回収
倒れた怜を見つめる怜。一見異常な状態にも見えてしまうもののごくごく普通、常識からすればおかしなことでも非日常が常の世界からすればありきたり。この程度の状況はありふれていた。
「さてどうすっかな、一般人が来たら……双子とかいってごまかすか」
もはや初めから嘘一色の選択肢。怜の頭の中に真実を告げるというものは存在しなかった。きっと医師に頭を診てもらうよう勧められるだろう。相手に状況を見ろと叫ぶ羽目になるだろう。
頭を搔きながら脳に思考を書き、連ねていく。これからどうするべきか、放っておいてしまえば相手はきっと再び襲って来るだろう。いかに厨二病と呼ばれる者でも流石に何度も同じ戦いを繰り返すことを、無用な痛みを欲しながら与えるほどの酔狂ではなかった。
迷い続けている内に長い影が怜の側へ足元へと迫って来た。
――マズい、来やがった
慌てて怜を背負うべく手を伸ばしてはみるものの既にその手は遅れていた。目の前に訪れたのはスーツ姿の女だった。全身が黒できっちりと崩れのひとつも無しに着こなしていて少しの固さと大きな格好よさを感じさせた。大きく膨らんだ胸の形を隠しきれていないそこ、胸ポケットには万年筆が挿し込まれていた。
「どうしたことか、私の胸に注目するなんて。既婚者のおばさんにね」
声は低く落ち着きがありつつもどことなく若々しさを残していた。そんな魅惑に充ちた声を拾い上げた耳は熱を帯びる。怜の顔じゅうが熱くなって行った。
「もじもじしてる? やはり胸見てたのねエッチ」
仕草から見た目から顔と声、全てに於いて怜はその女を知っていた。
「ペン挿すなよ、戦闘用の道具と思って身構えちまっただろ」
「ええ、戦闘用よ。胸ポケットのついたスーツ、探すのに手間取ったのだから」
余裕の笑みを浮かべる女、そこに年齢の影はあまり感じさせないものの、ほんのりと目立つほうれい線が歳を隠しきれていなかった。
「真昼さんなら任せて問題ないな」
「ええ、風が酷かったもので絶対怜くんだって思って走って来ちゃった。ファンだもの」
口を開いて目は閉じて。確実に冗談の一環なのだと怜は気が付いていた。真昼はこの辺りの地域の魔法使いの中では有名人。彼女にケンカを売って何事もなく帰って来れた者など数えるほど。割合にするとそれなりに多くなってしまうものの、そもそも真昼の実力を恐れて機嫌を窺う人物が多いという情けない実態由来のもので怜は完全に呆れ果てていた。
「満明は元気か、いや訊くまでもないか」
真昼の言葉によればもうひとつの戦場へと駆け付けているのだそう。きっとドッペルゲンガーに困らされている人物は怜だけではないのだろう。ただの特別などではない。少し普通から外れた平凡、それが怜が身を置いているセカイだった。
真昼は地に伏している、意識を失った怜を拾い上げ、肩の上にて干すように掛けて語る。
「最近並行世界から来た人が多いの。菜穂ちゃんの偽者によれば世界が滅んだからこっちに来て元の方を殺してなり替わる計画だったみたいね。因みに向こうでは菜穂ちゃんと怜くん付き合ってるってさ、唯一仲良かったとか誰にも構ってもらえないのとか……かわいそ」
「おめえの娘に言ってろ」
菜穂と付き合い別の日常を歩む。そう言った可能性もあったものだろうか。今の怜には全くもって理解できなかった。それとも勇人が傍にいてくれたことで菜穂の本性を見抜くことが出来たのだろうか。
「娘ねえ。あの子はあの子なりに色々悩んでたりするから難しいものよ」
「いや、口塞いでニヤけ抑えれば普通の見た目の普通の女だろ」
「あの子の良さ全否定ね、流石に許せない」
この親あってのあの娘。きっと親譲りの性格が災いしているのだろう。決して会いたいとは思えなかった。
やがて真昼は視線を肩に掛かった偽者の怜に移し、頭をゆっくり優しく撫でながら、感情を込めて丁寧に口にした。
「帰ったら菜穂と同じところに帰してあげるからね、元の世界に」
「殺害予告じゃねえか、あと俺にやってるみたいで恥ずいからやめて」
必死の訴えは無駄に終わること必至。真昼はわざとらしく担いだ怜の尻を優しく温かな手つきで撫でながら夜闇の中へと消えて行った。
「あのオンナ、いつか俺が寿命を決めてやる、命のピリオドを」
獰猛な言葉の中、どうしても憎み切れない感情が残り底を漂っていた。仄かに色付き飛び回る優しさはあの乙女、風のせいだろうか。
そう思っている時点で怜は自身の本性に気が付いていなかった。
夜の闇に閉ざされた景色、見えない道を開いては閉じて。進んでいるのかどうかは完全に街灯や人々の生活の中で灯された灯り、家の照明の残光が頼りだった。瞳に入る残光と風が連れて来た残り香。怜を彩るふたつの隅に居座る暗闇に目を通しながら真昼が告げていたことを思い出していた。
「確か言ってたよな。真昼さんの夫はもうひとつの戦場に行ってるとかなんとか」
怜が知らないところで戦いが行なわれている。しかしそれに目を向ける必要性など感じていなかった。
「あの『悪魔憑きの掃除屋』の腕なんか見たくねえしな」
風はいつまでも怜の身を包み優しく吹きながら「休んでいいんだよ、おやすみ」と耳元で呟いているように思えた。




