始紫伝26
蠢き合う触手によって形成された禍々しい球体が、自分から心魂具の使用権利を奪った紫銀の一撃によって、真っ二つになり、破断面が青く燃え上がり、呻き声すらあげる暇もなく消滅した。
重く圧し掛かっていた気配が、ふっと空気の中から抜け落ちる。
星理亜の身近に迫っていた危機は、確かに去ったのだ。
本来なら、星理亜はぞっとするほどの安堵感に身を沈めて、深く息を吐けたはずだった。
だが——まだ、完全に気を抜ける状況ではない。
心魂具とは契約をしている以上、それを使えるのは契約者ただ一人。それが絶対のルールであり、覆るはずのない理である。と、星理亜は教わった。
そして、心魂具は自分が持つもの以外に、同じものは存在しないとも、教わった。
なのに、紫銀の予想外の一言と行動により、心魂具は奪われた。
それは単なる比喩などではない。
確かに“持っていかれた”のだ。
証拠は、すぐそこにある。
星理亜は、震える視線で自らの右手を見た。
心魂具の指輪が鈍く光る。
命が宿っていた、心魂具の証。
普段なら、この指輪を通して、自分の中に宿っている命の気配を感じることができる。
だが——今はそれが、さっぱりと感じられなかった。
星理亜は全身に疲労がこびりつき、少しでも動かせば焼けつくような痛みが走る身体に、必死にムチを打ち、右手を持ち上げる。
それだけでも精一杯であり、なんとか持ち上げることができた腕は、空を掴むように震えている。
「……ぐ、具現せよ、心魂具っ……みことっ……」
喉に刃を当てたような激痛に耐えながら、星理亜から発せれた枯れかけた声が、微かに空気を震わせる。
すると、嵌められた指輪が淡く光りはじめた。
その光は指先へと収束し、小さな渦となって回転する。
初めて具現させたときと、まったく同じ現象だった。
星理亜は、まだ、使える。ことに対して安心感と、微かに息を呑んだ。
それとも、契約者である自分が、名を呼ばれたことで、本来の持ち主のもとに戻ってきてくれたのか。
そのどちらでもいい。
ただ、戻ってきてくれた——そう思っただけで、星理亜の胸に、ほんのわずかな嬉しさと安心が湧いた。
光の渦がゆっくりと伸び、両剣の形を成していく。
だが——その瞬間。
バチィン、と乾いた破裂音を立てて、光が弾けた。
収束していた光は霧散し、無数の細かい光の粒となって、夜の空へと消えていく。
剣は、形成されなかった。
湧きあがったばかりの喜びと安堵が、無慈悲な現実によって打ち砕かれる。
星理亜は、唇をかみしめながら、ゆっくりと前を睨んだ。
その視線の先に立っているのは、永木紫銀。
正体不明の紫色のオーラをまとい、今まさに命を帯びた刀を手にしている。
その姿は神秘的であり、どこか禍々しくもあった。
だが、星理亜の中には、不思議と敵意は生まれなかった。
心魂具を奪われたことに対して、確かに恨みや戸惑い、そして少しの恐れはあった。
しかし、それ以上に、彼に助けられたという事実が重い。
それに——彼は、星理亜の方を見ていなかった。
紫銀の視線は、あの球体が消えた空間でもなく、星理亜でもない。
彼の目は、ずっと遠くを、じっと見据えていた。
竹西学園の校舎。その屋上の方角。
星理亜は、荒れた呼吸を整えながら、彼の背中を見つめ続け、ふと、ひとつのことを思い出した。
もし、先ほど紫銀が両断した禍々しい球体が、これまでに現れた“次元獣”と同じ類の存在であったとすれば——。
必ず、あの男の姿があるはずだった。
界渡真。
次元獣の出現と不可分のように現れる、その名を持つ男の姿が、今回に限ってまったく見られていない。
それに、もうひとつ気になる点がある。
この空間を覆っている結界だ。
通常、結界というのはそれを張った術者の命と連動しており、張本人が死亡すれば、数秒のうちに崩壊し、空間を縛る効果は消失するものである。
星理亜は、あの球体がこの結界を張ったのだと当初は考えていた。
だが、紫銀の一撃により球体は真っ二つになり、青い炎とともに消滅してから、すでに数十秒が経過している。
それにもかかわらず、空間は何も変わっていない。
静寂に包まれたまま、結界はその存在を誇示するように張られ続けている。
つまり、あの球体が結界を張ったわけではない、ということ。
では、誰が——?
