図書館
それは光を追ってここまで来た男の話。幸詩郎は確かに光を追っていた。いつまでもボロボロのまま放置された校舎の中、微かな力で辺りを舞いつつ澱んだ空気をいつまでも溜め込んだ廊下を見つめる。あまりの風通しの悪さに悪い空気はいつまでも気分に訴え悪さを続けてしまう。
学校全体に薄っすらと広がる澱み、それはもしかすると人が大人となるためにまき散らして来たものなのかも知れない。
いかに空気や雰囲気が濁っていたとしても、窓から堂々と差し込む心地よい日差しは知らぬ顔をして辺りを希望のように輝かしい身体と心で照らし続ける。そんな光たちはガラスの窓の枠を担うアルミによって所々遮られていて、それが余計に輝きを強く思わせる。
幸詩郎は歩き続ける。身体を焼く眩しさと心まで包み込む柔らかな光に惹かれて、手を引かれていた。
――とっても気持ちのいい天気だよ
端目に図書室を映し、何事もなく足を進めようとしていた。いつも通りであればこのまま過ぎて行って決してあの大量に収められることで作り上げられた本の壁を目の当たりにすることなどなかっただろう。
図書室のドアを視界の向こうへと流してしまおう、そうしようと進める足だったものの、これ以上進むことなく止められてしまう。
幸詩郎の歩みの中、足音に紛れて声が聞こえたのだった。誰かを呼ぶような細くて寂しい孤独の声が足音に絡み付いて足にまで巻き付いて。
幸詩郎はその想いに触れてしまった。寂しそうで悲しそうな声、他の人に利用されるだけだと弱々しく嘆く声は聞き苦しさを極めていた。
まさに導かれるように、自然と引っ張られるように、気が付けばドアに手を掛けていた。
入った先に広がる光景は本来彼には無縁な世界。積まれた書類や棚に綺麗に収められた本はどこか堅苦しさを演じているようだった。薄暗い部屋は静けさという衣を纏っていて、何処までも異質な空気をしていた。あの日差しにすら負けずに匂い続ける澱んだ雰囲気、それがこのドア一枚を隔てることで一切入って来ないというモノだからあまりにも不思議に感じられた。
この部屋の中に納まっているのは本だけではなかった。本の香りに混ざって人が、異物のようにも思える柔らかな肉感がそこに留まっていた。座っているのは丸々とした柔らかそうな少女。表情は痛んでいて、ヒトというものに疲れ切っているようだった。
少女は気配に気が付いたのだろうか、ゆっくりと顔を幸詩郎の方へと向ける。丸みを帯びた顔。ぽっちゃりとしたその姿は儚い安心感をも蓄えているようだった。やがて少女は幸詩郎が聞いた通りのか細い声で、図書室の静けさを壊さない音で、幸詩郎に訊ねた。
「どうしたの。アナタも私を利用しに来たの」
言葉を噛んで出て来る味わいは苦みと辛味で出来ていた。その態度は初めから誰にも期待など求めていないよう。
「声が聞こえたんだ。誰かを呼んでるように聞こえる声が」
「あっそ。だったら私じゃないね。私はもう誰にも期待なんてしてないから」
その態度に対して最悪という評価を付けざるを得なかった。初めから全てを突き放すような姿勢は人々の心にまで波紋を広げて決して良いとは言えない影響を与えて来るものだった。少女は口から滲み出る言葉のインクを彼の心に塗り付ける。会話という行動でこうした関係を綴っていく。
「どうせアナタも私に訊きたいことがあるだけでしょ。この『歩く辞書』に」
歩く辞書、それはどのようなものなのだろうか。博識とでも言うのだろうか。疑問は渦巻いて止まらない。
「その顔、もしかして知らないの。生き字引、それの英訳がそうなんだけど」
首を横に振るほかなかった。幸詩郎はただこの少女の寂しさの破片に触れてここまで来てしまっただけに過ぎない。うわさ話も英語も知らないといって差支えのないひとつのちっぽけな頭脳に過ぎないのだから。
「無知な人」
か細い声は優しそうでありながらも落ち着きを持っていた。元々の声だけでなく、図書室のような静かな部屋に生きているが為に創り上げられた彼女の人生の色彩なのだろう。
一方で言葉には棘があった。激しさに溢れ切っていた。この少女をこのような姿に仕立て上げてしまったのは周りの人々による扱いだろうか。
「どうせ私利用されるだけ。問題の解き方や言葉の意味に物調べ。私の人生は周りの都合で勝手に開かれて使い捨てられる辞書」
幸詩郎は寂しさの正体を知ってしまった。きっと彼女は家の外では誰にも好かれていないのだろう。
それはあまりにも悲しすぎる、想いは無理やり胸の内にせき止められて求められることだけを行なう人生。そこには情の欠片も与えられない。
「利用だけだなんてあんまりだよな、この際使用料取る手もあるよ。一回訊いたら五百円、ワンコインだよ安いだろ。払いたくないなら自分で調べてねってね」
「ふふ、腹痛い話。みんな頭抱えるかもね」
少女の表情の端に自然な緩みを見て取って、幸詩郎はようやく安心をつかみ取る。それと同時に新しく欲望が生まれてしまった。
「ねえ、名前なんて言うのかな。俺は八女 幸詩郎」
「三芳 由実。はい、五百円ちょうだい」
「いや、待てよ」
由実のことがもっと知りたい、由実とともに笑っていたい、そう思わされていた。自分の心にも由実の隠された魅力にも、想いのままに惑わされていた。
そこから会話は多くはなかったものの、傍にいて時間はしっかりと溶けていく。気が付けば時は黒々とした墨のような闇を辺りに溶かし始めていた。放課後のひと時の末にふたりは帰ろうと立ち上がる。別れの時間。これまでの心地よさの余韻に浸りながらもやってきた完全下校時刻に幸詩郎の表情は寂しさに溢れていた。由実は顔を逸らしながら迸る温もり、あまりにも熱すぎる優しさにのぼせ上りながら幸詩郎に別れの挨拶を捧げた、本心から出た言葉を端に添えて。
「さよなら、もしよかったら……明日も来て」
「もちろん」
その約束はあまりにも優しすぎた。初めて与えられた優しさに触れて、由実はぬくもった手をそっと胸に当てて笑顔の実を心の籠からこぼしていた。




