始紫伝23
「星理亜さんっ!!」
命が星理亜の中で叫ぶ。星理亜は即座に紫銀を庇うように飛び込む。触手が紫銀のいた場所を掠め、壁を貫通した。破壊された壁からは瓦礫が崩れ落ち、不快な湿気を含む風が吹き抜ける。
「起きてください!」
星理亜は素早く立ち上がり、紫銀の腕を掴んで立たせた。
「な、なんなんだよ、あれ!」
紫銀が声を震わせる。
「分かりませんが、危険であることは間違いありません!今はとにかく逃げます!」
星理亜は紫銀の手を引き、廊下へと飛び出した。二人は全速力で駆け出す。
「きました!」
命の声が星理亜の中で響く。星理亜はすぐにポケットからキューブを取り出し、その面を素早く回転させた。
光が溢れ、手の中に現れたのは光銃だった。周囲にはもう紫銀しかいない。この場を安全と見た星理亜は、後ろを振り返ることなく光銃を向けたまま、迫り来る触手に向かって無差別に撃ち込む。
光銃から光の球が発射されるたび、触手の一部が千切れ、飛び散った液体が周囲の壁を溶かしていく度に、空間が不気味な振動で揺らぐから、あの球体それなりにダメージを与えているのだろうと、星理亜は思った。
「永木さん!走って!」
立ち止まろうとしていた紫銀に対して星理亜は叫びながら、光銃の照準を触手に合わせ続けた。紫銀はそれに従い、必死に足を動かした。後方で何かが崩れる音が響き、触手はさらに激しく蠢き始めた。
階段が見えてきた。上に逃げるべきか、それともまだ安全かもしれない下に進むべきか――星理亜は走りながら悩んでいた。決断を急かすように、背後から湿った音が近づいてくる。巨大な触手が壁を這い、床を叩く音は耳障りで恐怖を煽った。
「どうする!?」
紫銀が荒い息を吐きながら叫ぶ。
「下に行きましょ!」
星理亜は即答するが、その声には迷いが混じる。
「了解!」
紫銀が短く答えると、迷いなく先に階段を駆け降りていく。わずか13段の階段を、まるで風のような速さで飛び降りる彼の動きに、星理亜は一瞬目を見張った。
(なんて身体能力……!)
だが、驚いている余裕はない。星理亜もすぐに彼を追うように飛び降りた。
その刹那――先ほどまで自分たちがいた場所を、巨大な触手の塊が通過した。触手は束になり、まるで生き物が咆哮するかのような轟音を立てて壁を砕く。その衝撃で床が揺れ、星理亜は咄嗟に壁に手をついてバランスを保つ。
「すみません。ここで少し待っていてください!」
星理亜は踊り場に立ち止まった紫銀に向けて言い、光銃を構えながら慎重に階段を下り、廊下の安全を確認する。
暗がりの中、触手の気配は感じられなかった。
「大丈夫みたいです!」
星理亜の合図を聞き、紫銀が階段を駆け降りてくる。
「白羽さん、アレはなんなんだ?」
紫銀は息を整えながら尋ねる。
「私にも正体はわかりませんが……おそらく触手はただ伸びているだけで、このフロアまでは完全に侵食されていないみたいです」
星理亜はもう一度廊下を見渡しながら言葉を続けた。
「ただ、まだ安全地帯ってわけではないでしょうね」
紫銀は険しい顔をしながら頷く。
「なら、早く校舎から出た方がいいな」
「ええ。その方が安全かもしれません。あと、外に出たら、いろいろお答えしますね」
「頼むよ……」
紫銀は深く息を吐き、星理亜の後について廊下を進む。だが、階段を降りようとした瞬間、何かが這いずる音が下の階から響いてきた。
「えーと……」
星理亜は顔をしかめる。
「アレって、アレだよな?」
紫銀が暗闇の奥を指差した。
結界内なのだろうか、廊下の奥に広がる闇の中で蠢く触手が見えた。ウネウネと動くその姿は生々しく、近づく気配が徐々に強まっている。
「これでは外に出るのは無理ですね……とりあえず、適当な教室に入って身の安全を確保しましょう」
星理亜の提案に頷き、二人は近くの教室に駆け込んだ。
星理亜は教室の扉を閉めると、すぐにキューブを操作し、小型の防御壁を展開する。教室の隅に設置されたそれは、青白い光を放ちながら微かに振動していた。
「それは?」
紫銀が目を細めて尋ねる。
「簡易的な防御壁です。完璧とは言えませんが、多少の攻撃は防げますので、少し時間が稼げるかもしれません……」
星理亜は深呼吸をして、紫銀に向き直る。
「永木さん。これからお伝えすることは、お巫山戯や戯言ではなく、真実です」
「ま、まぁ。あんなのを見たんだから、大抵は信じるよ」
