始紫伝9
紫銀が部屋のドアを開けた瞬間、ひんやりとした空気が顔に触れた。いつものように静まり返った部屋が彼を迎え入れた。星理亜とは建屋の前で別れ、世依奈がまだ帰ってきていないのもわかっていたが、やはり少し寂しさを感じる。人の気配がない空間に身を置くと、ついそのことを意識してしまう。特に、家族がいなくなってからというもの、一人の時間が増えるたびにこの静けさが妙に際立つ気がしていた。
「ただいま。無事に帰ってきたよ」
紫銀はいつものように、まず父親にメッセージを送る。海外に赴任している父親とこうして連絡を取るのが、彼にとって日課になっていた。単なる日常報告のような短いメッセージだが、これがないと何か物足りない気がする。小さな画面に向かい、「送信」をタップすると、彼は自然と少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。少なくとも、父親に心配をかけることなく、無事に過ごしていることを知らせられたのだ。
次に、朝に界乃から渡されたお弁当箱を洗うために台所へと向かう。流し台にお弁当箱を置くと、水を出し、少し冷たい水が手に当たる感触を楽しむように、手を動かす。洗いながら、ふと世依奈のことが頭をよぎる。今日は世依奈の母親である界乃が作ってくれたお弁当だった。毎回、感謝の気持ちは伝えているが、どれだけ感謝しても足りないくらいだと思う。彼は弁当箱を丁寧に洗い終え、しっかりと拭いてから台所の棚に戻すと、深呼吸をした。
次は制服だ。紫銀はそのまま制服を脱ぎ、部屋着に着替える。制服を着ていると、どうしても気が張ってしまうが、部屋着に着替えると一気に気が楽になる。学校の緊張感から解放され、自分の時間が始まる瞬間だ。ワイシャツはすぐに洗濯機に入れるが、まだ回さない。ジョギングから帰ってきたら体操服も一緒に洗うつもりだ。
「さてと...」
彼は少し立ち止まり、乾燥機から取り出しておいた洗濯物をリビングのテーブルに広げて畳み始める。洗濯物を畳む手は、もう慣れたものだ。シンプルな作業だが、一つ一つ丁寧に畳んでいくことで、彼は少しずつ頭の中を整理していく。日々の小さな雑務が、逆に心を落ち着かせる時間にもなっている。
洗濯物を片付け終わった頃、ふと時計を見た。まだ世依奈が帰ってくるには時間がありそうだ。いつもならこの時間は自学をすることが多いが、今日は体操服を洗わなければならない。ジョギングでもして、汗をかいた体操服を一緒に洗うことにしようと決める。どうせなら少し体を動かしてリフレッシュしたい気分だった。
「どうせ体操服を洗わないといけないし…ジョギングでもするか」
授業で使った体操服に着替え、靴ひもを結び直そうとしたその時、スマホが着信を告げた。紫銀は少し驚いてディスプレイを見ると、父親の名前が表示されている。
「もしもし、父さん?」
「おぉ、紫銀。帰ったってメッセージをもらったから、元気にしてるかと思ってな」
父親の声を聞くと、少しホッとする自分がいるのに気づく。離れて暮らしているとはいえ、やはり家族の声は特別だ。普段はあまり意識しないが、こうして電話で会話をするとそのことを強く感じる。
「うん、大丈夫だったよ。いつも通り、特に何も問題なし」
「それなら良かった。あまり無理してないか?」
「うん、大丈夫。ちゃんとやってるよ」
紫銀の答えに、父親は安堵の声を漏らしたが、短い沈黙が電話越しに漂った。お互いに、特に話すべきことがないのを感じているようだ。いつもこうだ。日常的な報告ばかりで、特別な出来事があるわけではない。それでも、こうして定期的に声を聞けることが紫銀にとっては大切なことだった。
「父さんも、体調崩したりしてない?」
「お前と同じで、気をつけてるよ。そうそう、次元さんのところには迷惑をかけてないか?」
