魔導書
本のセカイにのめり込み続ける幸詩郎の肩を軽く叩いて無理やり現実へと引き戻す。その小さな手の主は心のセカイに秘められたものを言葉にした。
「アナタに見て欲しいものがある」
そこからは言われた通りにしか動かせない指示待ちのよう。幸詩郎は目を由実の指へと、それが運ばれた方へと動いて行く。彼女の指の差した先、示された視界の道の向こうに置かれた一冊の本を目にしてただ思ったことを声に乗せて飛ばすだけ。
「立派な本だね」
魔法のセカイに身を置く者なのだろうか。由実は首を傾げた。もしもそうであるならば呑気を極めなければ出てこないような言葉を耳にして幸詩郎の万華鏡を思わせる右眼を見つめた。
「これが魔導書って分からないのね」
少しばかり固い声を耳にして幸詩郎は微笑みながら皮張りの本の表面をなぞる。
「もちろん分かってる。異様な魔力を放ってるからね」
果たして本当に分かっているものだろうか、疑いは深まるばかり、真相は霧の中へと紛れて溶け込むのみ。しかし幸詩郎の言葉を信じることしか出来ないようで由実は続きを声にして空気の中へと綴っていく。
「分かってるならいい。この本の凄いとこは」
由実の手が本に触れる。吸いつくように深く触れて、由実の濃い茶色の目は閉じられた。
そこから流れる沈黙の空気はわずか数秒の間この場の主演を務めていた。やがて開かれたのは瞳と本。開かれたページの中に書かれた文字に目を通して幸詩郎は目を丸くした。
「なんだよこれ、俺がさっき見てたページ」
そこに書き込まれていた文字はまさについ先ほどまで目を当てて心をねじ込んでいたあの物語のあのページ。
「驚いた、ふふっ」
由実は愉快な空気を纏って笑い、つい表情を笑顔色に染めてしまっていた。
「あ、かわいい……」
幸詩郎の口から零れ落ちてしまった本音は果たして少女も何を与えるものだろうか。由実は固い雰囲気を滲み出しつつも表情を無で塗り固める。そこには恥じらいや苛立ちが混ざり込んでいた。
「勝手に人の顔見ないで、今は魔導書見て」
「由実の言うことなら」
由実に肩を寄せながら魔導書へと目を移した。触れ合う肩、柔らかな感触に頬は熱を帯び、目は回る。ふらつくほどの情の揺れに惑わされていた。いつまでも惑わされていたかった。
「いったん閉じて、また開く」
続いて開かれたページには何が書き込まれているのだろうか。覗き込むと共に幸詩郎は妙な表情を浮かべていた。
「4月12日、今日の幸詩郎の晩御飯はハンバーグ、母が面倒くさいといってレンジでチンして出来上がりの簡単仕様で。文明に感謝しなきゃ……なんだこれ、今日の日付か」
由実は微笑んで幸詩郎の肩に頭を乗せて伝えた。
「今日の晩御飯、これは預言書。私の本は好きな本の特定のページを示す魔法の本」
耳元で地声っぽさを残して囁かれた言葉、耳に結び付けられた由実の声は心を奪い続けていた。
「で、今見せてるのが預言書。アナタのこれからの行動は筒抜け。今夜」
言葉はそこで切れた。肩に乗せられていた頭は素早く離れて由実は椅子から立ち上がった。
「なんでそんなこと、最悪」
声は歪み切り、空気は舌がしびれるほどの強烈な辛味に包まれた。
「え、ごめん」
「昨日に続いてって書いてる。サイアク」
責め立てる声は幸詩郎の行動に向けられたものなのだろうか、それとも心そのものにまで向けられたものだろうか、全くもって想像が付かなかった。
「そんなに綺麗な人が好きなら私とはバイバイだね」
「そんなつもりじゃ……」
由実の声はやがて震え、眉を顰めて目は伏せられる。
「そうだよね、やっぱりそういうのだよね、私とはいい友だち、遊び」
ひとりの妄想まで綴った預言書を恨みを向ける気も起こってはくれない。申し訳なさが幸詩郎に注がれ続けるだけで由実に言葉のひとつも掛けられない。
「そう……何も言わないんだ」
魔導書を手に取ってさっと立ち上がる。勢いは投げやりな気持ちの表れ、涙が頬を伝い、身まで震えていた。
「違、ごめん」
慌てて由実の肩に触れるものの、それは由実の勢いに勝つこともなく思い切り振り払われてしまった。
「触らないで、どうせ私なんて」
由実は動くことなく立ち尽くしているだけ。力が抜けて、その手から魔導書はするりと抜け落ちて床に落とされた。
「私を本当に愛してくれる人なんていない、アナタも利用してただけ」
開かれた魔導書には何も書かれていない。完全なる白紙で、綺麗な姿、由実の澄んだ声そのものだった。
「じゃあさ、私っている価値あると思う? 要らないよね」
「やめて、由実」
視線を由実に向けようとしたその時、まっさらで美しさを保っていた本のページにあぶり出されるように焼き付くように文字が浮かび上がり始めた。
「もう、バカみたい。一生利用されるだけの人生でしょ、やめてやる」
由実の言葉に呼応するように魔導書は文字を刻み円を創り上げる。輝きながら文字は由実の額を通り抜け、中へと入り込み。
きっとそこで渦巻きながら魔法という形を成して行くのだろう。
幸詩郎がアカシャの弓を取り出したその時、由実の目から感情は消え失せて代わりに左肩からは透き通る薄緑の立派な翼が生えていた。




