歩く辞書
朝は未だに寒さを残していた。三月の朝の空は暗闇に包まれたまま迎えていた。きっとまだしばらくは登校時に由実の顔を見つめることすら叶わないだろう。今はどのような景色よりも由実の顔を、様々な貌を目にしていたい。どこまでもこの甘くて薄味の想いに心地よく浸かっていたい、心行くままに溺れていたい。そんな儚い欲を叶えることも出来ずに打ち震えていた。隣を一緒に歩いているにもかかわらず、見えないだけで遠く感じられた。
交わし合う会話。か細くて落ち着いた声はすぐ近くにいるのだと実感を沸かせ、より一層もどかしさを醸し出していた。
「私、男の子とちゃんと話すこと初めて、辞書扱いは別だけど」
少し声が固いだろうか、顔が見えない分を埋め合わせるように声がよく視えた。
「そっか、俺も女の子と話すの初めてなんだよ。助けることは別としてね」
「ふうん、残念だったね不運だったね、こんなのが初めての会話相手で。それとも利用しようとでも思ったのかな」
幸詩郎の心をいつまでも引き摺ってどこまでも個性的な心の跡形を刻む声からでた棘のある言葉に表情は思わず歪められた。どうして由実のこの言葉がここまで痛いのだろう、大事なものを削られるような気分を刻み込まれて傷だらけの心は歪な芸術作品を思わせる有り様だった。
息を吸って、大きく吸って、微かに吐いて、全て吐いて、再び大きく吸って。冷静でいられない心、迷う感情の中に幸詩郎なりの真実を見いだして、息と共に感情を吐いた。
「そんなこと言うのやめてくれよ。由実はもっと自分に自信持っていいんだよ。本に書かれたこととか心無い言葉とか、本当のことはそれだけじゃないんだから」
隣を歩く少女は足を止める。暗闇越しでも伝わる気配、それは風を通して頬を撫でた。
「ごめん、言い過ぎた」
声は震えていた。あまりにも弱々しくて聞こえるか聞こえないかといった会話の中で致命的な境界線を彷徨いながらどうにか幸詩郎の耳にも届く。
「ほら、落ち着いて。俺は由実が力抜いて生きてくれればうれしいから」
「落ち着けないのはアナタのせいだけど」
幸詩郎は由実の手を握って再び歩き出した。柔らかで冷たい手はどうしてここまでしっかりとした感触と温もりを与えてくれるのだろう。一方で由実がどう思っているのかまるで分らない。この景色を包み込む暗闇の澱がもどかしくて仕方がなかった。
そうして美しい朝を過ごしながら学校にたどり着いた。由実の教室は幸詩郎が割り振られた教室のふたつ隣。すぐ近くの同級生だと知って心は勝手に盛り上がっていた、止めることなど叶わなかった。心の動きに頭は敵わなかった。
由実は朧げな微笑みを浮かべながら手を振って幸詩郎を見送る。
「じゃあね、また放課後」
「それは出来ないね」
「何言ってるのアナタ」
首を傾げる由実だったものの、幸詩郎はお日様の明るさに充ちた笑みを返すだけ。言葉の中に隠した意味が暴かれてしまってはきっと由実の笑顔は曇ってしまうだろうから。彼女はきっと昼休みに教室まで来てほしくはないだろうから。
幸詩郎は教室の中でいつまでも落ち着きを持つことが出来ずに心が暴れていた、由実の顔が見たくてうずうずしていた。このまま放課後まで待つことなど到底できないだろう。
そこまで味わうことでようやく気が付いた。遅すぎる自覚に思わず自身を責め立ててしまうところだった。
幸詩郎は、由実に対して温かで柔らかな恋心を抱いているようだった。
この恋がようやく明けてきた空に見透かされてしまわないよう、透き通って空気を通ってしまわないように隠し続ける。今日の昼休み、きっと周りも知ることになる。しかしそれでも今は誰にも気づかせないようにどうにか心からはみ出してしまわないように不可能な収納をいつまでも試み続けていた。
授業にも集中できずに教師よりの出題に正答を示すことが出来なくて正当な態度で学問と向き合えていないことが暴かれてしまった。今日の体育の授業では野球をやっていた。飛んできた球、それも普通にとることが出来てしまう程の速さ、それがすぐ隣に落ちても尚動かない。クラスメイトたちの叫びに叩かれて、重々しい圧がのしかかってくる。潰されかけることでようやく幸詩郎は現実に視点を戻すことができた。
心此処ニ在ラズ。
移ろう心は何処に映っているのか。何を覗いても何に触れても何が香っても、心にはあの少女がいた。いつでもどこでも幸詩郎の心に由実の色を塗り付けては現実をも染め上げ続ける。あの微笑みを思い返さずにはいられなかった。歩く辞書、そう呼ばれる少女にこの症状の治し方を訊ねたくて仕方がなかった。
幸詩郎の心にいつでも居座る由実に惑わされて集中どころではなくなって。
――どうすればキミのことしか想えないじゃなくてキミがいるから頑張れるって言葉に変えられるんだろう
幸詩郎の悩みは出口が見えない鮮やかなトンネル。心の迷宮は何処までも複雑で出口は何処にもないようにさえ思えて。
昼休みを待つ、ただそれだけのことが、四つの授業を乗り越えることがここまで苦しいことなど初めてのことだった。




