支離滅裂
ある冬のある日、グラウンドには人の知能では理解に苦しむ生き物が居座っていた。
ドブよりも濃く深く、苔のようにも見える、とにかく不快感を呼び起こすには絶好の緑、右眼と口は重なり合っていて鼻はあるにはあるものの、どこにあるのか理解すら出来ない。
左腕は背中から生えていて右脚はわき腹からすらりと伸びていた。身体の各部位その全て、何もかもが間違えた位置にあるにもかかわらずこれで正しい。身体は捻じれているにもかかわらず真っ直ぐであり、まさに支離滅裂を体現した常人の理解では決して追いつけないものだった。
――なんだよ、これ
周囲が放った言葉をそのまま心で繰り返す。その少年、八女 幸詩郎はかつてクラスメイトが、先輩が手を伸ばすことによって解決したあの出来事を記憶のレコードテープに変えて脳の影にて再上映する。
学校の亀裂から伸びた手、それは既に帰らぬ人となった父が帰ることも出来ずに挟まった姿。それを知ったのは学校の生徒に過ぎないふたりが幸詩郎に手を差し伸べてくれたからこそ。差し伸べてくれた手を取り進み、亀裂の先の手へと手を伸ばす。そこに流れる冷気は何処までも温かくてまさに心の温度。
ふと目を現世に移した幸詩郎は視界いっぱいに広がる支離滅裂のバケモノに手を伸ばしていた。
「きっと、なにか困ってるんだろ」
これまで異形の存在をこの視界で認めることの無かった彼だったものの、亀裂から生えた父の手を見て以来、世界を見通す視界が変わってしまったようだった。夜闇には透き通る布を纏い透き通る身体を持つ何者かを度々目撃するようになっていた。闇に透ける彼らは心の底をさらりと撫でるような恐怖を植え付けて来るものの、大抵は恨みの積み重ねの未練か開き直ったオトナなイタズラ坊や、といった様だった。
目の前の支離滅裂のバケモノから感じ取ることの出来るものなどそう言ったモノと比べれば優しくありながらも恨みに溢れていて、この世を恨みつつ羨む色彩。強くありながらも弱々しく、筋の通らない思考が危険なことは間違いないものの、それ以上に魂の芯から敵意を感じられなかった。心の芯はきっと悪人ではない、自分勝手な心を持った女の過去が見えるものの、きっと悪ではない。
「おや、貴方が御近づきになられるとは」
聞き覚えの残滓が声の持ち主の正体を必死に探る。振り向いてその姿を確認する。見覚えがあるはずなのに、それが誰なのか、見当もつかなかった。ここまで来て分からなければ気になって仕方ない。正体を探ることへの健闘を検討するものの、知っているはずのものへの探りは健闘までたどり着くことが出来ない。
「ああ、そうだった。我が名は無い、貴様らがよく口にする『名前の無い在籍者』そのものである」
ひっくり返ってしまいそうになった。不明の前に更なる不明が立ちはだかっていた。
「そのまま触れるがいい、それからどう動くか、それを決めるのは視てからでいい」
幸詩郎は言われるがままに触れていた。抗う気のひとつも起こせない心、どうしてしまったのだろう。やがて苔かドブを思わせる身体に触れて眼を閉じる、そうしてしまったのだ。
目の前のバケモノが見てきたもの聞いて来たもの香っていたもの味わい続けていた事、その全てをその手でつかんでいた。
先輩、どうして私のこと分かってくれないの
ねえどうしてそこの気持ち悪いガキは先輩と一緒にいるの消えてよ
いやだ、あんなのに倒されるなんて、どうして私に殺されてくれないの
もう何もかもどうでもいい、このチカラで全て叩き切る
誰が死のうと関係ない、私だけが生きてれば問題ない
ああもういやだこんな姿、私の最大の屈辱
引き摺って、どこに、それ、ヒトの魔力だけでいいから食べさせて、お腹空いた
私を放ってどこ行くの、歩けないけど歩いて、学校に行こう、このままお墓で過ごすのは御免
これまでどのような人生を歩んできたのだろう。幸詩郎は想う。想いが言葉になってポツリと零れ落ちた。
「なんて、人。自分のことしか、自分の為しか知らないんだ」
「そうだ、そういう人間なのだから」
名前すら持たない声によって言葉が捧げられた。そう、あまりにも自分勝手で何をしようにも自分が中心。命すらも軽く見てしまうオンナ。
それでも幸詩郎の中にある感情が湧いていた。いくら人として間違えた選択を続けていたとしてもこの仕打ちはあまりにも酷いもののように感じられた。
しばらく、支離滅裂のバケモノと睨めっこしていた。空の貌は変わることもなく、雲はのんびりと流れるだけ。これから授業が始まってしまう。心の中で唱えたところで目の前の人を捉える目を逸らすことが出来ない。
――ええと、アナタの名前は
心の中で静かに投げられた問い。声にも出さずに伝わるものなのだろうか。そこから一拍の沈黙が空気の味を変え、目の前の女は右眼と重なり合った口を開き、ひび割れた声でただひと言、名前だけを告げた。
菜穂、幸詩郎が後輩の名を知った瞬間、それが彼にとって魔法のセカイの扉が突風を纏いながら勢い任せに開かれた瞬間だった。




