課外
名前さえない在籍者の彼が歩き目にした光景は穴の開いた壁だった。初めから通り道でしたよと言わんばかりの豪快な開きぶりについつい口を開いてしまう。
「誰の仕業だろうな、怜じゃなさそうだ」
魔力の痕跡、過去の道筋の色が異なった、この闇が纏わりつく感覚は怜や勇人のものとは程遠く、誰が行なったものか堂々とした態度で示していた。
「〈斬撃の巫女〉の気配。あれが〈分散〉される前に急がねばならないな」
名前の無い在籍者、彼の足は闇に消え入るような静けさで進められ続ける。一歩踏み出せば確実、二歩踏み出せばもっと確実。目的地へと堅実な進みを見せていいた。
家庭科室の中へと吸い込まれるように入って行く。床下収納の開かれた様を目にしてそっと近づいて行った。ドアを見つめ、入り込む。階段を、小刻みな段に足を乗せ、降りて下がって地下へ闇へ澱へ。
やがて灰色の目で捉えた異形の姿を何事もなく、まるで初めからそこにいないモノのように相手にもされないまま進んで行った。
「所詮はその程度、私の存在を認めることも出来ないなど」
進んだ先に響く声が開戦の合図を告げていた。
「課外授業の始まりってか」
続いて間もなく風が吹き荒れ始める。押し出すような風の刺激は男の心をも打っていた。
教師は巨大な岩が混じり溶け込んだ土人形を従えて殴り込ませていた。自身は全く動くこともなく、無表情を貫くといった様だった。
土人形の豪快な動きを風で払って寸での回避に専念し続けていた。千年にも思える攻防は所詮は数十秒の出来事。怜は土人形の魔力の流れを、血管を思わせる脈を見つめながら語った。
「不純物混ぜれば壊れそうだな」
綿密な魔法ほど純度が必要、この岩と土で創り上げられたゴーレムは固く強そうで荒々しく見えても実のところ繊細にも程があるといった様だった。
「俺の出番だ」
叫びながら一真はビニール傘を思い切り振って強化ガラスをも打ち砕く。大きな水槽は一真の気迫にその衝撃に討ち負けてその身体から濃い緑色の液体をこぼし始める。
「なんてことを」
「ナイス一真」
感謝の想いを放り込むと共に風は液体を掬い上げてゴーレムの身体に吸い込ませてバランスを打ち砕いていた。
「所詮は濡れた程度、それで我が研究が打ち砕かれるなど」
しかし、男の言葉などもはや聞き入れていないのか、ゴーレムはうなだれるように下を向いていた。やがて身体は崩れ始めて姿のひとつさえ失われてしまっていた。
「はっ、水は良くてもあの液の成分には耐えられなかったみてえだな」
「終わりだな」
怜と一真、彼らの言葉の不揃いなこと。このまま戦いは終わってしまうのだろうか、終わってしまうのだった。
一真はビニール傘が曲がってしまっているのを目にしてそのまま投げ捨て研究者、高校教師に向けて足を上げ目にも止まらぬ速さで顔面に向けて回し蹴りを放つ。そのまま教師は素直に倒れ込んでは抵抗のひとつもない。
「戦い、短かったな」
「相性ありきだろ今回は」
ふたり立ち去ろうとしたそこに立っている男の姿を目にして怜は思わず立ち止まってしまった。
「待てよ、なんでここにいる、お前は呼んでないぞ」
呼ぶ気がない、呼ぶ名もない。そんな金髪と灰色の目が浮世離れした男に向けて地に足のついた睨みの目を向けて訊ねを繋ぐ。
「何を知ってるんだ、まさか、このクソイカレタ計画の関係者か」
灰色の瞳は揺れて微笑みに、情の動きに微かに歪んだ。
「まさか、私はただ高校の生徒をやっているだけのものだ、美術科のな」
本人曰く、夜の散歩をしていたところつい先ほど勇人と菜穂が向かい合っている姿を目にしてしまったが為に入り込んで、怜の気配を探ってここまで来たのだという。
「死者になってしまう前に、このイカレ計画が必要になるより前に勇人のこと、救いに行くべきだ」
そう残して怜と一真を引き連れて来た道を辿るように戻って行った。
この世の静寂とはどのようなものなのだろう、教師はその答えを今知ってしまった。計画は全てが台無し、手を差し伸べてくれる人物などとうの昔に絶滅してしまっていた。
想いを這わせる。愛していた、愛している。それは籍を入れて人生を共にしたい人物。笑顔が日の輝きに透ける女だった。
きっと彼女とならどのような苦しみでも共に進んで行ける、ケンカも意見の分かれもふたりを別れへと導くには至らなかった。
そんなふたりの関係を断つように通り過ぎた車、残像の線を引きながら身体も想いも存在も全てを粉々に砕いて。
「また明日。来年には結婚しようね」
最後の言葉が別れの言葉、その来年がこの世で何よりも楽しみだった男にとって目の前の現実はあまりにも残酷で情の欠片も感じさせない運命だった。
魔法使いとして出来ることはただひとつ、愛する彼女を生き返らせて本来そこに在った『来年』を取り戻すこと。そう胸に誓って魂に刻み込んで研究を進めてはいたものの、全ての結果は今目の前にハッキリと映されていた。身体の生成も上手く行かず魂の引き戻しも完成されないまま迎えてしまったこの時。まさか自身の半分強の人生を歩んだ程度の人物に止められるなど思いもしていなかった。もう、何も手を着けるつもりがなかった。人生も何もかも、進める気分を得られなかった。そもそも、男の想いはいつまでもあの日で止まったまま最後の笑顔と全てを壊したあの光景が焼き付いたまま。
当然のように来るものだと思っていたあの日の明日を今も迎えられないまま。




