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始紫伝24

身体が動かない。


恐怖が全身を蝕み、地面と一体化してしまったかのように足が張り付いている。逃げなきゃいけないのに、踏み出そうとしても力が入らず、膝がかすかに震えるだけ。まるで、地面そのものが僕の足を飲み込み、行動を許していないかのようだった。

耳鳴りがする。

心臓の鼓動が異様に速く、血液が身体中を駆け巡っているのが分かる。だが、それでも体は動かない。筋肉が麻痺したように、ただ震えるだけだった。


それでも、首だけは動いた。

ぎこちなく後ろを振り向く。


視界の先には、無数の細い触手が行く手を遮るなか、星理亜が剣を振るっていた。両手に握った心魂具の両剣が鋭く光り、迫りくる触手を次々と斬り伏せていく。しかし、それでも追いつかない。触手は斬られても再生し、さらに増えて彼女を包囲していた。


彼女の額には汗が滲んでいる。息遣いは荒く、それでも足を止めようとはしない。焦燥が彼女の表情ににじみ出ている。切り伏せても切り伏せても、触手の動きは衰えない。


それでも星理亜は足を止めず、焦りを滲ませながらこちらへ向かおうとしている。


だが――間に合いそうにない。


僕は唇を噛みしめ、再び前を向く。

そこには、無数の触手が待ち構えていた。

幾重にも重なり合う黒い触手。その先端は鋭利に尖り、今にも獲物を仕留める準備を整えているかのように微かに揺れている。まるで、最適な瞬間を狙う捕食者のように。

視線が絡みつく。冷たい汗が背を伝う。喉が詰まり、息が浅くなる。


そして――

触手が一斉に身を屈め、飛びかかる準備を整え、蠢く。

獲物を前にした捕食者のように、じわじわと動きを研ぎ澄ませながら、僕との距離を詰めていく。無数の黒い影が揺れ、視界を覆い尽くす。


その中で――ふと、異変に気づいた。


二本の触手が、ピタリと動きを止めた。

まるで、狙いを定めるスナイパーのように、微塵の揺らぎもなく静止する。


――次の瞬間には、襲いかかる。

理解した途端、何かが抜け落ちるような感覚がした。

全身の力が抜ける。恐怖すら消え、ただ静かな諦めが心を支配する。


「だ……ダメェェェェェーーーーー!!」


星理亜の悲鳴のような叫びが響く。

その声が耳に届いた瞬間、僕の心が激しく揺れた。


――僕はもう助からない。


そう思っていた。死を受け入れ、ただ終わりを待つしかないと。


だけど。


――助かりたい。助かりたい。助かりたい。


心の奥底から、抑えようのない感情が込み上げる。


でも、身体は動かない。 足は地面に縛りつけられたみたいに重く、喉はこわばり、声すら出ない。 それでも、星理亜は必死に叫んでいた。


僕を助けようとしてくれていた。


なのに、僕は何もできない。ただ立ち尽くし、迫りくる死の気配を感じることしかできない。


――僕は……こんなにも無力なのか?