紫銀が肩をすくめる。
「でしょうね」
星理亜は小さく笑いながらも真剣な目つきで言葉を続けた。
「まず、私の身分について説明します」
彼女はポケットから証明手帳を取り出し、紫銀に見せた。
それは、紫銀も持っている生徒手帳ではなく、星理亜だけが持っている証明手帳であった。
「私は、次元維持管理局所属、実行部配属の白羽星理亜です」
「……次元維持管理局?」
紫銀は手帳をじっと見つめた。
「ええ。簡単に言うと、あなたのいるこの世界を守るために活動している組織の一員です」
「……大げさな話だな。でも、今の状況を見ると信じないわけにもいかない」
「ありがとうございます。永木さんが理解してくれると助かります」
紫銀は複雑な表情をしながらため息をついた。
「それで?君はなんのためにここにいるんだ?」
星理亜が説明を始めようとしたその時だった。
突如、天井を貫く轟音が響き、複数の触手が侵入してきた。防御壁が一瞬だけ触手の進行を食い止めるが、何度も弾ける音がして光が弱まっていく。
「星理亜さん!」
自分の中にいる命が星理亜の名前が呼ばれ、星理亜は咄嗟にキューブを操作し、愛用の両剣を具現化した。
迫ってくる触手が結界にあたり破裂する中、星理亜は逃げる手段を探し、ある場所を見つけた。
紫銀に視線を向けると、紫銀は一瞬だけ目を閉じ、大きく息を吸い込むと頷いた。
「……あぁ。それしかないよな」
「窓から飛び降りましょう!触手がここに集中しているうちに!」
星理亜は光銃を構え、窓に向けて引き金を引いた。銃口から放たれた光弾が窓ガラスに命中し、眩い光とともに破片が弾け飛ぶ。
二人は勢いよく窓へ駆け出し、躊躇うことなく外へ飛び降りた。
外の空気が一気に体を包み込む。星理亜と紫銀は重力に引かれるように地面へ落下していった。
星理亜は着地の瞬間、両膝を軽く曲げて衝撃を和らげると、すぐに紫銀の方を振り返った。
「永木さんは怪我はありませんか?」
「思ったより低かったから、平気だよ」
紫銀は肩を回して確認するように言うが、すぐに背後の校舎を見上げた。
先ほど飛び降りてきた窓から触手が這い出しており、その異様な光景に二人はしばし言葉を失った。
「まるで化け物映画だな……」
紫銀が息を整えながら呟く。
触手はまるで蛇のように蠢き、窓枠を砕きながら外壁を這い降りてきていた。その動きはどこか生き物じみていて、見る者の本能に直接恐怖を植え付けるようだった。
「な、なぁ。白羽さん……あれってどこまで広がるんだ?」
紫銀の声には不安が滲んでいる。星理亜はキューブを操作しながら答えた。
「わかりません。一応、結界内なのでた周囲への影響はありませんが……このまま放置すれば私たちがいる結界内が完全に侵食される可能性は高いですね」
星理亜の声は硬いが冷静だった。
紫銀は視線を触手の群れに戻し、眉をひそめた。触手の動きは徐々に活発化しており、校舎の外壁を覆い尽くそうとしていた。また、校舎から地面にひび割れが広がり、その間からさらに細い触手が伸び出している。異様な光景に、紫銀は思わず息を呑んだ。
「……冗談だろ。こいつ、どこまで広がる気だよ。」
低い声でつぶやく紫銀の表情には焦りが滲んでいる。
「すみません、永木さん。」
星理亜の声にはわずかに躊躇いがあった。しかし、その瞳には決意の光が宿っている。
紫銀はその謝罪の言葉に首をかしげた。
「なんで、白羽さんが謝るんだ?」
星理亜は触手の群れを睨みながら、冷静に言葉を紡ぐ。
「この状況は偶然ではありません。」
「偶然じゃない?」
紫銀の顔に疑念が浮かぶ。
「はい。私がここにいるのは、あの化け物を倒すためではないんです。」
星理亜は一呼吸置いて、紫銀に向き直った。その言葉が次に続く内容を告げる前の重さを持っていた。
「私の目的は――永木さん。あなたなんです。」
「ぼ……僕?」
突然名前を指名された紫銀の声が、驚きに揺れる。
星理亜は小さく頷いた。
「それに、アレの目標もあなたの可能性が高いのです。」
「……どういうことだよ?」
その焦りを感じ取ったのか、星理亜の声には微かな柔らかさが宿った。
「詳しいことは、今はまだ言えません。でも、これだけは覚えておいてください」
星理亜は両手に握った剣をゆっくりと回転させ始めた。剣の光がまるで空気を切り裂くように輝き、触手たちに対する強烈な威圧感を放つ。
