顔
授業を受けている勇人。こちらはこれまでといつもと変わりのない和やかな子どもの顔をしていた。寒さをも感じさせない表情、実のところ寒さなど感じていなかった。勇人は恐怖に触れて日々夜々震え続けていた。感情を感じ取ることの出来る情報が遮断され続けて行く恐怖。食べ物の味も花の香りも木々の温度も手触りも、最後に感じたのは一体いつの話だろう。もはや遠い過去のことに思えていた。
進化と共に生きるために不要な感覚が切り捨てられて行く。きっと毒も温度も弱々しきものでは勇人を苦しみにすら至らしめることは出来ないだろう。強くなり身体が脳が不要だと考えた感覚は心の許可も無しに鈍り続ける。
勇人は思う。果たして人としての心を保ち続けていられるだろうか。もしも鈴香がいなかったならば、とっくの昔に生きることなどやめていたかも知れない。鈴香を驚異の手から遠ざけることと怜と仲良くし続けること。もはやそれらだけが生きる糧になりつつあった。その怜との会話の中にも不明な部分が現れ始めていた。過去に食べたことのあるものなら味は思い出せばまた味わうことが出来るものの、この若さにして大切なモノを確実に失っていた。
残された申し訳程度の触覚に未だ鮮明な聴覚、視覚。こうしたものだけでは映画のひとつも愉しむことが出来なかった。
食事のシーンや大切な人の温もりを分かち合うシーンのひとつをかつて知っていた感覚で補ってはいたものの、そうした行動の度に想いに襲われてしまう。もう、そうした感覚に触れることも叶わないのだと。
過去の感覚が亡霊と成って勇人のことを祟りに来るのだ。恨みもなくただ責め立て続けるのだった。
勇人は大きなため息をついて、黒板に書かれた内容を、ただ塗り付けられて刻み込まれた情報を、情報のままノートに移し写し続けていた。
――これ以上楽しみを奪わないでくれ
ここまでごくごく普通のありきたりを求めたことなどあっただろうか。鉄さびのような特別など必要なかった。
授業の内容も学校を卒業してしまえばなにひとつ必要なくなって、成績も特に問われることはない。
この先の人生が空っぽに想えて来て、これまでの経験が、癒しのはずのものが自分を責め立てていて、この上なく重い気持ちに苛まれるものだった。
授業が幕を閉じ、怜と共に歩き始める。授業は全て終わった。掃除もなくてホームルームも授業の終わりと共に軽く済ませられた。
「俺のドッペルゲンガーとやらぶちのめすぞ」
怜の張り切りは確かな熱を感じさせて、それがまた勇人の失われた感覚に訴えて来て、この上なく痛かった。
「どうした、元気ないな。まだ菜穂のこと引き摺ってるのか?」
そうではない、そう返してみせようと思ったものの、余計に話が拗れてしまいそうだと頭の片隅でつかみ取って頷いて見せる。
「気にすんなって、俺は確認したぜ。感情が控えめな目をしてたけど普通にクラスにいたからな」
勇人は思い返した。あの件以来菜穂はおろか名前の無い在籍者とも会っていないということ。いったい何をしているのだろう、もしかするとドッペルゲンガーの件を引き起こしている元凶のひとりなのではないだろうか。それを想うだけで内に気温相応の寒気が走っていた。
「そう言えば、名前の無い在籍者の姿も最近見ないな」
駆け抜けては戻ってきて、永遠に去ってくれないようにも思えるそれだったが、怜の言葉ひとつで温められて行った。
「あんまり気にすることじゃあねえだろう」
怜の目は本気のようで勇人に向けて芯の強い色を放り込んでいた。その雑な感情の向け方が、この上なく心地よかった。
「ただもし敵としてここまで来た時にはぶっ潰す」
「平和的な解決はないんだね」
「ねえよ、あんな名前すら教えてくれねえ失礼野郎にはな」
ただ単に教える名前が無いだけだろう。そう思ってはみたものの実際のところ名前を社会から隠している可能性もあった。現実的に可能なのだろうか。首を傾げ頭を必死に回転させてみる。しかしながらたかだかひとりふたりの無知の頭からひねり出される答えなどどれも真実味を感じられなかった。
何を思い何をしていても時間は平等に流れゆく。ふたりは時間に流されて進んで行って、景色の流れに目を任せることなく視線を泳がせて探し続ける。きっとこのままではドッペルゲンガーを見つけられないだろう。この街だけでもどれだけの広さを持っているのか、隣町、更に隣の市、見渡す限り広がる世界の中ヒトが踏み入る場所はあまりにも広くて途方もない。そんな中で手がかりもなく偶然ひとりの標的を見つけることなど到底できないのは承知の上でのことだった。ふたりが持っているのは昨日の手がかり、もしも相手もこちらを手探りで目にしようと手に掛けようとしているのならばきっと別の場所にいるだろう。
「人探しの絵本の何倍もむずいぞこのやろ」
「仕方ないよね、向こうも生き物なんだから」
生き物ってなんだよせめて人って言えよ。そう返す怜の言葉は明らかに笑いに震えていた。勇人もまた、沸騰するように這い上がって来る笑いを堪えることが出来なくて。
そうして愉快な雰囲気のまま今日の人探しは無念という結果を獲得して終わり、ふたりはそのままそれぞれの道を進んでひとりひとり暗闇の始まりの濃い青の空の中に溶けて行った。




