〈本〉
放課後の廊下、四月ともなればそこも未だに明るくて安心感を与えてくれる。ここのところ霊を瞳に捉えて存在を認めてしまうことが苦痛で仕方がなかった。様々な未練から終幕の苦しみ、そういったものを延々とつかまされてしまう。分かってしまうということは恐怖よりも悲しみが強く平常の感情をも打ち破り暗い想いが勝ってしまうこと。
昼間にも霊や妖怪の類いが出ないとは言い難いものの、明らかに闇に閉ざされた時間の内を動き回る。そういったモノが多くあった。
廊下を渡る途中に異様なモノが映り込む。廊下の壁に寄りかかる男、しかしながらその希薄な気配は存在さえ感じさせずただ目だけを動かし由実を追っていた。その男はこれまで見てきた苦しみの怪異とは別物のように思えた。怪しい姿は異なる陰を表情にしていたのだから。
その姿に対して幸詩郎は震えを、縮み上がる気持ちを抑え込むことすら叶わない。純粋な不審者の成れの果てはこの上なくおぞましい。普通の人生を歩んできた人物には理解など出来なくて平常心の蓋を煮えたぎり暴れ続ける恐怖の上に被せることが出来ない。
見つめずにはいられない。恐怖の対象に注目せずにはいられない。驚異なる脅威は何を仕掛けてこようというものか、警戒の網を編み、張り巡らせずにはいられなかった。
震える身体と強張る表情、それを見て取った由実は幸詩郎の顔をふっくらとした両手で挟んでそのまま由実の方へと向けた。
「私だけ見て」
「いやでもそういうわけには」
「他のヒトなんか見ないで」
言葉は情は幸詩郎に気付きを与えた。きっと由実にも見えているのだろう。幸詩郎が想いを聴くことが出来た人物なのだから魔法のセカイに身を置くに相応しい魂の持ち主なのだろう。考え続けて煮詰め続ける。深めれば深めただけ納得の色が濃くなっていく。由実に対する想いもまた深くなっていく。心は底なしの海のよう。どれだけ暗く見通すことの出来ない深さになってもその深淵の闇色は美しいままだった。
「分かった。由実だけ見てるよ」
歩き続け、図書館へと足を運ぶ。その道のりの中で由実は更に言葉を重ねて想いの塔を築いていった。
「私のこと、もっと見て欲しい。だから、私の好きな本読んで欲しい」
「もちろん」
そこに断る理由も乗らない理由も見当たらない。しっかりと隣り合い歩いてたどり着いて。
開かれたドアの向こうは静寂の迫力に充たされていた。
背の高い本棚に収まった様々な紙の束。それらひとつひとつに異なる情報が、様々な物語が、ただひとつの情緒が書き留められ閉じ込められている。まさに世界の縮図の断片だった。
知識や感情、人々の人生の一端をも収める図書室の中へと飲み込まれ、幸詩郎は由実が取り出した本を受け取った。
「これ。面白いよ、アナタに理解できるなら」
それは海外のミステリー小説を翻訳したもの。きっとタイトルくらいなら多くの人々が知っていることだろう。幸詩郎もまた例外ではなかった。
「有名だけど確かに読んだことないな」
「こういう時って恋愛小説をオススメするべきなんだろうけど、私苦手で」
嫉妬や退屈さで充たされ虚しさが蔓延るのだという。確かにそれでは愉しむことも出来ないのかも知れない。
幸詩郎は小さな手が差し出した、由実によって差し出された本に目を向ける。様々な人生の先輩方が映画やドラマにするほどの作品。意外にも読まない人も多いこと。有名だからこそ内容にまで目を通したか否かといった話にまで漕ぎ着けるのだろう。
幸詩郎は静寂の中最も大きな音を立てて椅子に腰かけ本を開く。出迎えた文字によって書き綴られた物語を追って幸詩郎は意外なことに気が付いた。
――話題になるドラマとかみたいなの想像してたけど、思ったよりキャラ濃いぞ
個性に溢れた探偵は何を考えているのか判らせない。突飛な行動や様々な思考は言葉に変えて流してみせるものの、更に奥に何かを秘めているような。そんな魅力の淵を指先でなぞっているような感覚に落ちていた。
幸詩郎が小説のセカイに夢中に、現を忘れ切っている内に由実は鞄を開いて手で何かを探り始めていた。ビニールコーティングが施されていてつるつるとした感触をもたらす教科書、画用紙を思わせる表紙に薄くて手慣れた感触のノートに小さくて厚めの文庫本。
カーテンが閉じられて明かり任せに照らされたこの教室は鞄の中まで容易く見通すことが出来るはず。しかしながら由実は椅子に座ったまま床に置いたままの鞄に手を伸ばしているためか、目線はそこへ向けられていない。視界はそこを映してなどいない。
弁当を包む布の荒い感触に鉄の筒のカタチ、水筒のものだろう。
更に探り奥に奥へ奥の方、進むことでようやく捉えた感触。目的の物をようやく捕らえたそう。柔らかで小さな手が挟んだ感触は独特のザラザラ感を主張していた。分厚くて弓の指では挟むことで精いっぱい。片手で弄ぶことも出来ないそれは皮張りの重厚感を指先に微かに訴えていた。感触としては心地よさからは程遠い、そんな初対面の手触りは何処へ行ってしまったのだろうか。今となっては触れるだけで落ち着きをもたらしていた。
中世の技術のように思えるそれは、由実が手にしている〈本〉は明るみに晒された。
小さくて可愛らしい指で開いてはどの頁にも文字が刻まれていないことを確認し、由実は微笑んだ。




