始紫伝7
昼休みは何事もなく終了。
5時間目も、これまた何事もなく終了。科目は、数学。
頭をフルに回転させ、パンク間際の世依奈を覗き見ながら心配する紫銀。世依奈のノートには、途中でぐちゃぐちゃになった解答が何度も書き直されており、必死に追いつこうとしている。彼女の視線は、問題に集中しすぎて、時折フラフラと揺れ動いている。
黒板の前でスラスラと考えることも止まることもなく、答えを書いていく星理亜。その姿はクラスメイトたちにとっても、すでに見慣れた光景となっていた。彼女の手元には、計算を正確にこなすための参考書が広がっている。
そして、本日の最後の授業、英語が始まる。教室には、少し疲れた雰囲気が漂っていた。
「無理。ダメ。やだ」
後ろの席に座る写世が駄々をこねている。英語の授業になるといつもこうだ。
「でもさ、これって必要だからやろ?」
紫銀は授業の準備をしながら、写世に向かって軽く言った。ノートを机に広げながら、ため息をつく。
写世は椅子にもたれかかりながら答えた。
「必要だってわかってるけど、無理なんは無理やし、ダメなもんはダメやん。なら、やらへんほうがえぇやん」と、完全にやる気をなくしている様子だ。
「んー。そうかなー」と紫銀は首をかしげながら、少し考え込んだ。
写世はため息をつき、
「そやろ。『I’m ustuse.』なんて、どこで言うねん」とぼやいた。
「そりゃー、どっかの会社に入社して、海外赴任とかになったときじゃないかな?」
紫銀は淡々と答えながら、自分のペンを手に取った。今、海外赴任中の父親が言っているかどうかはわからないけど、内心でそう思った。
「やけどさ、行かへんやつには不要やん」と写世は反論した。
彼の言い分には一理あるが、紫銀は納得できない。
「まぁーでもさ、あれじゃない?」
紫銀は振り返りながら写世の顔を見た。
「んや、委員長?」
写世が問いかける。紫銀が何を言いたいのか、彼にはまだ理解できていない。
紫銀は少し微笑んで、「でも、英語って世界中で使われてるから、学んでおいて損はないと思うよ?」と説明する。
「ま、マジでそうやな」
写世は少し納得したように頷いた。そう言われれば確かにその通りかもしれない。
「それにさーーー」
紫銀が話を続けようとしたその時、教室のドアが勢いよく開いた。
「よーし、お前ら。俺の授業を開始するぞ」と始業のチャイムと同時に袴田先生が教室に入ってきた。紫銀の言葉は遮られ、話の続きはうやむやになってしまう。
紫銀はため息をつきながら小声でつぶやいた。
「アレだし」
写世は頷いて、「あー……わかるわー」と共感するように答えた。
「うーし、やるぞ、お前ら!」
袴田が元気よく言う。教室は活気づき、彼の言葉に反応して生徒たちもそれぞれの席に身を乗り出す。だが、その元気さとは裏腹に、生徒たちの心にはどこか不安が漂っていた。
「あー、今日は、お、ここか」と付箋だらけの教科書を開きながら確認する袴田。
「今日は自分の日常生活について英語で話せるようになろうか」と言い、生徒たちは一斉に教科書を開く。薄暗い教室の中、みんなの目が教科書に集中する。周りの生徒たちも、彼の言葉に耳を傾けるが、その内容に期待よりも不安を感じている様子だ。
「あー、まずは、この単語だな」と袴田が言い、ホワイトボードに綺麗な文字で「get up」、「eat breakfast」、「go to school」の三つの単語を書く。
彼の文字は流れるように美しいが、果たしてその後の説明がどうなるか、皆の心は揺れていた。
「さて、これらの読みだが」と袴田が続ける。
生徒たちは不安な気持ちを抱えつつ心の準備をする。
「また、あの下手くそな読みが始まるのか」と思う者もいれば、「もしかしたら、今日は違うかも」と期待する者もいる。誰もがこれからの授業に対する期待と緊張を感じていた。
「これがーーー」
と袴田が先ほどホワイトボードに書いた3つの単語の中から『get up』を指す。
「ゲトゥアッ! 意味は『起きる』だ」と彼は言う。
生徒たちの心には、初めての授業の時に彼が言った言葉が蘇る。「読みは最悪だから、授業だから我慢しろよ、って教わったんだ」と思いながら、その下手くそな発音を聞くしかなかった。
「教科書にあるように、何時に起きたって時に使う単語だ。頻繁に使われるから覚えておけよ」と袴田。「んで、こっちが」と袴田が『eat breakfast』を指す。
「イートブレクファスト。朝食って意味だ」と続ける。彼の発音は濁りがあり、生徒たちは「え、なんて言った?」と首を傾げる。「しっかり発音してほしい…」と思う生徒も多い。彼は一生懸命さがあるが、その努力が伝わるのは書いた文字だけだった。
「最後がこれだ」と袴田『go to school』を指す。「ゴートゥースクー! 学校に行くって感じになるな」と言った。読みの下手さがさらに強調される瞬間だ。
「んで、これらを繋げた教科の例文だと」と袴田は教科書の例文を書き写す。彼の手元で教科書が開かれ、少しずつ言葉が積み上げられていく。
「アイ ゲット アップ アット エイト エーエム、バット シンス マイ ブレックファスト イズ ライス、アイ ドント イート イット アンド ゴー トゥ スクール ウィズ ア クロワッサン イン マイ マウス!」と袴田。彼の発音には明瞭さが欠け、言葉が噛み合わない。生徒たちは袴田の言葉を必死に理解しようとするが、聞き取れない部分が多く、まるで英語の授業を受けているのに、教科書の内容が別の言語のように感じられる。
「えーと、これを訳すると、『俺、朝8時に起きてるんだけど、朝ご飯は白飯だから、食べずにクロワッサンを咥えて学校行ってるんだぜ!』ってなるな」と袴田。生徒たちは袴田の訳を聞いて、一瞬の静寂の後、思わず笑いをこぼした。その中、写世が「なんで、クロワッサン?」と小声で紫銀につぶやいた。紫銀はその様子を見つめながら、「そんなこと、知らんし…」と小声で答えつつも、思わず口元が緩んでしまうのを感じた。
担任教師である袴田の英語授業の問題点。彼が書く文字は読みやすい。見やすい。ノートに写しやすいだけ。説明は最悪というか、簡単に説明するだけ。読みは最悪。「こんなんじゃ、身につかないよ」と感じる生徒も多いだろう。
そして、何より写世が英語が苦手であろうとも、授業がこうであるから別に問題はないようにも思える紫銀であった。