからすれば『使わされた』っちゅうことや」
そう言いながら、界渡真はふと空を見上げた。
そこには、戦闘中から張られたままの結界が、いまだに空を覆っていた。
「あーと、この結界やけど」
星理亜も空を仰ぐ。
そして再び、光銃を界渡真に向け直した。
「ワイが消えたら、解除したる」
「やはり、あなただったんですね......」
「お、流石やな。次元維持管理局のエースな転校生はん」
にやりと笑い、界渡真は言葉を重ねる。
「ま、これ以上は無駄な時間やから、おさらばしやな」
そう言って、立ち去ろうとする。
「ま、待ちなさい!」
星理亜の声に、界渡真は足を止め、振り返った。
「おーと、そやそや」
彼は何かをポケットから取り出し、星理亜に投げた。
それは......ふわふわのバスタオルだった。
「......ば、バスタオル??」
星理亜は戸惑いながら受け取る。 その手触りは驚くほど良かった。
「そうじゃなくって、永木さんは大丈夫なんですか!?」
「んー。あー」
界渡真は頭をかきながら答えた。
「ワイは知らへんけど、『紫の力』が覚醒解放できたんやから、たぶん大丈夫やろ」
「......そんな......」
「ま、細かいことは次元維持管理局のどエライさんにでも聞きぃな。ちょろっとは教えてくれるんちゃうか」
界渡真は軽い口調で言うと、すっと背を向けた。
「ほなーーーー」
「学校は!?」
星理亜が叫ぶ。
界渡真はちらりと校舎を見た。 そこは、瓦礫と化した廃墟だった。
「ダイジョブや、ダイジョブや。結界さえパッカーンなったら、元どおりやでぇ」
「制服も?」
「もちろん、そのボロボロになった制服もや」
「......はぁ......」
星理亜は脱力したようにため息をついた。
「ほかに聞きたいこととか、あんのん?」
彼女は無言で首を横に振った。
「ほな、ワイはこれで」
界渡真の身体が霞のように溶け、霧散していく。
その最後に、ぼそりと聞こえた。
「今度は、本当のコイツがお相手しますので」
星理亜は黙って、それを見送った。
界渡真が完全に消えた直後、空に張られていた結界が音もなくほどけ始めた。
そして――
解かれていく結界に伴い、戦闘で壊された校舎やグラウンドが、まるで時間を巻き戻すかのように修復されていった。
星理亜は、万が一を考えて、自分たちの周囲だけに不可視の簡易結界を張り直した。
完全に結界が解かれると、学校はもとの姿を取り戻していた。 生徒たちの声が校舎から漏れ聞こえてくる。
ただ、あの黒い人型の数々は――まるで最初から存在しなかったかのように、すっかり消え去っていた。
星理亜は、静かに紫銀を見下ろした。
まだ気絶したままだが、彼の呼吸は穏やかだった。
そっと微笑むと、星理亜は紫銀の額にかかる髪を、指先で優しく払った。
※
星理亜が紫銀をそっと横たえた直後だった。
ふわり――。
心魂具の光の粒子が、ふわりと舞い上がり、星理亜の前に柔らかな風と共に降り注いでくる。
まるで小さな蛍の群れが命を持ったかのように、空中を漂いながらゆっくりと集まり、やがてその光は輪郭を持ち始めた。
「な、な……に……」
星理亜が目を細め、息を飲む。
光の粒子は、まるで見えない誰かをなぞるようにして形を成していく。
それは、明らかに“人のかたち”をしていた。
「ひ……ひと……?」
思わず、言葉が漏れた瞬間——
「ひゃっ!!」
突如、星理亜の右手に嵌められた心魂具の指輪がまばゆい閃光を放った。
それは、これまで何度も見てきた“具現化”の光とは明らかに異なる。
もっと強く、もっと根源的で、まるで次元の隙間から“存在そのもの”を引きずり出すような、そんな異質な光だった。
——結界を張っていて正解だった。
星理亜は胸の内でそう呟く。
もし、この不可視結界がなければ、今目の前で起きている異常な現象は瞬時に周囲へ露見していたことだろう。
結界がなかったとしても、昼休みの終わりが近づいている今、転校生である自分と、クラス委員長の紫銀が同時に姿を消しているというだけで、充分に不審だった。
だが、今はそれどころではない。
視界の中心で、まぶしい光がだんだんと収束していく。
星理亜は思わず目を細めながらも、薄く開けたまぶた越しにその様子を確認しようとする。
白い——
視界がまだ焼けるように白く霞んでいる。
けれど、その中に、確かに“人の気配”を感じ取った。
「だ……だれ……?」
紫銀はまだ目を覚まさない。
今この場をどうにかできるのは、自分しかいない。
星理亜は構えていた光銃を前に突き出し、震える声で言葉をかける。
「え……えーと……」
そのとき——
「……み、命さ……ん?」
聞き覚えのある、優しくも凛とした声が空間に響いた。
そして、ついに光が完全に消えた。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
長い黒髪が静かに揺れ、光を受けて絹のように艶めく。
柔らかく穏やかな輪郭に、芯の強さを湛えた瞳。
その顔立ちには確かに“可愛らしさ”と“神秘性”が同居していた。
ただし、その身を覆う衣は、何もなかった。
巫女装束もなければ、英霊としての意匠もない。
純粋に、ただの“生身の少女”として、彼女はそこにいた。
「なんて言えばいいのでしょうか……」
命が言った。視線を伏せ、困ったように微笑む。
「なんでか知りませんが……どうやら、私、“蘇って”しまったみたいです」
その言葉に、星理亜は目を大きく見開く。
光銃を下ろし、一歩、命の方へにじり寄る。
「そ……そんな、こと……本当に……?」
命は小さく肩をすくめて、苦笑を浮かべた。
「わたしにも、まだよくわかりません。ただ、気がついたら、心魂具の指輪に戻ることができなくなっていて、こんなふうになっていました」
そう言って、自分の手を見つめる命。
指をゆっくりと曲げ、軽く自分の腕に触れる。
「それに……感じるんです。風や空気の重さ、呼吸の流れ。これは、“英霊が形を成している”なんて曖昧な状態じゃない。きっと、これは——肉体が生まれ直った……そんな感じです」
星理亜は息を呑み、信じられないというように呟いた。
「……ありえない。英霊に、そんなこと……。一時的に形を成すことはあっても、肉体を持ってこの世に留まるなんて……」
命はその言葉に、軽く首を傾けながら答える。
「でも、現にわたしはこうして立っていますから、そうなんでしょうね? たぶん、あの人——紫銀さんの中には、“命を再び紡ぐ”力があるんです。英霊に過ぎなかったわたしを、現世に引き戻すほどの……それって、普通じゃないですよね?」
星理亜は紫銀の寝顔に視線を向ける。
確かに、彼の中には“何か”がある。まだ正体も制御方法も掴めない、得体の知れない力が。
「……じゃあ、命さん……あなたは、これからどうするの?」
命は一瞬だけ考え込み、それから小さく笑った。
「んー、そうですね……とりあえず、服を……ください」
「そ、そりゃそうですよね」
慌てて星理亜はタオルを命に差し出す。命はそれをそっと受け取り、肩をすぼめて身体を覆った。