学校の亀裂
それは学校の中で広まりつつある温か、というよりは熱々なうわさ話。
ねえ、知ってる? この学校にいくつかひび割れた場所があるんだけど
なになに? 中庭のとこと一階の美術科の連絡通路の床だけじゃないのな
そう、ほかにも女子トイレにもあるらしいよ
よしっ、今日の昼休みいや、放課後忍び込もうぜ
見つかったら追い出されるから……学校から
だよなあ
そうした男子生徒たちの下劣なうわさ話を耳にしつつこれから重要な話を聞くことが出来そうな予感を身に染みわたらせて、勇人はこの上ない緊張感を小刻みな震えに変えて露わにしていた。
そこから先、聞き取れたことによれば理科実験室の鏡にも亀裂、音楽室の窓にも亀裂、とにかく割れ目が目立つ校舎なのだということ。
しかし、去年は誰ひとりとして話題にすら上げていなかったうわさ話、勇人は男子生徒の次の言葉に大きな身震いをしてしまった。
「まるで今年に入ってから誰かがひびを入れたみたい」
勇人には心当たりがなかった。ひび、腕を引いて集めた雷がそう見えるだろう。放った稲妻が空間のひび割れのようにも見えただろう。
関係ない
なにも関係ない
心の中耳を塞いで首を激しく左右に振るものの、否定の言葉を心いっぱいに広げて純白心の大海原を繰り広げては見せるものの、これまでの行ないがどうしても頭を堂々と過ぎってはすれ違いざまに勇人を責め立てて来る。
「なに耳塞いでんだ」
冷たくも温かく、伝えるべくして贈られた声を受けてその目は自己の闇を斜めに除け声の主の方へと向けられた。カチューシャを身に着けた同級生の男。髪形が変わっても尚切れ長の瞳と整った顔がその名を訴えるほどの存在、間違いようもない。
「怜」
声を発してみて勇人はようやく気が付いた。物音の聞こえがいつもより籠っていることと自身の子どもじみた声がより一層強い響きを持っているということに。手を耳から離すことでようやく自覚をその手にしたのだった。
――耳、塞いでたんだ
手を握っては伸ばして繰り返し手首を振って指を繰って手を操って。やがて得られなかった感覚が答えを自然と口にしていた。
「手の感覚が……足の感覚も、ほとんどない」
勇人の人としての当然はすでに失われてしまっていた。〈分散〉を行なうために扱っていた右手が特に酷く感覚を損なってしまっていた。
「これってやっぱり」
学校に漂うふたつ目の実家を思わせる独特な香りも、自らの湿り気の味も何ひとつ感じられなくなってしまっていた。
――そっか、人とは離れてるんだな
学校の中、人という存在として亀裂が入ってしまったのだと肩を落とす。その肩すらひびが生えてしまわないか、必要のない心配にまで駆られてしまう。勇人は始まりの火のことを思い出していた。あの人を人だとすら思っていない老人がどのようなことを語っていたのか。確か魔女と同じ力だと言ってはいなかっただろうか。
「勇人、魔法の副作用が厳しいか」
励ましとして怜が手を肩に置くものの、それさえ無が乗っているようにしか感じられなくて違和感を得るといった話以前の問題でしかなかった。
そう、今の勇人は味覚と嗅覚と触覚が失われていた。
「魔女は人の姿してっけど人じゃねえしな。女ならんな異常出ねえらしいけどよ」
染色体の片方が変異した存在が男であり、魔女もまた、女から染色体の片方が異なる姿を取ることで異様な進化を遂げた者なのだとその落ち着いた声によって教え込まれた。
「ってわけだし今は気にすんな、俺が人に戻して感覚を取り戻させた上で勇人の魔力だけで〈分散〉出来るように育ててみせる」
怜の話によれば子ども好きが高じて物の教え方の練習も軽く行なっているらしい。
「教師は大学行けねえから無理だし子どもに嫌われる職業なんざ子に触れる機会増えるとしてもゴメンだしお断りだが優秀な父になりてえってな」
いい夢だね―― その時告げられなかったひと言。自身の余裕の無さを永遠に呪いたくなるほどの過ちだった。
「ついでに向こうの亀裂の噂聞いたよな」
「途中まで」
怜は大きなため息をこぼし、視線から憐れみと優しさをこぼしていた。
「分かった。教えるから覚えろ。ひび割れだ」
怜の語りによって頭に刻み込まれた。脳の亀裂に入り込む学校の亀裂の情報たち。中庭の壁面、一階美術科に続く連絡通路、理科実験室の鏡、音楽室の窓、女子トイレ、二年生の教室。様々だったものの、怜のまとめの中でも警戒ポイントは現実離れした亀裂だった。
「いいか、今言った中にも非現実的な現実が眠ってるかも知れねえが特に気を付けるべきとこは、学校のプールの水面に入った亀裂と空間の亀裂。それらに飲まれた奴らは帰って来れねえんだってな」
眉唾物に思えるうわさ話、しかしながら今の勇人には、非日常の経験を積んで来た彼にとっては否定も出来ないものだった。
更に怜の言葉によって情報が書き加えられた。
「あとな、この学校、たまに間取りと壁の音が釣り合わねえんだ、多分俺がどっかできいたうわさのことだな」
夜に忍び込んだら現れるモノたちが住む、そんな場所があるのだろうか。勇人はその存在に寒気を感じ、失われた気温の感知に代わって大きく身震いをした。