次元家のことを気にかける父親の問いかけに、紫銀は少し考えた。確かに世依奈の家からはお弁当をもらったり、何かと助けてもらっている。でも、それ以外はなるべく自分でやっているつもりだ。
「うーん、お弁当をもらってるぐらいかな。あとは、自分でなんとかやってる」
「そうか。それなら良かった。世依奈ちゃんのお母さんにも、またお礼を言わないとな」
「うん、わかってる。父さんの代わりに伝えておくよ」
世依奈の家が彼をサポートしてくれていることは、父親にとっても大きな安心材料だ。もし、彼女たちの助けがなければ、紫銀の一人暮らしはもっと大変なものになっていただろう。彼自身もそのことを十分にわかっていたし、感謝の気持ちは常に持っていた。
「でも、無理はするなよ。困ったことがあったら、すぐに連絡するんだぞ。無理をして倒れたら、それこそ俺がすぐに帰っていかなきゃならなくなるからな」
父親の声には心配の色が滲んでいたが、紫銀はそれを軽く受け流すように答える。
「わかってるよ。父さんも、無理しないでね」
電話を切った後、紫銀は一息ついて、再び体操服に袖を通した。部屋の中に漂う静けさとは対照的に、外には心地よい風が吹いている。ジョギングに出かける準備が整った紫銀は、夕暮れに染まる街を思い描きながら、少しだけその風に吹かれるのを楽しみにしていた。
彼は玄関で靴を履き、外へ一歩踏み出す。肩にかかる夕日の光が、少しだけ彼の背中を押してくれるような気がした。
紫銀が帰宅した同時刻。
竹西学園中等部の体育館では、夕方の淡い光が窓から差し込み、忙しく動く生徒たちの姿を照らしていた。中等部の女子バスケットボール部も例外ではなく、汗だくになりながら練習に励んでいる。次期ポイントセンターを任されることが期待されている世依奈は、今日も真剣な表情でコートを駆け抜けていた。
今日は特別に、部内での紅白戦が組まれていた。世依奈のチームは赤チームで、対戦相手となる白チームには、世依奈の1年先輩の2年生でディフェンダーにつく高木がいる。彼女は部内でもディフェンスの巧みさで知られており、特に世依奈が次期ポイントセンターを務めるにあたり、直接対決することが注目されていた。
試合開始のホイッスルが鳴ると、コート上の緊張感が一気に高まった。ボールが跳ね上がり、ゲームが始まる。世依奈は最初、周りの動きを冷静に見ながら、味方にパスを回しつつ自分の位置を調整していた。しかし、ボールが彼女の手に渡った瞬間、高木がすかさず前に立ち塞がった。
「さあ、ここで勝負だね、世依奈ちゃん」
高木は鋭い目つきで世依奈を睨みながら、じりじりと間合いを詰めてくる。
「負けませんよ!」
世依奈も負けじと挑戦的な眼差しを返す。彼女は素早くステップを踏み、フェイントをかけながらディフェンスをかわそうとした。だが、彼女は冷静にそれを見抜き、がっちりと前に立ちはだかった。
「はわっ……」
世依奈は一瞬の隙を突かれてしまい、思わずボールを奪われかけたが、素早く反応して再びボールをキープした。
「やるじゃん、でもまだまだだよ」
高木はにやりと笑い、さらなるプレッシャーをかけてくる。世依奈は、ここで絶対に引けないと感じ、全力で突破を試みた。
ドリブルで相手を抜こうとした瞬間、世依奈は巧みに身体を傾け、わずかな隙間を作り出した。そして一気に加速し、ゴール前に進む。「行ける!」と心の中で確信したその瞬間、再び彼女が鋭くカットインしてきた。
だが、世依奈はここでパスを選択。味方が待ち構える場所に正確なパスを送ると、ボールはすぐさまゴールへ。シュートが決まり、チームの得点が増えた。
「ナイスプレー!」
チームメイトたちが声を上げ、世依奈もホッと一息つく。だが、試合はまだ終わらない。何度も繰り返される攻防の中で、世依奈は成長を実感しつつ、緊張感を楽しんでいた。
