手を放して
名前の無い在籍者、そう名乗る彼は果たしてこの世に実在している者なのだろうか。確かに見えている、確かに触れられる。確かに、そう思っている自身の感覚の全てが不確かに思えていた。何を捉えても何をしていても確実にこの世に影響を及ぼしているにもかかわらず全てがまやかしのように思えていた。世界が現実という名の幻想の演目を行なっているように見えてしまう。
勇人はあの男の傍にいる間何ひとつ現実感を得られないでいた。
葉はざわめいて豊かな緑という色で語りかけていて、風は透き通る身体で人々の心にまで吹き抜けては何事もなかったように過ぎ去って行った。
照り付ける陽射しは熱をほどほどに運ぶ爽やかな秋空の朝、中庭付近の校舎の壁を飾る無機質な亀裂を前に並んだ男が三人。自然の彩りに対してあまりにも飾りっ気のない景色と男ふたり、彼らの後ろにているようないないような曖昧な気配を漂わせて立つのは金髪の男。
「さあ、そこの名も知らない少年よ、あの手をその手でつかみたまえ」
名も知らないと言ってるひとの名前がないんだけど、湧いて来て勢い任せに吹き出そうになった言の葉をどうにか喉元で捻り抑え込んで、勇人はその幼い声を上げずに様子を見つめ続けることに徹した。
少年は手を伸ばす。亀裂の中にはなにも見えなかったものの歩み近付いて、手を伸ばし近付けて。詰まる距離、ピントはどこで合ったのだろう。突然亀裂から飛び出た半透明の手をその目に捉えて思わず一歩後ずさる。
「い、いつからいたんだ」
「最初から」
後ろから名前の無い声による返答が来て少年は再び手の方へと近付いた。
あまりにも希薄な存在、それはきっと一度背を向けてしまえば二度と目にすることもない、そう思わせるほどに現実離れした奇跡。
一方で勇人は名前の無い在籍者の言葉、それを色付ける声に対して違和感を抱かずにはいられなかった。確かに何を言っているのか、どのような感情を込めて話したのか、思い返すことは出来たものの、その時の声、あの男の声が思い出せなかった。ただ話した内容が情報となって頭の中に残るだけ。そもそも声を聞いたのかどうかを思い出すことも出来なくてしかし話しているはずだと頭は理解していた。その違和感は計り知れない。果たして本当に言葉を交わし合っているのだろうか、相手は別の手段を用いているのではないだろうか。
一度現実の地から非現実の宙へ足を離してしまうと思考はひたすら幻想の入り乱れし混沌へと飛び立って飲まれて身体を突き回されて侵食されて、その不気味な感覚に恐れを抱きつつも病みつきになってしまって離れられない。
「勇人、目の前に集中しろ」
響いた声に引き戻されて辺りを見回す。いつもと変わりない可愛らしい自然が繰り広げる人とは離れた世界の愉快な宴、古びた校舎に刻み付けられた立派な亀裂、そこから伸びる実体無き手。少年は手の霊を掴み虚空を見つめていた。その瞳はどこを見ているのだろう、何を見ているのだろう。焦げ付いたべっこう飴を思わせる微かに透き通ったこげ茶の瞳は目の前にはない目の前の何かに向けられていた。
「思い出を見返して遊んでいるな」
名前の無い在籍者は感情を見透かせない陰のある笑みを口元に浮かべてみせた。
オヤジ!
声はただ水底に落ちるように響いた。
そこにいるのか
暗闇の中、鮮明なものは自身の声だけだった。
頼むからもう一回姿見せてくれ
見えて来た光は薄っすらとしたリボンのようにヴェールのようにその姿を伸ばして、少年の姿を透かした。そこでようやく気が付いた。少年は光の方へと向かって走っていたのだと。
会いたいんだ、頼む
もう決して出会うことが許されない、生と死というくっきりとした形の無い境界線に阻まれてどれだけの金を積んでもどれだけの学びを得ても出会うことの叶わない遠い場所へと旅立ってしまった父ともう一度会う、そんな反則をして、罰当たりな関りは紡がれた。
目の前に立つ父に声を掛けて一年弱の出来事を語って、父もまた現実というしがらみから解き放たれたからだろうか、会社での愚痴や自身の業務の中での杜撰な行動の数々を隠すことなく光の中ふたりの秘密としてさらけ出していた。
学校の壁の亀裂に向けて手を伸ばす人、その姿は傍から見れば単なる不審者でしかないだろう。
名前の無い在籍者は手をゆっくりと掲げた。のろのろとした動きであるにもかかわらず残像を残すというそれは勇人の中に確かな違和感を植え付けていた。
「とどめ刺さないのか」
灰色の瞳が射貫いたそこには少年と繋がれた手があった。亀裂から伸びた仄かに温かな橙色に色付いた空気に透ける帯が絡みついていて、勇人は今ようやく手を呪縛から解放する術を見つけ出した。
「そうだね、いつまでもそこに放っといたらいけないね」
そのまま放置してしまえば彼が卒業したあとも置き去りにされて野ざらしのまま亀裂に挟まれ孤独を味わい続けるだけだろう。
うわさ話、少年の持つ寂しさによって生まれた帯に縛られたその手を放すため、勇人はいつも通り右手を肩へと引いた。雷は空気中より集い、勇人の子どものような声によっていつもの術式発動の合図が唱えられる。
目の前に固まりし闇よ、世界に蔓延りし広大なる闇の中に〈分散〉されよ ――――




