プロローグ3
緊急会議が終わり、レイヴンは開発局内の廊下を足早に歩いていた。会議での提案が採用されたことは、ひとまずの前進であったが、その内容を考えると気が重かった。彼が向かう先は、開発局内でもほとんど誰も知らない、とある部屋だった。周囲を確認し、誰にも気づかれないように扉の前に立つ。
扉は一見するとただの倉庫のように見えるが、開くためには複雑なセキュリティシステムを解除する必要があった。パスワードは彼しか知らない。彼の指が操作パネルを滑るように動き、数秒後、低い音を立ててロックが解除される。レイヴンは静かに扉を開け、無言で中に入る。
中に入ると、その部屋は驚くほど空虚だった。四方の壁は何もなく、まるで存在しないかのように無機質な空間が広がっていた。レイヴンは一瞬立ち止まり、息を整える。この部屋に入るたび、彼の中には奇妙な感覚が湧き上がるのだ。
扉を背後で閉めた瞬間、まるでその合図を待っていたかのように、部屋全体が変化を始めた。光があふれ、空間そのものが揺らぐように歪む。そして、何もなかったはずの空間には無数の小さな光が瞬き、その光の中央には巨大な大樹が現れた。
「やはり、何度来ても慣れないな……」
レイヴンは小さくつぶやいた。この空間に足を踏み入れるたびに、現実離れした光景に圧倒される。だが、それ以上に、彼はこの場所に慣れたくないという強い感情を抱いていた。慣れてしまえば、この異常な状況を当たり前に感じてしまうかもしれない。それは、彼が自分の中に秘めた思いを裏切ることになるからだ。
レイヴンは大樹に向かって歩みを進めた。そこに、彼を待っていたのは一人の少女だった。外観年齢は15歳前後だろうか。長い純白の髪が光を受けて柔らかく輝いている。彼女は白いサマードレスを身にまとい、まるで天上から降りてきたかのような存在感を放っていた。
「おかえりなさい」
彼女は静かに微笑み、彼を迎え入れた。
少女の名はシラホ。この場所に現れる彼女こそが、レイヴンが会議で提案した『心魂具』の真の開発者であり提供者だった。レイヴンがこれまで成し遂げてきたすべての技術的功績は、実際には彼女の力に依存していた。そして、彼女の存在は、レイヴン以外の誰も知らない。彼女をこの世界に存在させたのは、他ならぬレイヴン自身だった。彼女はこの現実の枠を超えた存在であり、誰にも理解されることのない力を持っていた。
「会議での提案は、無事に受け入れられたみたいだね」
「あぁ。君から教わった『心魂具』の件も含めて、みんな納得した。今は、他の選択肢がないから、リスクは大きいが、やるしかないだろ」
レイヴンは深く息をつき、シラホに視線を向けた。彼女の微笑みは、どこか切なげなものに見えた。彼は彼女の目を真っ直ぐに見つめる。
「シラホ、あの少年の名前をしってるんだろ?」
「知ってるよ」
「なら、教えてくれ。そもそも、あの少年は本当に普通の人間なのか?」
シラホは静かに頷き、目を閉じた。彼女の瞳の奥に、無数の光が揺らめき、その中から一つの名が浮かび上がった。
「そうね。あの少年の名前は、永木紫銀。そして彼は、世界を破壊する力と、再生させる力の両方を秘めた存在……『紫のモノ』。」
「紫?」と、レイヴンは疑問を含んだ声で問い返す。
「ええ。『紫のモノ』というのは、主世界が完全に消滅の危機に陥ったとき、世界の無意識がその危機を回避するために生み出す、最後の生存本能よ。いわば、世界そのものが自分を守るために生み出す切り札のような存在ね。破壊と再生の力、そのどちらも持っている。」
シラホは少し間を置いて、さらに説明を続けた。
「この世界には『概念意識』というものがあって、それが地球や世界そのものを維持しようとする無意識の力なの。普段はその存在を感じることはないけど、世界が滅びそうになるとその『概念意識』が働いて、必要な対処を取る。そして、紫のモノはその『概念意識』が生み出す最後の防衛手段なのよ。」
レイヴンは眉をひそめながらも、興味深そうに耳を傾けた。
「ただ、重要なのは、主世界だけにその『概念意識』が強く働くということなの。枝世界――つまり主世界から分岐した異なる世界――では、その『概念意識』は干渉しない。だから、たとえ枝世界が滅亡の危機に瀕しても、紫のモノは生まれないのよ。」
シラホはレイヴンをじっと見つめ、核心を語った。
「管理局がいくつもの枝世界に武力介入してきたのにもかかわらず、『紫のモノ』に出会わなかった理由はそこにあるわ。枝世界に対して世界の概念意識は干渉しないから、紫のモノも現れることはないの。だから、あなたたちはその存在を知らない。」
レイヴンは息を呑んだ。