心の奥に広がる、痛みとも絶望ともつかない黒い感情。 呼吸が荒くなり、僕はゆっくりと目を閉じた。


……これで、終わる。


目を閉じたはずなのに、触手が迫ってくる気配がわかる。 全身にまとわりつくような、奇妙な感覚。 意識が暗闇に沈み込んでいく――その瞬間。


――温かい。


触手に貫かれるはずだった僕の身体に、まるで誰かに抱かれたような温もりが生まれる。

僕のものじゃない。 誰かが、包み込むように僕を守ってくれている。


思わず目を見開いた。

そこに広がっていたのは、無数の触手ではなく、どこまでも青い空間だった。


「……どこだ、ここ……?」


真っ先に浮かんだのは、僕はもうこの世にはいないんじゃないかってこと。 ――触手に飲まれたか、貫かれて、もう死んでしまったのかもしれない。


上を見ても、下を見ても、右を向いても左を向いても、広がるのは青一色の空間。 どこまでも続いているような、果てのない青。


――声が聞こえた気がした。


小さくて、かすれていて、声と呼べるものなのかすらわからないほど微かな響き。 でも、確かに何かがそこにいる。

僕はもう一度、強く声を張った。


「誰っ!!」


僕の声が、青い空間の中に反響し、何度もこだましていった。

そして、僕の声が消え、また、あの声のような音が聞こえる。

それも、僕のすぐ近くから。

周りを見回す。

人らしき人影はなく、どこまでも続く青一色の景色だけが広がる。


「あ……あなた……は」


確かに、目の前に広がるのは青一色の景色だった。

だけど、それになにかがいる感じがする。

そう感じる方向に手を伸ばす。

そこには何もいなく、何もないように見える。


でも――


伸ばした手が触れた場所には、人のような温もりが感じた。

誰かがいる。

でも、その姿は見えない。

目を細めると、空間にわずかな歪みがあった。

歪みが青く光りだした。

紫銀の前に広がる闇の中、無数の触手が蠢いていた。それらは粘液を滴らせながら、不規則にうねり、ゆっくりと自分へと迫る。その圧倒的な質量が、逃れようのない恐怖を演出していた。


だが――次の瞬間、紫銀の周囲に青い光が奔った。

夜空の星を凝縮したかのような純粋な光。それはまるで、静かな水面に浮かぶ波紋のように広がり、触手との間に結界を生み出す。

――青い結界。


それは静かに揺らめきながら、闇の侵攻を阻む。触手がそれにぶつかるたび、金属のような硬質な響きを発しながら弾かれていった。


星理亜は目を見開き、信じられないという表情を浮かべた。触手が結界にぶつかり、弾かれる。まるで硬質な壁に激突したかのように、衝撃が走る。

しかし、それだけでは終わらなかった。

地面が震え、深い地割れが走る。暗闇の底から、さらに無数の触手が噴き出してきた。まるで奈落そのものが地上へと侵食しようとしているかのようだ。


それらはまるで怒りに駆られたかのように暴れ、青い結界を突破せんと、無数の爪のような先端を結界に叩きつけた。

爆ぜる衝撃。

空気が軋むような音。

しかし、青い光の障壁は崩れない。


次の瞬間――紫銀の身体を中心に、結界がさらに大きく広がる。

まるで生命を宿したかのような光が、波紋となって世界を塗り替えていく。


触手たちは戸惑うように震えた。

それだけではない。

結界に触れていた触手が、青い燐光を帯びていき、星理亜の目に映るすべての触手が青く光りだした。


そして、静かに霧散していく。

光の中で塵となり、音もなく消えていく触手たち。


触手が消え、辺りに静寂が訪れ、星理亜は、ゆっくりと紫銀のそばに歩み寄った。


戦いは終わったはずなのに、胸の奥に引っかかるものがある。安堵とは程遠い、正体の見えない違和感。まるで、足元の地面がわずかに揺らいでいるかのような不安定さ。


そして、紫銀は、そこに立っていた。

ただ静かに、何も言わず。


星理亜は眉をひそめ、一歩、もう一歩と近づく。

なのに、紫銀は微動だにしない。まるで、

そこに立っているだけの人形のように。


――おかしい。


不意に背筋を冷たいものが走る。

たまらず、星理亜は紫銀の顔を覗き込んだ。


その瞬間、喉が凍りついた。


紫銀の瞳――それは、紫に染まっていた。

けれど、それ以上に恐ろしかったのは、その瞳に宿る光が、まるで失われてしまったかのように感じられたこと。

触手が消えたことで、星理亜は紫銀のもとへ歩み寄る。彼の瞳は淡い紫に染まり、じっと崩壊した校舎を見つめていた。星理亜もその視線を追いながら、静かに校舎を見つめた。

この学校に通い始めてから、まだ数ヶ月しか経っていない。それでも、無惨な姿を前にすると、胸が締め付けられるような感覚が湧く。まるで自分の中の何かが壊れてしまったような喪失感が広がる。そして——星理亜の中で、説明がつかない違和感が生まれた。


 (何かを……忘れてる……?)

