始紫伝13
夕方から夜に移り変わる直前、空はかすかに赤みを帯び、薄闇が広がり始めている。人気のない廃工場の一角、冷えた空気が張り詰める中、星理亜が歩み寄る。
ほぼ黒一色の管理局の制服に身を包んだ星理亜は、物音を立てぬよう静かに廃工場の入り口に近づいた。薄暗い空間に足を踏み入れると、埃っぽい空気が鼻をついた。古びた壁には剥がれ落ちたペンキの跡が残り、床にはかつての繁忙を物語る機械の痕跡が散らばっていた。彼女の心には、緊張と期待が交錯している。
「お、悪いな」
先に到着していた部隊長が軽く声をかけた。星理亜は一瞬だけ軽く頷くが、すぐに要件に入る。
「いいえ。大丈夫ですよ。それで、あれ以外で何か分かったんですか?」
その言葉には、彼女の緊張が滲んでいた。日常の一部だったはずのこの場所が、今は異常事態の舞台となっている。部隊長は少し躊躇いながらも、重々しく言葉を切り出した。
「紫……いや、永木紫銀のことだが……」
その名を聞いた瞬間、星理亜の心臓が一拍早く鼓動を打った。永木紫銀。彼は普通の高校生のように見えるが、その背後には何か異なるものが潜んでいるという噂が流れていた。星理亜は、その噂が真実であることを願いながらも、同時に恐れていた。
「永木さん?……ま、まさかっ!? 覚醒したんですか?」
彼女の緊張に気づいた相手はすぐに首を横に振る。
「いや、とにかく、これを見てくれ」
そう言って、彼は手元のディスプレイを操作した。画面に浮かび上がったのは竹西市の地図だった。その中で、二つの赤い点が瞬いているのが確認できた。星理亜はその地図を凝視し、心の中で何かが弾けるのを感じた。
「これは?」
「一つは、例の次元干渉者の疑いがある奴、写世だ」
「写世さんですか。で、もう一つが……永木さん?」
「ああ、そうだ」
永木紫銀を示す赤い点は市営住宅アパートの位置にあり、そこが彼の住まいであることが示されていた。写世の点は駅に近い住宅エリアにあり、どうやらそこが彼の自宅であるらしい。星理亜は、彼らが持つ秘密がこの地図に隠されているのではないかと考えた。
「それで、何があるんですか?」
相手は無言で操作を続け、紫銀の点の周囲が緑色に変わった。
「これは?」
「もし世界消滅が起きるとすれば、次元の歪みや何かしらの悪影響が周囲に現れるだろうと予測した結果だ」
「えぇーと……緑色……ですけど?!」
「ああ、緑だ」
星理亜はその緑色に視線を釘付けにされ、表情が一層硬くなる。緑という色は「安全」を示すが、今の状況でそれが何を意味するのか、彼女は理解している。彼女の胸にある不安が、ますます大きくなっていくのを感じた。
「それって……」
彼女が問いかけると、相手はその言葉を遮るように視線を向け、静かに言い放った。
「何も言うな。お前も分かっているだろ」
緑色。安全を示す色。だが、それが永木紫銀に関わるとなれば、単純に喜べないものがある。星理亜の中には、不安と安堵が入り混じった複雑な感情が広がっていくのだった。
「あぁ、そうだよ」
低く返事をした部隊長は、指先でディスプレイの表示を指し示した。
「それじゃ、彼らが間違えてるのではないでしょうか?」
星理亜が疑問を口にする。部隊長はその問いに冷静に答える。
「君も知ってるが、こと発端を見つけたのは、あの長のザインだぞ」
星理亜は少し眉をひそめ、考え込むような顔を見せた。
「あー……。あの方の危険予見って、主世界だけではなく、枝世界にも消滅の恐れを発見することができるって教わりましたね」
「そうだ。ザインは次元の流れや生態系の変化を感知する能力を持っている。彼の予見は、時に数年先の未来を見通すことができると言われている。しかし、その予見が逆に次元の不安定さを引き起こすこともある」
部隊長の言葉に、星理亜の心にさらに深い不安が広がった。ザインが感知した危険が、次元の流れを歪め、異世界からの干渉を招いている可能性があるのだ。彼女は、管理局の任務で培った冷静さを保とうと努力したが、次第にその心の奥底で不安がくすぶり始めるのを感じた。
「写世さんの点……動いた?」
星理亜は写世の動向に細かく目を配りながら、その位置情報が動いていることに気づいた。心のどこかに小さな警戒心が浮かび上がるが、同時に部隊長の落ち着いた態度が、彼女を少し安心させた。しかし、その安心感はすぐに消え去る。
