叶え
景色は光となって、素早く流れゆく像となって目にも止まらない速さで流れて幸詩郎の背後へと流れる。残像は尾を引いて遅れて流れて。過ぎ去る景色が運び損ねた香りを溜めながら、すぐに抜けて行く残り香を見つめながら、古びた木に積もった埃っぽい香りに見舞われながら、生徒の喧騒を耳にする。
そうした行動、教室まで駆けるだけのことの中で幸詩郎は名前の無い在籍者のことを思い出していた。
忘れない、忘れられない。
魔法の世に足を踏み入れる前とは一転して記憶に残ってしまう。
あの男は、黄金の髪のすぐ下の灰色の瞳。ガラス球を思わせるそこから感情のひとつたりとも見て取らせない。まさに灰色のビー玉がそのまま収められているような心地で幸詩郎の背に強い寒気が走っていた、今の世界の流れる速度と同じくらいの激しさで駆け巡っていた。
「あの目に感情なんて宿ってなかったよな」
あまりにも不自然で、首を傾げていた。疑問は心をも傾かせて、幸詩郎の中は疑問でいっぱいで今にも溢れ出てしまいそう。肩まで浸かる不気味な感情に苛まれていた。
あの男は感情を隠している風でもなく、だからと言って無表情が常なだけの変わり者とも様子が異なっていた。ただ単純に感情を宿していなかった。
幸詩郎は何事もなく教室のドアを開き、特に何事もなかったかのように振る舞いホームルームの遅刻に頭を下げながら席に着き、特に何も変化の見られない、変わり映えが一切しないスクールライフを今日も終えた。
☆
夜闇の中を進む。侵入が容易くないと言われている学校に音のひとつも上げることなく淡々と忍び込んでいた。
その様はまさにあの名前すらない男の灰色の瞳のよう。感情の入り込む余地など何ひとつなかった。
美術科へと続く廊下を渡りながら窓の向こうに透けて見えるグラウンドを端目に歩き続ける。そこにいる存在は夜という環境の中に溶け込みおぞましさを増していた。
――菜穂さん、今から助けるから
廊下を渡り終えて美術科の生徒がコンクールに出した歴代の作品の保管室を開き、見渡して。そこには様々な絵画や彫刻が堂々と佇んでいて、そのおどろおどろしい雰囲気が不気味な空気を少々彩っていた。そこから小さなアカシアを手に取って保管室を抜けた。またしても見えもしない道を進み、教室のドアを開く。名前の無い在籍者は今頃菜穂を見張っているのだろうか。様子が分からない、見てもその距離と闇に隠し通されてしまっていて何処に居るのかそれさえつかむことが出来ない。
教室の中、あの儀式は孤独という寂しさを纏いながら執り行なわれた。
いつの日かの優秀作の小さなアカシアを机に置いた。月明かりや見当外れな街灯の光が射し込みその全貌を暴いてみせていた。
幸詩郎はミモザの花を着飾った姿はおろか、アカシアの木などひと目にもその目に映した覚えなどなかったものの、その姿のあまりにも精巧な様はまさにアカシアだと思わされていた。知らぬ者に訴えかける強力な説得力はひとつの作品どころかひとつの知識としても成功していた。
そうしたアカシアの木を見つめながら遠ざかり、しゃがみ込んで見上げる。
一礼をして鞄から油粘土を取り出し、板状に伸ばして行く。続けて幸詩郎は願いを刻み始めた。
菜穂を元の姿に戻してほしい
どうして一度きりの願いを見知らぬ他人の為に使っているのだろう。そうした疑問は幸詩郎の中に虚しさを産み落としたものの、構うことなく続けた。むしろ他人のためだからこそその虚しさを、人として当然の情を抱くことが出来て幸詩郎は自身が聖人になど成れないのだと悟って行った。成人には全てを抑え込み子を育て上げる印象があり、それが人の心で行なわれているのだと改めて確認していた。
――父さん、また会いたかったけど、それは人生の後まで取っておくから、向こうで待ってて
幸詩郎の腕は交差され、粘土の板を胸に当てて抱き締められる。何とも言えない心地を胸に染み込ませながらそこに書きこんでいた願い、それを幾度となく心で呟き唱え染み込ませ、やがて口にし始めた。
「菜穂さんを元の姿に戻してください。菜穂さんを元の姿に戻してください。菜穂さんを元の姿に戻してください」
心で言葉で折り返し繰り返し声無しに声混じりに唱え続けられたその願いはやがて加速して行って。アカシアに向けられた願いは反射して幸詩郎を伝って願い一色、この世で最も純粋な環となる。
最後の段階を踏むべく幸詩郎は願いの念をアカシアに向け続けながら、カメラを取り出す。果たしてデジタルカメラでも良いものだろうか、どれほど古い時代なのか想像も付かせなかったものの、もしかするとインスタントカメラという美術科らしいすぐに形にする活動こそが大事なのだとしたら、同時に出てくる写真の方が大切なのだとしたら、それひとつで全てが水の泡となってしまうかも知れない。
そうした思考が渦巻く中、それでも幸詩郎の指は景色を映像として切り取るあのボタンに触れ、そのまま力を入れて押し込んだ。




