始紫伝8
放課後、教室で紫銀が帰りの準備をしていると、ドアが開く音がした。教室内は帰りの時間を迎え、友達同士の楽しげな会話や笑い声が混ざり合い、少しザワザワした雰囲気が漂っている。机の上には、教科書やノートが散らばり、帰る準備を急ぐ生徒たちの姿が見える。
「おっと、委員長、一人で寂しいぃ帰り?」
写世が不意に声をかけてくる。紫銀は少し呆れた表情で振り返った。
「なにいってんだ、お前?」
紫銀の目の前に立つ写世は、口元に薄い笑みを浮かべている。
「委員長の愛妻や。愛妻」
その言葉に、紫銀は一瞬驚き、すぐにため息をついた。
「愛妻って……あのなー」
軽口を叩かれた紫銀は半ば呆れつつも、反論しようとしたが、写世はさらに続けた。
「あ、ちゃぁーたか。愛妻やなくって、愛人やな。愛人」
「……あのなー。愛人でも恋人でもない!ただ、仲が良いお隣の幼馴染だよ。それに、世依奈は部活だよ。部活」
周囲のざわめきの中で、紫銀は言葉に力を込めて反論するが、写世は肩をすくめ、まるでわかっているかのように軽くうなずく。
「そやったなー」
「ったく。知ってんだろ?」
写世は笑いながらうなずき、「知っとるでー。女バスやろ」と、両手でバスケットボールを投げる動作をする。紫銀はその様子を見て、思わず口元が緩んだ。
「そ。で、写世は大丈夫なのか?」
紫銀が尋ねると、写世は少し遠くを見るような仕草をしながら答えた。
「まー誰もいへんけど、ちょいっとやりたいことあんから、行って来るで」
「はいはい。がんばれー」
軽く手を振りながら送り出す紫銀に対し、写世が教室を出ようとしたその時、ふと立ち止まる。
「おっと、委員長」
「ん?」
紫銀は驚いて振り返り、写世がスマートフォンを手にしているのに気づいた。
「んなっ!」
突然のシャッター音に驚く紫銀。写世はスマートフォンを持ちながらにやりと笑った。
「お、ワイのスマフォのカメラ機能は問題なしやなー」
周囲の友達たちがちらっと振り向き、何事かと興味を示す中、紫銀はむっとした表情で写世を睨む。
「ったく。人で試すなよ」
「そのくらい、えぇーやろ。ほな、いってくるわー」
軽い足取りで教室を立ち去った写世だが、数分後にまた戻ってきた。紫銀はすでに鞄を背負い、教室を出る準備を整えていた。
「そういや、忘れもんやったわ」
写世は机の上を探り、教室の隅に置き忘れていたフォトアルバムを見つけた。
「これやこれ。委員長に気ぃ取られてて、置きっぱなしにしてもたわ」
紫銀はため息をつきながらも、少し微笑みながら写世を見つめる。
「はいはい、ちゃんと忘れ物しないでさっさと行けー」
「おぅ、気ぃつけるわー。でも、道に気をつけて帰るんやで。暗くなるし、気をつけんと」
写世はフォトアルバムを手に再び教室を後にしようとしたが、急に立ち止まって振り返る。
「ほんまに気をつけて帰れよ、委員長」
「……わかってるよ」
写世は少し心配そうに紫銀を見つめ、最後に一言付け加えた。
「また明日な!」
軽やかな足取りで教室を去った写世に、紫銀は少し心配になりながらも、すでに準備を終えて席を立つ。教室のドアが閉まる音を聞きながら、彼は少し笑みを浮かべ、友達との会話が続く教室を背にして外に出た。
「ったく、あいつ……」
周囲の友達たちが笑い声を上げる中、紫銀は心の中で写世の心配を思いつつ、廊下を進んでいった。
紫銀が下駄箱の前で靴を履き替えていると、白羽星理亜の声がかかった。
「あれ?永木さん、お一人なのですか?」
星理亜がこちらを見て微笑んでいる。少し前髪をかき上げる仕草が、彼女の柔らかな雰囲気を一層引き立てていた。
「白羽さん。そうだね、帰りは僕一人のときが多いかな」
紫銀は少し照れくさそうに答えた。
「次元さんは部活なんですね」
星理亜は少し驚いた様子で言った。彼女の興味が紫銀に向けられているのを感じ、紫銀は少し心が温まる。
「そ。あれで、女バスの次期ポイントセンターらしいよ」
紫銀は世依奈の頑張りを思い出し、ちょっと誇らしげに胸を張る。
「そうなんですね。あれ?永木さんは部活は?」
星理亜が尋ねる。
「あー」
紫銀は少し考え込みながら言った。部活に関する話題は少し複雑だ。
なんせ、彼らが通学する竹西市立竹西学園中等部では、部活動が必須とされており、すべての生徒が何らかの部に所属しなければならない。高等部に進学すると、その参加は自由になる。
「剣道部に入ってたけど、今は訳あって休部中なんだ」
少し寂しそうに続ける。
「わけですか?」
「それはちょっとした事情があってね」
紫銀は言葉を選びながら答える。