「主世界での危機――それが本当に大きなものでない限り、『紫のモノ』は生まれないし、管理局の記録にも残らないのよ。だから、今までその存在に気づかなかったのも無理はないわ。」
「そこで必要となるのが、君が提案した『心魂具』か……」と、レイヴンは視線を鋭くし、低い声で問いかけた。
「そうね。」
シラホは微笑み、静かに小さな正方形の小箱を差し出した。
レイヴンはその小箱を一瞥した。
これまで彼女から渡されてきた武装の中で、最も小さく、簡素な箱。
しかし、そこに込められた重みは計り知れない。指が箱の縁に触れた瞬間、胸の奥に不安が走る。彼は眉をひそめながら、その箱を開けた。
中に収納されていたのは、シンプルでありながら不思議な雰囲気を放つ指輪。
光を反射しない鈍い金属質の表面。
そこに彫られた微細な模様は、どこか不穏な響きを感じさせる。
「……これが、あの『心魂具』か。」
レイヴンはその指輪を手に取り、じっと見つめた。だが、その小さな物体に対する漠然とした不信感が胸に広がる。
シラホは一見冷静で、自信に満ちた様子を崩さないが、その裏には何か隠された意図があるのではないか――レイヴンの心に、そうした疑念が湧き上がってきた。
「これが本当に、世界を救うためのものなのか……」
レイヴンは目を細めながらつぶやいた。
シラホは何も言わず、ただ彼をじっと見つめていた。その瞳は静かだが、何か得体の知れない深さを持っているように感じられた。
「この指輪ひとつで、紫のモノの力を制御できるというのか?」
レイヴンはさらに問い詰めるように、低い声で言った。
「えぇ、可能よ。前にも言ったけど、8から9割は抑制できる代物よ」
シラホの返事は冷静そのものだったが、その冷静さが逆にレイヴンの不信感を強めた。
レイヴンは再び深く息をついた。彼が背負っている責任の重さが、ひしひしと感じられる。
「ただ、ひとつ問題があるの」と、そんな彼を余所にし、シラホは言葉を続けた。
レイヴンは眉をひそめて彼女を見つめた。
「問題?」
「そう。『心魂具』を契約させるためには、今よりもっと力を引き出さなければならないのよ」
「つまり……彼の力をさらに引き出す必要があるということか」
シラホは静かに頷いた。彼女の頷きには確固たる意志が込められていた。
「その通り。そのためにも、彼自身が直接戦うか、あるいは他者を巻き込む形で戦闘を経験させ、その過程で彼の力を上昇させなければならないわ」
レイヴンは苦い表情を浮かべた。彼の思考は、例の少年がまだ完全に覚醒していないという会議での認識に立ち返り、問題の深刻さを改めて実感していた。彼の表情には、責任感と共に迷いも色濃く浮かんでいた。
「それも会議で説明したけど、あの連中が理解してくれたかどうか……」
シラホはその言葉に対して、冷静な口調で続けた。
「心魂具を完全に機能させるためには、彼の力を最大限に高めておかなければならない。そして、それが実現したとき初めて、彼の力を抑制できるようになる。力が高まらなければ、心魂具の効果も十分には発揮
されないの。」
「だが、シラホ、本当にそれが可能なのか?」
レイヴンは疑念を捨てきれない表情で問いかけた。
「戦闘を経験させるとなると、彼と対等に渡り合える相手が必要だが、主世界には、彼のような異能力を持つ存在はいないぞ。もし他者を巻き込むとしたら、国同士の争いを引き起こさなければならないが、それが、どれほど危険なことか、理解してんだろ?」
レイヴンの言葉には強い懸念が込められていた。1年後には主世界が消滅する問題を抱えており、もし、その少年の覚醒のために無理に争いを起こすことになれば、世界全体のバランスが崩れ、さらなる混乱を招く可能性があった。
しかし、シラホは微動だにせず、冷静なままだった。
「そこは心配しなくていいわ。私の方でやってあげる」
「……どうやって?」
シラホは薄く微笑み、レイヴンを見つめた。
「すでに、私の力でその準備済み。あなたが心配するような、国同士の戦争を引き起こす必要はないわ。私が作り出すのは、主世界に影響を与えない戦闘の場。そこでは、彼は戦い、成長させてあげる」
「主世界に影響を与えない……だと?」
レイヴンは驚きを隠せなかった。
「そんなことが可能なのか?」
「ええ、私の力ならね。主世界は平常通り進行するわ。あなたが心配しているような悪影響は一切起こらない。彼にとって必要な成長の場だけが存在するのよ。それを、私の力で完全に管理する」
シラホの言葉には自信があふれていた。彼女はすでに手筈を整えており、すべてが計画通り進行しているのだと確信している様子だった。レイヴンはしばらく彼女の顔をじっと見つめ、彼女が嘘を言っていないことを理解した。