練習の後、女子バスケ部の部室に移動した世依奈たち。みんなが着替えを始めると、部室内にはおしゃべりの声が響き渡った。世依奈もロッカーの前で制服を取り出し、シャツを脱いでタオルで体の汗を拭き取っていた。
「ねぇ、せいなぁー」
「ん?」
「今日も例の彼氏君と仲良く登校してたでしょ?」
隣で着替えていた同級生が、悪戯っぽい笑顔で話しかけてきた。
「うん、そうだよ。紫銀君とはお隣さんだから、毎朝一緒に登校してるけど、それがどうかしたの?」
世依奈は特に気にする様子もなく答え、制服のシャツに手を伸ばした。
「いやー、そんな仲良さげに登校してるのに、本当に何もないの?付き合ってるとかさ!」
もう一人の部員がすかさず声をあげ、くすくす笑いながら世依奈を見た。
「付き合ってないよー。幼馴染だから、一緒に登校するだけだよ」
世依奈は肩をすくめ、特に気にする様子もなくシャツのボタンを留め始める。
「でもさぁ、そうやって毎朝一緒に登校してるのを見たら、付き合ってるって思っちゃうよねぇ。ねぇ、他の子たちもそう思わない?」
「うんうん、絶対怪しいよねぇ。何もないとか言ってるけど、ほんとは好きなんでしょ?」
「えー、それだとさ、君川さんはどうなるの?」
突然話を振られた君川が驚いた様子で反応する。
「わ、私?」
「だって、君川さんのお父さんって先生でしょ?毎日一緒に学校来てるんでしょ?」
「んー、そうだね。おかげで、陰で自主練頑張ってますけど」
君川は少し困った笑みを浮かべながら答えた。
「私と同じ、じゃない?」
世依奈は君川に助けを求めるように声を上げる。
「いやいや、君川さんのお父さんは先生で、しかも親子でしょ!それとは全然違うじゃん!」
一人の部員がすかさず突っ込みを入れ、周りも笑いながら頷く。
「そ、そうだよ!幼馴染だからって毎朝一緒に登校してるのに、何もないとか言われても信じられないな~。やっぱり付き合ってるんでしょ?」
「え?そうなの?…そういうことになるの?」
世依奈は少し戸惑った様子で首をかしげながら問い返し、冗談のように感じていない様子を見せた。
「やっぱり世依奈ってそういうところ、疎いよねぇ~!」
冷やかす部員たちはさらに笑い声があがる中、ふと同級生の視線が彼女の下着に移った。
「でもさ、世依奈って意外とシンプルな下着なんだね~」
同級生の一人が目ざとく見つけ、ニヤリと笑った。
「え?どういうこと?」
世依奈はきょとんとしながら、自分の下着に目をやる。
「うーん、なんていうか、紫銀くんを落とすにはちょっと弱いんじゃない?」
その言葉に、他の同級生たちもまた笑い出した。
「ええっ!?何言ってんのよ!」
世依奈は驚いて顔を真っ赤にしながら、慌ててシャツをしっかりと着込み始めた。
「もっと可愛らしいのにしないと、あの彼氏君もドキッとしないんじゃない?」
別の部員もからかいの波に乗って声をかけてくる。
「だから、そういうのじゃないってば!紫銀君とは幼馴染で、普通に一緒に登校してるだけだって!下着なんて関係ないから!」
世依奈は必死に弁解しながら、制服のスカートを引き上げた。
しかし、同級生たちは止まらない。
「でも本当に何もないんだったら、こんなに焦らなくてもいいんじゃない?ねえ、やっぱり何かあるんじゃないの?」
「ないない!ほんとにないんだから!」
世依奈は照れ隠しで笑いながら言い返したが、顔はまだ赤いままだった。
「まあ、でもこれからはもうちょっと可愛い下着を揃えておいた方がいいかもよ?」
同級生が冗談っぽく肩をすくめると、部室は再び笑いに包まれた。
「もう、ほんとにからかわないでよ!」
世依奈は笑いながらも、少しだけ恥ずかしそうに顔を覆った。その後、着替えを終えた。