部隊長は、写世に関する処理を紫銀と同じように行った際、その表示が緑の円へと変化したことから「問題はない」と判断したが、星理亜はその判断に納得しつつも、まだ気を抜くことができず、写世の点が示す位置に意識を向け続けていた。
「そうだと、いいんですが……」
星理亜は一度は安堵しかけたが、その気持ちはすぐに胸の奥から湧き上がる不安に押し流された。写世の点が何事もないとされても、どうしても疑念が残る。彼は、自分の正体を知っている存在だ。単なるクラスメイトではなく、自分の秘密に触れている相手であり、だからこそ、どんな行動にも油断できない。
写世の点が移動した先は駅前の建物のようだが、星理亜はまだ竹西駅周辺の地理に不慣れだった。彼女はスマホを取り出し、地図アプリで確認してみる。表示されたのは駅前のコンビニで、特に異常のない場所だ。
「コンビニ……でしたか」
小さく息をつき、安堵する星理亜。だが、その安堵は一瞬のものだった。心の奥底に潜む不安が、彼女の思考を乱す。
「すみません、私も少し気にしすぎてしまったようで」
「ああ、ザインが言っているほど今が切迫した状況というわけでもないのかもしれないな」
「そうですね」
星理亜は同意しつつ、ディスプレイを再度確認する。紫銀の位置を示す点は、変わらず緑色のままだった。しかし、彼女の心には不安が燻っていた。何かが起こる前触れのように感じられた。
「そもそも、永木紫銀はこの世界での存在生命体であり、ただの普通の人間だ。それが世界消滅を引き起こす程の力を持っているなんて、到底信じられないがな」
部隊長は少し呆れたように言い、ジャケットのポケットから小さなキューブを取り出す。それを軽く回転させると、空中にホログラム画面が展開され、紫銀の姿と注視すべきポイントが浮かび上がった。星理亜もその画面を見つめ、
「私の方も、同じような内容が記録されていますが……」と呟く。
その時、突如として警戒アラームが廃工場内に鳴り響き、全員が身構えた。警報音が広がると、緊張感は一気に高まる。星理亜は心臓が高鳴るのを感じた。これから何が起こるのか、彼女はその予感を否定できなかった。
「な、なにごとだ!」
部隊長が声を荒げる。ディスプレイを見ていた部下が急いで報告した。
「侵入者です!!」
「侵入者?!次元維持管理局の施設に?」
星理亜が驚きの声を上げる。彼女の中で不安が一層膨れ上がっていく。
「総員、迎撃準備に入れ!!」
部隊長が迅速に指示を出す。星理亜も光銃を取り出し、周囲を警戒し始めた。彼女の心には、これまでにない緊迫感が広がっていた。
「どこからの侵入……」
アラーム音がさらに激しくなり、まるで危機が迫るのを知らせるかのようだった。星理亜は自分の直感を信じざるを得なかった。
「来ますっ!!」
別の部下が緊迫した声で叫んだ。星理亜が入ってきた方向、廃工場の上空に突如、光の渦が現れ始める。
「ゲ……ゲート……だと」
その場にいた管理局員たちはざわついた。ゲートは次元維持管理局員が本局との間でのみ使用する転送装置のはずだ。しかし、アラームが侵入者を検知したことから、このゲートは局員ではない者によって開かれた可能性が濃厚だ。
やがて光の渦から現れたのは、40代半ばと思われる長身の男性と、この世界には存在しないほど巨大で、威厳を放つライオンのような獣だった。その姿はただの野生動物とは異なり、知性と圧倒的な力を備えた異世界の存在であることを感じさせた。
星理亜は光銃を構え、敵の動きを注視する。他の局員もそれぞれの武器を構え、戦闘態勢に入る中に、星理亜はちらっとディスプレイに表示されている写世の点の場所を横目で確認したが、その場所に変化はなかった。彼女の胸に不安が広がる。写世は一体何を企んでいるのか?その思考が、さらなる緊迫感をもたらしていた。
この夜は、彼女たち全員にとって忘れられないものになるだろう。暗い廃工場の中、星理亜は自分の運命がどう変わっていくのか、まったく予測できなかった。
※