星理亜の中で、ひとつの仮説が確信に変わる。
それこそ、あの謎の男性である界渡真。
そして、その先の展開を、星理亜は直感的に想像していた。
もし、本当に彼によるものであったとしたら、まだ、何も終わってないということ。
ズドン。
鈍い衝撃音が、地鳴りのように空間を震わせた。
その瞬間、コンクリート製の昇降口の屋根が、上から押し潰されるように陥没する。
分厚い屋根板の中心部が、まるで巨大な拳で殴り抜かれたかのようにひしゃげ、内部の鉄筋がバキバキと不快な金属音を立てて露出した。
老朽化したコンクリートのひび割れから細かい砂塵が噴き出し、続いて崩れた屋根の破片が大量に舞い落ちる。
コンクリート片は重く、鋭く、地面に叩きつけられて砕け、その都度、鈍い音を響かせた。
宙を舞う埃と粉塵が、昼の光を遮って昇降口一帯を灰色のもやで覆う。
何が落ちてきたのか——いや、何が“降り立った”のか。
それは、目には映らずとも明らかだった。
※
土埃が風に流されてゆく。
宙に舞っていた無数の粒子が晴れていくにつれ、地に降り立っていた“それ”の全容が露わになった。
その姿を紫銀の背越しにから見た星理亜、息を呑んだ。
それは、まるで悪夢から這い出てきたかのような存在だった。
それは、猛禽のような鋭い目と嘴を持つ獣の顔。
だが、そこから下は異様だった。
膨れたような丸みを帯びた身体。
鈍く濡れたような皮膚。
そして、下腹部にある巨大な口――世界そのものを呑み込むかのような、禍々しい裂け目。
地に脚をつけ、岩のように構えるその怪物は、重くのしかかるような圧を放っていた。
そして、両腕。
先端には鋭利な鉤爪。
まるで鎌を備えた死神の手。
星理亜は自身でも気づかなうちに身震いをしていた。
彼女は、それの正体をしらないが、これはただの怪物ではない。とだけは感じ取っていた。
その正体は、次元維持管理が“最も危険”と分類する次元獣の一種――吸収型次元獣。
名も性質も知らぬ星理亜にとっては、ただ圧倒的な“災厄”だった。
ヴォーグラスが吼える。
大気を裂くような、地の底まで響く咆哮。
空気が震え、地面がわずかにたわんだ。
その時、星理亜は気づいた。
自分の目の前にいる人物――紫銀は、どよめくこともなければ、咆哮の威圧に足掻くこともなく、ただ、じっと立っているのだと。
心魂具である命を宿した刀構えることなく、じっと、静かに、ヴォーグラスと対峙していた。
次の瞬間。
ヴォーグラスが地を蹴った。
ズシンッ――砕けた土が弾け、巨体が鋭く前に滑る。
鈎爪が闇を裂き、紫銀へと襲いかかる。
「ッ――!」
その刹那、紫銀の手が閃く。
心魂具が唸りを上げて振るわれ、鈎爪と刃が激突。
爆ぜた閃光が視界を白く染め、爆風のような衝撃波が辺りを薙ぎ払った。
地面が陥没し、砕けた土塊が宙に散った。
鍔迫り合い――しかし、紫銀は一瞬の隙を突き、鋭く払い払ったが、ヴォーグラスは地を蹴り、空へ跳ね上がるようにして後退。
ずしりと地面に降り立つと、低く唸るような咆哮を響かせた。
紫銀の左掌がヴォーグラスを射抜くように向けられる。
脈動する青い光球が収束し、轟く咆哮とともに撃ち出された。
しかしーー。
ヴォーグラスの腹部、大口が音もなく開いた。
光弾は空気を震わせながら突き進むも、吸い込まれた瞬間、まるで最初から存在しなかったかのように光が消え失せる。
口は静かに、だが不気味に閉じられた。
紫銀は躊躇なく次弾を放つ。
連打する光弾が次々とヴォーグラスへ向かうが、そのすべてが無慈悲に飲み込まれ、闇に溶ける。
紫銀は、一言も発することなく命の剣を突き出した。
刃先に集まった青い光は、一瞬で一点に凝縮され、周囲の空気を巻き込みながら異音を発し始め、空間が歪んでいた。
刹那――
命の剣から、閃光が奔った。
雷鳴すら置き去りにする轟音とともに、放たれた光はまるで天を裂く咆哮。
破壊された校舎の窓ガラスは、さらに奥へと連鎖して砕け、周囲の瓦礫が爆風に巻き上げられた。
その瞬間、星理亜の身体が衝撃波に飲み込まれた。
足元の大地がまるで崩れ落ちるかのように揺れ、
空気の圧力が一気に押し寄せ、彼女を更に後ろへと引き摺り取ろうとする。
呼吸すらまともにできないほどの力で、体が吹き飛ばされそうになるが、星理亜は必死に両足を踏ん張り、地面に食い込ませる。
その足元に亀裂が走り、ひび割れたアスファルトがさらに崩れ落ちていく。
「っ…!」
星理亜は目を閉じ、歯を食いしばる。
激しい風圧が顔を叩きつけ、目を開けることもできないが、その中でしっかりと立ち続けようとする。
一方で、放たれた青い光は一直線にヴォーグラスへ向かう。
その光は、まるで天を突き破るかのような速度で迫る。
ヴォーグラスは下腹部の大口を開き、吸収しようとするが、その目の前で、紫銀の光がますます激しく膨れ上がり、圧倒的な勢いで光を放ち続ける。
しかし、光の奔流がヴォーグラスの体内に吸い込まれると、まるで封じられていた堰が決壊したように、内部でエネルギーが暴れ出した。
その吸収の器を無視するかのように、光が暴走し、ヴォーグラスの体内から暴力的に逆流する。
ヴォーグラスの体中が悲鳴のような音を上げて震え、裂け目から青い光が噴き出した。
その光はすさまじい勢いで体外に飛び出し、まるで無数の雷鳴が同時に轟くような破裂音を響かせるなか、ヴォーグラスは体をよじり、無様に地面を引きずりながら溢れ出す光を必死に押さえ込もうとした。
だが、全ての隙間から溢れ出す光を抑えることなどできず、ヴォーグラスは断末魔の咆哮をあげる間もなく、眩い青白い光に包まれ――
そして、跡形もなく、消えた。
爆心地に立つ紫銀は、なおも無言で、ただ静かに、命の剣を下ろした。