星理亜は上履きを脱ぎ、靴に履き替えながら、興味深そうに聞き続けた。
「お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「あー、僕、父子家庭でさ、父さんが海外単身赴任中なんだ」
紫銀は少し照れながら言った。
「え、それじゃ?」
星理亜の表情が少し驚きに変わる。
「現在、一人暮らし中なんだ。とはいっても、お隣さんが世依奈のところだから、食事だけだけど、助けてもらってるんだけどね」
紫銀は少し安心したように笑う。自分の生活の状況を話すことで、少し緊張が和らいだ。
「食事?その他は?」
星理亜がさらに尋ねる。
「できることはやってるよ。ま、そのおかげというか、休部を認めてもらったんだけどね」
紫銀は少し自嘲気味に笑った。
「そうなのですね」
星理亜は頷き、理解を示す。
「そ。それじゃーーー」
紫銀は帰る準備をし始めた。
「永木さん、お一人ならご一緒にしてもよろしいでしょうか?」
星理亜が少し緊張しながら尋ねる。彼女の目には期待が宿っている。
「ん。まー、いいけどさ、白羽さんの家ってどこ?」
紫銀は疑問を持ちながら答える。
「住所のことですよね?」
星理亜が生徒手帳のページをめくる。
「そうだね。僕は、市営だから、歩きだけど?」
紫銀が再度尋ねると、星理亜はページを見せた。
「えー、えーと。ここです。」
住所が書かれたページを指差す。
「えーと……あ、この管理番号だと隣の建屋になるのかな。ただ、同じ地区だね」
「そうだったみたいですね。引っ越してきたばかりなので、わかりませんでした」
星理亜は少し恥ずかしそうに微笑む。
「じゃ、帰りますか」
紫銀は荷物を整えながら言った。
「えぇ。ご一緒させていただきます。」
星理亜は嬉しそうに頷いた。
二人は並んで下駄箱を後にし、帰路についた。
写世は屋上からその二人ーー紫銀と星理亜が校門を出て行くのをじっと見下ろしていた。夕焼けが校舎の影を伸ばし、二人の姿を赤く照らしている。校庭を越えて街に消えゆく彼らの背中は、普通の学生同士のように見えるが、写世の冷淡な目つきはその裏に潜む何かを捉えていた。
写世はスマホを手に取り、番号を押すたびに指先がゆっくりと動いていた。画面に表示される連絡先は暗号化されており、その相手が普通の存在でないことを示していた。彼の目には、少しの緊張や戸惑いすら見えず、まるで当然のことのように電話をかける。
数回のコール音が夕暮れに響き、静かな風が写世の髪を揺らした。電話がつながると、彼は軽く肩をすくめ、慣れた調子で話し始めた。
「もっしー、もっしー、界渡真さん?」
その言葉は軽い口調だが、背景に潜む冷酷さがその響きに現れていた。電話の向こうからかすかな返答が返ってくると、写世はさらに冷たい表情を浮かべる。夕焼けが薄れていく中、彼の姿が影の中に溶け込んでいく。
「こっちなんやけど、ちょうどえぇ感じになってきた頃合いやから、動きたいんやけど、えぇ?」
彼の声には確信と余裕が滲んでおり、まるで全てを掌握しているかのような態度だった。風が夕焼けの中を吹き抜けるが、彼の目には一切の揺らぎがなかった。まるで、この状況を楽しんでいるかのような笑みを浮かべ、続けて言った。
「もちろん、こっちに来る前には話してた通りにするで」
その笑顔には、何か計算された冷笑が見え隠れしていた。界渡真からのさらなる返答を受け取った写世は、軽く頷くようにして続ける。
「ただな、あの時にハクホはんと話しとった奴ーーーえーと……そやそや。レイブンや」
言葉を区切るようにして、彼はその名前を口にした。まるでその名に隠された意味を噛みしめるかのように。
「レイブンの使い手は転校生はんだけやけど、なんか、ちゃうのもおるんやけど、どうやろうなって?」
彼の声には不確かさがなく、まるで確信を持って相手に確認を求めているような響きだった。夕焼けがさらに深まり、写世の影は屋上に長く伸びた。
界渡真からの短い返答に、写世は再び軽く肩をすくめた。彼の動きはあまりにも自然で、何事も計画通りに進んでいるように見える。
「了解。シラホはんに聞いてみるわ。ってか、界渡真はん、今、どこにおん?」
スマホ越しの返答が静かに響き、写世の表情に微かな笑みが広がった。
「まだ、1868年におんの」
写世はその返答を面白がるように、軽く笑った。夕闇が校舎を包み込む中、彼の笑い声が不気味に響き渡った。
「んで、シラホはんが言っといた巫女ちゃんじゃない方は、見つかったん?見つかったん!?なら、もう、こっちに戻れそうなん?」
風が再び強まり、彼の髪を揺らした。写世はその風に逆らうことなく、静かに立ち続けた。