「あなたを守ります。」
星理亜の言葉には迷いがなく、その場の空気が引き締まるようだった。
その時、地面の割れ目から無数の細い触手が伸び上がり、星理亜に向かって蛇のように襲いかかってきた。
星理亜は素早く剣を回転させながら、一瞬の躊躇もなくそれらを切り裂いていく。触手は断末魔のように動き、黒い粘液を飛び散らせながら消えていった。
「これが、私の役目です。」
星理亜の背中は紫銀にとって信頼の象徴のように見えた。触手に囲まれながらも、彼女は一歩も引かない。
※
紫銀は必死に目の前の状況を追い続けていた。守られるだけの自分、そしてその事実に謙虚さと悔しさが入り混じる感情が胸を締め付ける。
自分を叱責するように、紫銀は歯を食いしばる。
何か、少しでも力になれることはないか。彼は周囲を見回した。瓦礫の山、散乱した破片、落ちている金属片……どれも武器として使えるようなものではない。しかしそのとき、ふと背後に視線を向けると、地割れの中から細い触手がうねるように伸びているのが目に入った。
「……白羽さん!」
紫銀は慌てて叫んだ。
「なんですか、永木さ――」
星理亜は前方から迫りくる触手を切り払いつつ、後ろを振り返る。その視線の先に、うねりながら踊るように動く触手が見えた。
「……これ、まずいですね」
星理亜は目を見開くが、触手には攻撃の気配がなく、ただ動きを見せているだけだった。それでも、不気味さを感じさせるには十分だった。
「白羽さん、前っ!!」
紫銀の鋭い声が再び響いた。
星理亜が反射的に前方に視線を戻すと、そこには複数の触手が合体し、一本の太く巨大な触手に変貌していた。先端はまるで鋭利なドリルのような形状をしており、金属的な音を立てながらぐにゅぐにゅと回転している。
「……!」
星理亜の直感が危険信号を訴えた。
目の前の触手の圧力は今までのものとは桁違いだ。その動きがまるで勝ち誇ったように見える。星理亜は冷静に考えながら判断を下した。
「これじゃ、両剣じゃ持たない……よね?」
彼女は冷静に両剣を地面に捨てた。そして左手に持つ光銃を構え、大型化した触手に狙いを定める。
引き金を引くと同時に、光の球が連続して放たれる。光弾は触手に命中し、爆発音を伴いながら弾ける。しかし、その攻撃はまるで効いていないようだった。触手の回転がわずかに揺らぐ程度で、その巨大な構造はビクともしない。
「具現し、私の力となれ――心魂具!」
その言葉と共に、右手に嵌めた指輪から光が放たれる。鈍く輝いていた光は瞬時に強烈な輝きへと変わり、まるで生命を持つかのように星理亜の手に集まり始めた。その光は螺旋を描きながら凝縮され、形を成していく。
「剣霊、命っ!!」
その言葉が響き渡った瞬間、紫銀は目の前で繰り広げられる光景に驚き、目を疑った。
星理亜の右手薬指に嵌められていた指輪から、小さな光が漏れ出し、その光はまるで生きているかのように動き、形を変えていった。
紫銀は、あの時見たあの小さな人形を思い出す。昼休みに教室で一瞬見かけた、何気ないものだった。しかし今、目の前で再びその姿が現れるとは思いもよらなかった。
その光は次第に薄れていき、人形の姿がよりはっきりと現れる。
それは、巫女服を着た小さな少女。その姿は不思議と、まるで幻のように見え、瞬時に星理亜の体の中に吸い込まれるように消えていった。
その時、紫銀の胸を掠めた違和感。その少女が星理亜の中に入ったことで、何かが変わった、そう感じずにはいられなかった。
そして、次に目にしたのは、星理亜の右手に現れた新しい武器だった。
それは、ただの剣ではなく、まるで別世界から来たかのように、強烈なエネルギーを放ちながら現れる。その刃の輝きは、紫銀にとって恐ろしいほどの異質さを感じさせた。
両剣を離すと、星理亜(命)の手から一瞬で長い柄の部分が均等に二分割され、一対の剣へと変化した。
その剣が空中で回転を始め、まるで生き物のように自ら動き出す。
それを見ていた紫銀は思わず息を呑んだ。
剣に宿る力が、まるで星理亜(命)の意思そのものであるかのように感じられた。
目の前からドリルのように先端が鋭く尖っており、その表面はどろどろとした粘液で覆われ、蠢きながら螺旋を描いて伸びてくる触手。
それは、まるで無数の細胞が連携して動いているかのように生き生きとしており、見ているだけで気持ち悪さと恐怖を引き起こさせる。
