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〈分散〉の雷  作者: 焼魚圭
知識に囲まれた想いの隠恋慕
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教えて

 早く会いたい、早く今日の、今の君と顔を合わせたい。由実に会いたい。そうした一心を一身に絡み付けて焼き付けて、授業をひとつひとつ乗り越える。黒板の上に掛けられた時計の中で回り続ける針はたったの二本。時の流れ、人々が駆けた一秒まで示すことはしない。その一分はどれだけの長さだっただろう。五分があまりにも長く感じられる。心臓の鼓動が秒針だとすれば分針はあまりにも後れを取りすぎていて、来ない自由の時、追いついて来ない時計の針にもどかしさを感じ続けていた。

 早く来て、速く行きたい。これからの時間が恋しい、これからの関りが恋しい。

 由実の想いを掴む前に自身が想いを掴まれていた。


 やがて長い時を経て、ようやく迎えたこの時。机の固い感触も誇らしげに大きくなっていく埃の匂いも、ひたすら叩きつけられるこの感覚たちの全てに飽き飽きしつつも由実に会いたいという欲にだけは飽きずにいられた。

 勢いに任せて鞄に手を突っ込みパンを取り出して想いに任せて教室を飛び出して、すぐ隣の教室に向かっているとは思えないほどの威勢で異性の方へと向かう。

 ドアを開いたそこに、目の中に映った少女は窓から差し込む光に照らされてどこまでも輝いて見えた。

「アナタ来たんだ。ほら、そこの席勝手に使って」

 味気ない心の動き、他の人が同じ反応をしたのならそう思ってしまうだろう。しかし由実の態度、ただそれだけの確認で落ち着いていて可愛らしいもののように思えた。

 椅子に腰かけて机に身を預けて小さくまとまっているように見える由実の姿は愛らしさを漂わせていて、幸詩郎には『歩く辞書』などと呼んで知識の引き出しとして利用するだけの人々の気持ちなど理解できなかった。

 そんなことを考えながら由実を見つめていることわずか一秒。その一秒さえもが長くありながらも幸詩郎には短くて物足りなく感じられていた。

「何、私の顔そんなに変」

 訊ねられた言葉が由実の心理の真理なのだろうか、冷え切った目は色を感じさせない。

「な、なんだろ。由実のこと見てるだけで温かくて」

「こんなので満足できるなんて幸せ者」

 落ち着いた声の底に微かな揺れが、ぬるくて軽やかな弾みが見えた。柔らかで丸々とした頬に仄かな温もりを聴いた。きっと由実も何かを想いそれを隠している。素直に顔に出すことの出来ない想いのあり方はまるでかくれんぼ。

「じゃあ俺は幸せ者だね、由実」

「……ばか」

 小さな呟きは幸詩郎の耳にもしっかりと届いていた。ふたりの間に流れる甘い空気は薄っすらとピンクに色付いて柔らかに結び付けられるリボンの蝶。由実の目に感情は宿っていなかったものの幸詩郎から目を離すことが出来ないようでいつまでも見つめ合っていた。

「アナタってよく表情変わる。険しい表情はムリそうだけど」

 幸詩郎は目を丸くした。まさに由実の目が捉えた想像の通りで柔らかな表情だけが豊か。落ち込んだ貌の味は伝わってもどこか柔らかだと言われることさえあった。

「そういう由実は基本無表情だよね」

「表情変えたら子どもっぽいから」

 ぶっきらぼうに答える彼女、やはり本音は顔の蓋の内に隠れているようで。

 青春の掠れた甘みに充ちたふたりの時間、そこに割って入るものなどいるだろうか。それは突然訪れた。

「なあ、歩く辞書さんよお、この問題教えてくれね」

 訪ね訊ね。目の前の男は髪を茶色に染めていて耳には太い銀色の輪が飾られていた。きっとふたりがどのような話をしていても彼の態度に容赦という選択肢は現われないだろう。

 示されたノートに綴られた記号の数々。それを解き明かすには幸詩郎の頭でも十分と言えた。

「この程度の問題も解けないのかよ、邪魔しに来ないで欲しいんだけど」

「ああ、クソが。ヒトさまが困ってるなら手を差し伸べるのが当たり前だろ、常識も知らねえのかよ」

 常識とは何だろう。幸詩郎はその意味について迷いを覚えていた。この迷いの霧は決して晴れることはないだろう。目の前の男の常識とは自分に都合のいいこと、相手の気持ちなど考えるつもりもないのだから。

「つかお前よくもそんなきったねえブスな上にデブなやつとメシ食えるな。あれか。勉強に利用して上京でもするの」

 途端に言葉は止められた。手は伸ばされて軽い心で薄っぺらな言葉を吐き続ける男の口をつかみ、柔らかな瞳で懸命に睨み付けていた。

「由実のこと悪く言うなよ、由実がいなきゃ何も分からないくせに、頼りっきりなくせに」

 誰が何を話していようとも関係ない、そう言った様子で由実はノートを突き返した。

「解き方も書いたから。早くあっち行って」

「相変わらず不愛想だな。また利用させてもらうぜ」

 男はすぐさま立ち去って、ふたりの空間から消えて行く。

 ここから更に幾人かの生徒が由実に訊ねて来ることはあったものの、呼び名は歩く辞書かそもそも名を呼ばないか。誰ひとりとして由実の名前を呼ぶ人などいなかった。

「なんていうか、酷いな」

「別にいい。もう慣れた」

 言葉の裏に微かな棘を感じたのは気のせいだろうか、隠すことも出来ずにカタチを持って貌に滲み出た苦みは気のせいだろうか。


 幸詩郎にはとてもそうだとは思えなかった。

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