「あやー。そりゃー、大変やな。まだ、契約できる状態じゃあらへんや。そりゃー、時間かかるわけやな」
電話を切った写世は、指先で軽くスマホを回しながら、暗くなり始めた空を見上げた。まだ紫に染まった薄闇が広がる空には、どこか不気味さが漂っていた。風が彼の頬をかすめ、耳元で小さく囁くような音を立てて過ぎ去っていく。そんな静寂の中、彼はゆっくりとスマホをポケットにしまい、次の動きに備えて一瞬、目を閉じた。
再びスマホを取り出し、別の番号をタップする。数回のコール音が響き、やがて応答があると、彼の口元がほんの少し歪んだ。
「もっしー、もっしー、シラホはん? あのな、ちょっと確認したいんやけど」
相手がシラホであると確認するや否や、写世は声を軽い調子に保ちながらも、内心で鋭い推察を進めていた。何か見落としていることはないか、状況の変化や不穏な動きを探るための会話だった。
「次元管理局の派遣員って、転校生はんの白羽星理亜はんやろ」
写世の問いに、電話の向こうから確かな返答が戻ってくる。
「えぇ。そうですね」
その確認を得て、写世は少し首をかしげながら続けた。
「やけど、なんかちゃうのもおる気がするんやけど、気の所為?」
写世の勘は鋭く、単なる違和感を超えて、何か大きなものを感じ取っていた。彼は、管理局の派遣員である白羽星理亜の背後に、もっと異なる存在が絡んでいるのではないかという不安を抱いていた。
シラホの返答には、少しの緊張が滲んでいたが、彼女は冷静に言葉を紡いだ。
「いいえ、写世君の気の所為ではなく、いますよ。次元管理局の軍事活動軍が主世界に潜伏しています」
その言葉を聞いた瞬間、写世の目がわずかに鋭さを増した。彼の予想を超えた展開に、脳裏で事態の深刻さが浮かび上がる。
「なんやって? 軍事活動軍が?ちぃー、まちぃ。確か、主世界への影響が大きすぎるから、ザインの爺さんが止めたんとちゃうのか?」
写世の疑問は鋭く、事態の裏を探ろうとしていた。シラホの冷静な声が続いた。
「えぇ。管理局の最高責任者が主世界に干渉する行為は止まりました。しかし、今、そちらの世界にいる軍事活動軍はヴェルト単独指示で動いています」
「そういや、ワイ、そのヴェルトってどんな奴か知らんわ。シラホはんは知っとん?」
シラホは少し考え込んでから、冷静に答えた。
「ヴェルトですか…。彼は管理局最高責任者の中で最も好戦的な趣向の持ち主です。戦いそのものを楽しむタイプで、常に戦闘を通じて力を試そうとしています。彼がいたからこそ、枝世界への武力介入が増えたとも言えます。ですが、今回のこの件では、今のところ彼自身が直接行動には出ていません」
写世は眉をひそめ、意外そうに問い返した。
「なんや、本人は動いてへんの?」
「えぇ、ですから、代わりに彼の管轄下で最も強力な軍事活動軍を動かしていますね。軍を使って状況を監視しているんです」
ハクホの説明を聞きながら、写世はその冷静な戦略に少し驚いた。好戦的なヴェルトが直接手を出さず、軍を使って監視している状況は、想像していたよりも厄介だと感じた。直接戦闘に巻き込まれないという意味では安心かもしれないが、軍が動くというだけで予断を許さないことは明白だった。
「それまでは安心、っちゅうことか?」と、写世は少し気を抜いたように聞き返した。
「いえ、あくまでも、名目上の話ですね。ヴェルト自身が手を出さないと言っても、軍が早期に動く可能性はゼロではありません。だからこそ、万が一に備えて、特殊能力を持つ写真を3枚渡しておいたのです」
写世はその言葉に応じるように、ポケットから慎重に3枚の写真を取り出した。淡い夕闇が辺りを包む中、写真の表面が微かに光を反射していた。その写真には、それぞれ異なる力を秘めた人物が写っており、いずれも戦局を変えるほどの能力を持っていることが示唆されていた。
「そんで…この3枚でどうにかなるっちゅうわけか?」と写世は少し冗談めかしながら問いかけたが、その言葉の裏には真剣さがにじみ出ていた。
「はい、一応、幾らヴェイト管轄最戦力を誇る軍事活動軍でも抑えることができますが、具現時間が短いのが問題ですね」
「問題って……」
「でも、その1枚の使うタイミングは、既に写世君と界渡真さんで調整済みでしょ?」
写世は笑いながらも、冗談を通り越して真剣に頷いた。
「ハクホはんに隠すことはできへんんなぁ。ま、ハクホはんが知ってる通り、この1枚は使うで」
「えぇ、お願いいたします。星理亜さんと紫銀が二人きりの時を狙ってくださいね。きっと軍事活動軍が関わってきますが、まとめて処理をお願いします」
「りぃーかい」