表面がぬめり、触手の動きに合わせてその粘液が滴り落ちる様子が、紫銀の目に映る。
その触手の蠢く様子を見て、紫銀は思わず息を呑む。触手がひとしきり蠢いた後、その先端が星理亜に向かって突き刺さるかのように急速に伸びる。
その速さと、まるで命を持っているかのような凶暴な動きに、紫銀の心臓が高鳴った。
だが、その瞬間、星理亜(命)の回転する両剣が触手にぶつかり、触手の動きを止める。
触手が回転する剣に当たり、動きを一時的に封じられたその瞬間、紫銀は再び圧倒的な力を感じる。
星理亜の両剣が触手の動きを封じ込めることで、触手は完全にその前に立ち止まり、空中でその粘液が微かに弾け飛ぶ。
だが、触手はそれで終わらなかった。
その触手が、まるでしぶとく生き残ろうとするかのように、再び新たな部分から細い触手を生やし、星理亜に向かって突き出してくる。
その触手の細さとその不規則な動きは、さらに紫銀を不安にさせた。触手は、以前のものとは違って、まるで無限に伸び続けるかのように、どんどん伸びていく。
その動きに応じるように、星理亜(命)は冷静に両手でその一対の剣を掴み直すと、再び地面を蹴り、前方へと飛び込んでいった。
紫銀は、その動きが先ほどまでの彼女のものとは違うことに気づく。まるで、星理亜が覚醒したような、全く別の存在に変わったかのように見えた。
星理亜(命)は、伸びてくる細い触手を回転しながら、まるでそれが切り裂かれるのを予測していたかのように、正確にその触手を一つ一つ切り裂いていった。
その動きの速さ、そして冷徹さに、紫銀はただ圧倒されるばかりだった。
触手が切り裂かれ、粘液が飛び散り、地面にべったりと広がる様子が見える。
その粘液は、まるで生命そのもののように、だらだらと地面に染み込んでいく。触手が切られるたびに、その粘液の濃度が増していき、まるで何かが腐敗していくかのような不気味な匂いが漂ってきた。
触手の一部が切断され、さらに細かく分裂して、再び伸びようとするが、星理亜はそれを確実に切り裂き続ける。その姿は、まさに戦闘機のように無駄なく動き、触手の脅威を徹底的に排除していった。
その戦闘を目の当たりにして、紫銀はひとつの結論に達した。
星理亜は、以前の彼女とは違う。何かが彼女を変えた、そしてその力は、ただの武器ではなく、魂そのものを変えてしまったのではないかと感じた。
紫銀は息を呑んだ。
「……すげぇ……」
それまで見ていた彼女の戦い方とは明らかに違う。
単なる剣技の巧さではない。力の流れが変わっている。
まるで剣が星理亜(命)の動きを導いているかのようだった。
「永木さん、後ろ!」
鋭い叫びが響いた。
紫銀は反射的に振り向く。視界の端で蠢く黒い影。ついさっきまではただ不気味に揺れているだけだった触手が、今はまるで獲物を狙う蛇のように先端を自分に向けている。
――狙われている。
紫銀はゾクリと背筋が冷えた感覚に襲われた。
星理亜(命)は即座に紫銀のもとへ駆け出そうとする。しかし、その動きを見透かしていたかのように、無数の細かい触手が彼女の進路を塞いだ。
歯を食いしばり、心魂具の両剣を振るう。青白い刃が閃き、触手を次々と両断していく。切り裂かれた触手は跳ね飛び、黒い粘液を撒き散らしながら地面に転がる。しかし、数が多すぎる。斬っても斬っても、次から次へと押し寄せてくる。
その隙間から、星理亜(命)は紫銀を狙う二本の触手を捉えた。
今にも飛びかからんとするそれらの先端が、不気味に震えている。
星理亜は焦った。
彼女が目にした紫銀の様子が明らかにおかしい。
彼は微動だにせず、ただ立ち尽くしていた。目を見開き、呼吸すら浅い。
(恐怖で動けない!?)
紫銀自身の意思ではなく、本能が彼女の足を縫い付けている。
ならば、自分が間に合うしかない。
星理亜(命)は、目の前の触手を薙ぎ払う。飛び散る破片、軋む空気。切り裂きながら、少しずつ前へ進む。しかし――間に合わない。
ギュルギュルッ!!
二本の触手が、狙いを定めた獲物に向けて一気に飛びかかる。
「だ……ダメェェェェェーーーーー!!」
星理亜の絶叫が響く。
届かない。間に合わない。紫銀が――。
その瞬間。
バチィッ!!
弾けるような音が空間を切り裂いた。
紫銀と触手の間に、突如として青い光が展開される。透明な壁が触手を弾き飛ばし、衝撃が空間を震わせる。