胸の奥で何かがざわつく。何かとても大切なことを思い出さなければならない気がする。しかし、その輪郭を掴むことができない。思い出せそうで、思い出せない。


その時、警告が響いた。


「来ます、星理亜さん!」


命の声が、脳内に鋭く響く。

星理亜は即座に警戒し、辺りを見渡す。

だが、何もない。

ただ——校舎に目を向けたその瞬間、思い出さなければならないものが何かを、星理亜は理解した。

消滅したはずの触手の本体が、まだ潜んでいる可能性があることに気づいた。


そして、闇の中から、何かが飛び出してきた。


それは、幾重にも絡み合った触手の集合体。

無数の細い突起が波打ち、まるで球体のように蠢いている。


「消えてなかったんだ……」


星理亜が呟いたその瞬間、触手たちが一瞬で再生し、蠢き始める。


「はい。おそらく、あれは自身の一部を切り離し、囮として使ったのでしょう」


命の分析が、状況の絶望感をさらに強める。紫銀は無言のまま、それを見据えている。その瞳の奥には、焦燥も恐れもない。ただ——静かな怒りが宿っていた。

星理亜は再び、命との憑依状態へと移行した。

右手に光が集まり、心魂具である両剣が具現させる。


その間も、あの薄気味悪い球体はただ、静かに浮いているだけ。最初のときと同じだ。何かをしてくるような気配がない。


なら—ー触手たちに襲われたら厄介だ。先手必勝——。

と、星理亜(命)は一気に踏み込み、両剣を振りかざす。

狙うは、見ることができないが、おそらくあの球体の中心にあるであろう核。

ザンッと、両剣が深く突き刺さる。

球体の表面から黒い粘液が噴き出し、焼けつくような異臭が辺りに漂った。


「うわぁー……」


星理亜が顔をしかめた、その瞬間。

ズズ……ズズズ……と、先ほどの一撃によって裂かれた触手たちが、一瞬で再生し、蠢き始める。 


「再生速度が……速すぎるよ……」


そうぼやく星理亜を前にして、蠢く触手が、ピタッと静止し、彼女の中を異様な気配が走る。


「……来るっ」

 

星理亜(命)の直感が、全身に警鐘を鳴らす。次の瞬間——触手の集合体から、無数の触手が飛び出してきた。標的は——星理亜と紫銀。

星理亜(命)はすぐに両剣を回転させ、襲い来る触手を切り裂く。飛来する触手を斬りながら、後方へと飛び退る。もし一瞬でも遅れたら、触手に絡みつかれていた。


(このペースなら……いける)

 

前回の次元獣戦とは違う。今の星理亜には、まだ十分な光力が残っている。

——だが、その時。


「……えっ?」


球体の中心——凹みに、異質な光が集まり始めていた。明らかに、ただの触手のテカリではない。


(……マズい……)


次の瞬間、光の奔流が球体から放たれた。灼熱のレーザー光線。まるで世界を貫くかのような速度と熱量を持って、紫銀ごと星理亜を焼き尽くそうとする。


「ッ……」

 

星理亜(命)は、ドリル形状をした触手の集合体の猛攻を防いだ時と同じように、両剣を双剣化し、一対になった双剣を回転させる。

あの触手を防ぐことができたのなら、レーザーもいける。そう確信し、星理亜(命)は双剣を回転させた。

レーザーが回転する心魂具に触れ、四散する。

それを見た星理亜(命)は、いけると自信を深める。


爆発が起こり、衝撃波が広がる。

——だが、その余波が問題だった。


強烈な衝撃波が、星理亜を後方へと吹き飛ばれ、地面に身体を強く叩きつけられる——はずだった。

だが、誰かの手が星理亜の腕を掴んで引き寄せた。


「っ!? え……」

 

星理亜の視界が揺れる。

いつの間にか、紫銀は当然のようにそこにいた。

紫銀の腕に抱えられた状態で、星理亜は自分の体に異変を感じた。

心魂具の力が、急激に薄れていき、力が抜ける感覚が全身を襲う。


次の瞬間——心魂具である命との憑依状態が、強制解除された。

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