竹西駅から徒歩五分ほどの場所にあるコンビニ。その裏手の薄暗い駐車エリアに写世は足を踏み入れ、周囲を確認して小さく笑みを浮かべた。薄暗い夜空に星はほとんど見えず、街灯の光が彼の表情を照らし出す。その光は、彼の顔の一部を明るく浮かび上がらせ、もう一方は影に隠れている。周囲の静寂は、彼の心の高ぶりを一層際立たせていた。
「さて、やりましょっか」
写世は手を軽く振り上げると、ふわりとフォトアルバムが具現化された。アルバムは彼の意志を映すかのように、静かに浮かび上がる。周囲には静寂が漂い、夜の冷たい空気が彼の肌を撫でる。
アルバムから一枚、青空を映した写真を慎重に引き抜く。その青空は、彼の心の奥に秘めた理想や夢を象徴するかのように鮮やかで、彼はその色合いに引き込まれる。思い出すのは、彼が幼い頃から抱いていた冒険心や自由への渇望。今、まさにその瞬間が訪れたのだ。
「あちらさんには、わいの場所がもろバレしとるから、まずはコレやな」
彼は言葉を呟きながら、写真を手で裂く。途端、彼を囲むように結界が静かに広がる。周囲の空気が一瞬張り詰め、不気味な静けさが広がった。この結界は普通の人間には見えず、彼がいることを完全に隠してしまう。通りを行き交う人々は、何も感じることなく無邪気に会話を交わし、笑い声が遠くに響いている。
写世はその光景を見つめながら、どこか冷静な自分を保とうとしていた。彼の心の奥には、不安と期待が入り混じっている。しかし、今はその不安を振り払う必要があった。
「んーで、もう一枚は、コレや」
今度は、アルバムから取り出したのは40代半ばの長身の男性が写った写真。写世はその写真をじっと見つめ、微かに笑みを浮かべた。彼はそれをゆっくりと破り捨てる。
すると、写世の体がその男性に姿を変えていく。まるで彼の体がその写真に吸い込まれていくような感覚だった。
これは、事前にこの姿の本人と打ち合わせしたことであった。こうすることで、これから写世が行うことは、『界渡真』が行ったことにすること。そして、写世の能力についてもそうだが、界渡真の能力もバレないようにすることであった。
「んー。これで、わいではなく界渡真はんがやらかしたことになるやん」
満足げに呟き、写世は次に取り出したのは自分自身の写真だ。それを破ると、ふわりと淡い光が生まれ、人型の形に変わっていく。この光は彼の意志そのものであり、彼の存在を再構築するものだった。光が収束すると、そこには写世と瓜二つの姿が現れ、写世はそれに触れてにやりと笑んだ。
「これで、あちらさんには、わいがずーっとここにおるようになるんな」
彼は自分の計画が完璧に進んでいることに高揚し、思わず声を上げた。彼の心には、周囲の状況を操る力を手に入れるという期待感が広がっていた。次にアルバムの中から一枚の写真を引き抜くと、躊躇なく破り捨てた。その瞬間、目の前に現れたのは巨大なライオンのような獣。獣は圧倒的な存在感を放ち、その鋭い瞳は写世を見据えていた。たてがみは闇の中で揺れ、まるでこの空間の主であるかのように威厳を示している。
写世はその姿を見て、胸の高まりを感じる。この獣は彼の計画の重要な一部であり、彼の意図を強力にサポートする存在でもあった。彼はライオンの獣に向かって手を伸ばし、その毛並みを撫でる。獣は彼の意志を理解するかのように、静かに彼の腕に寄り添った。
「ほな、いきますか」
写世はゆっくりと左手を伸ばし、手のひらを開いた。すると、空間がゆらめき、暗闇の中に渦が生じてゲートが開かれた。彼はその瞬間、異世界への扉が開かれる感覚を楽しんだ。心の奥に秘めた計画が、ついに実を結ぶ瞬間が訪れたのだ。写世は新たな世界への期待に胸を膨らませながら、ゲートの先に広がる未知の景色を思い描いていた。
「これが、始まりやな」
彼はその言葉を呟くと、躊躇うことなくゲートへと足を踏み入れた。彼の後ろには、変身した自分とライオンの獣が続く。写世は心の中で新たな冒険と混乱の予感を感じつつ、次のステップへと進んでいった。
写世の心には高揚感と同時に、少しの不安も混じっていたが、それが逆に彼を刺激する。彼が望む未来を手に入れるためには、どんな困難も乗り越えなければならないのだ。写世は、自身が今、何をしているのかを理解していた。彼には選択肢がなく、進むしかなかった。
「さあ、行くで」
写世は、闇の中へと消えていった。