「……そこまで準備していたのか。それにしてもーーーー」
レイヴンは少し迷いながらも、もう一度シラホに向かって尋ねた。
「シラホ、お前の正体を聞かせてくれ。何者なんだ?」
シラホはその問いを避けることなく、静かにレイヴンを見つめ返した。
「私の正体を、ね……」
彼女は一瞬、目を閉じて言葉を選ぶように考えた後、淡々と口を開いた。
「紫のモノや、あの子の存在はすでに説明したわね。では、私について……私は、そうね……あらゆる世界が辿り着くべき姿を見据えることができる存在よ」
「それは、具体的にはどういうことなんだ?」
レイヴンは眉をひそめながら問い返した。
「簡単に言えば、私は多くの世界がどのような終わりを迎えるべきか、そしてどんな道筋をたどるべきかを知っている。あの子が決める主世界の未来、その結末も私には見えているわ。ただし、それがどうなるかは彼の覚醒にかかっている。未来は固定されていないのよ」
「つまり、あの少年を覚醒させることで、正しい未来を選び取る助けができる……ってことか」
レイヴンはしばらく考え込んだ。
シラホは微笑みながら頷いた。
「そういうこと。ただ、未来を知っているからといって私がそれを直接変えることはできない。あくまで彼自身が選ぶ道を導く存在にすぎないわ」
レイヴンはシラホの言葉を噛み締めるように、ゆっくりと理解を深めていった。
「だからこそ、俺たちが協力して彼を導かなければならないわけか……だが、もし失敗したら、どうなる?」
シラホの表情が一瞬だけ曇ったが、すぐに落ち着いた声で答えた。
「もし失敗すれば、1年後には主世界が消滅するのは確定済みだけどね、今ならまだ間に合うわ。彼を覚醒させ、正しい未来を選ばせることができれば、この世界は救われるのよ」
レイヴンは重い決断を前に、深く息をついた。
「分かった。お前を信じて動く。俺がやるべきことは、彼を導き、その力を引き出すことだな」
シラホは頷き、レイヴンを見つめながら続けた。
「でも、今のところ、管理局としてやるべきことはないわ」
レイヴンは驚いて問い返した。
「何だって? 俺たちはただ、何もしないで見てろってことか?」
シラホは静かに微笑んで答えた。
「そうよ。やるとしたら、今は、私たちが進めていることをじっと見ていること。それが今のあなたたちの役割よ」
レイヴンは納得できない様子で眉を寄せた。
「それじゃ、管理局はただの傍観者ってことか? 俺たちが動くタイミングは来ないのか?」
「心配しないで。いずれ、あなたたちにも動いてもらう必要が出てくるわ。その時が来れば、管理局の力も必要になるはずよ。でも今は、まだその時じゃないの」
シラホは落ち着いた口調で続けた。
レイヴンはしばらくの間考え込み、静かに頷いた。
「分かった。俺たちはお前たちを見守る。だが、いざという時は、いつでも動けるようにしておく」
「それで十分よ。動くべき時が来たら、私から知らせるわ」
シラホは優しく微笑んだ。
レイヴンはしばらくシラホの言葉を考えた後、深く息をついた。そして、静かに立ち上がり、視線を彼女から外すと、出口の方へ向かって歩き始めた。
「分かった。俺たちは見守るよ。だが、必要な時が来たら、すぐに知らせてくれ」
レイヴンが扉に手をかける直前、シラホがふと彼に声をかけた。
「レイヴン、もう一つお願いがあるわ。」
レイヴンは振り返り、シラホを見つめた。
「何だ?」
シラホは静かに説明を続けた。
「渡した心魂具を永木紫銀に届けるために、管理局実行部から一人、局員を主世界に派遣してもらえる?」
レイヴンは少し考え込んだ。
「局員を派遣する必要があるのか?」
「ええ、確実に心魂具を届けるためには、少し支援が必要なの。局員がいれば、主世界での干渉を最小限に抑えつつ、スムーズに進められるわ」
レイヴンは頷いた。
「了解した。それなら、実行部に連絡しておく。信頼できる局員を派遣させる。」
「ありがとう。それで準備は整うわ。心魂具を確実に届けることが、彼の覚醒には欠かせないから。」
レイヴンは無言のまま扉を開け、足音が徐々に遠ざかっていった。部屋には再び静寂が戻り、シラホは一人残された。彼女はそのまま、後ろにそびえ立つ大樹を見上げた。大樹の枝葉は天高く広がり、その根は地面深くにまで達している。その存在は、まるで全ての世界を抱きかかえるかのように揺るぎないものであった。
シラホは大樹に向かって歩み寄り、その幹にそっと手を当てた。
未来を見据える彼女の目には、確かな決意と静かな覚悟が宿っていた。そして、その背後にそびえ立つ大樹の存在が、まるで彼女の言葉を後押しするかのように、揺るぎない影を落としていた。
「全てはしかるべき時に動くのよ……」