三人目、ある夏の日の少女の話。
「おはようございまーす! って、なんだ誰もいないのか」
朝、出勤すると受付テーブルにはメモが置いてあった。
「えっと、先生の字だ。なになに……『お馬さんが忙しいからしばらくよろしく』……。客来るって言ってんだろうがあのクソジジイ!」
メモをぐちゃぐちゃに丸め、佐倉は受付横のゴミ箱にメモを叩きつける。
「……全く、会いに来てくれる人がいるって言ってんのに、人としてどうなんだ。人として。お客様からアポの記録ないし、今日来るとは限らないけど……」
ひとりで憤慨していると、ドアベルが軽い音を鳴らす。それと同時に、今時風な……原宿系と言うのだろうか、カラフルな服を着た少女が元気に入店する。
「こんにちはー!」
「うお!?」
場にそぐわない彼女の元気な勢いに佐倉は圧倒される。歳は二十代に届かないくらいだろうか。まだ幼さが抜けていない見た目の彼女は施設内を見渡して首を傾げる。
「あれ? ママ来てないの?」
「ママ……?」
佐倉はその言葉に気を取り直して彼女に聞く。
「えっと、お母様と待ち合わせで?」
「うん! またすぐ会えるから先に行ってて、って! だから起きてすぐこっちに来たんだけど……。事前に様子くらい見てから来た方が良かったかなあ……」
「お母様にご連絡してみてはいかがですか?」
「連絡?」
「携帯とか」
日和はわけもわからないようにふるふると首を縦に振る。
「持ってない」
今時の子がスマートフォンを持っていないなんて少々意外だ。スマホ依存症が問題になっている昨今だと言うのに。
「電話番号はわかりますか? もし分かればお電話お貸ししますよ」
そう提案すると、彼女はまたふるふると首を振る。
「ママの事、日和何も知らない……」
彼女はどうやら「日和」と言う名前らしい。しょぼんとしてしまった日和に佐倉は慌てて日和を元気づけようと話題を変える。
「そうだ、じゃあ待っている間にお母様の話を私に聞かせてください!」
「……ママの話?」
「はい! そうして時間を潰していたら、きっと……お母様も来てくれるはずですよ!」
そう提案すると、日和はぱああと表情を明るくする。
「うん!」
「それでは立ち話もなんですしソファにどうぞ。お飲み物のご希望はありますか?」
日和はソファに座って跳ねている。まるで子どもみたいだ。話を聞いていないようなので水を持っていくことにする。
「じゃあお客様」
「日和でいいよ!」
「では失礼。日和様にとってお母様はどんな方ですか?」
「おっきい人間」
「お……?」
お母様、どれだけ身長が高いんだろう。佐倉は身長が百七十センチあるが、まさかそれよりも大きいのだろうか。日和の身長が恐らく百六十くらいあるからありうる。
「人間って大きいからすごいなあって日和は思う!」
「し、身長が高い方なんですね……」
「あと毎日ご飯くれる!」
「それは母親なら当たり前なのでは……?」
それが出来ないなら母親失格と言われてもしょうがないと思うのだが、日和の育った環境に外部の人間が口出しをしてはいけないだろう。
「あとあと、お散歩もさせてくれる!」
「楽しそうですね」
こんなに嬉々として話してくれるのだから、他人がどう思おうとも日和にとってはいいお母様なのだ。
「あとはねー! いっぱい可愛がってくれる! 日和はね、ママ大好き!」
「微笑ましいですね」
「お兄さんは? ペットとか飼ってないの?」
「ペット、ですか」
佐倉は少し悩んだ後に答える。
「飼ってましたよ。言う事を聞かないのを一匹」
「種類は? 鳥?」
「ハムスターです」
そう答えると、日和は表情をぱあっと明るくした。
「日和知ってる! 昔、鳥と一緒にペットショップで一緒にいた!」
「小動物のくくりでは一緒に売っててもおかしくないかもしれませんね」
「ハムスターちゃん、言う事聞かなかったの?」
「いや本当に全然」
佐倉、苦々しく。
「かっわいげのないハムスターでしたよ。いや、オスだから可愛げもいらないかもしれないですけど本当に言う事聞かなくて、喋りかけたらすぐ噛むし、すぐ噛むし、血が出るまで噛むし……」
「お兄さん噛まれてばっかだね!」
「まあ二年一緒にいて覚えてることが噛む痛みくらいですからね。私は注射嫌いでしたけどアイツに噛まれてからは何とも思わなくなりました」
「けがのこーみょー?」
多分日和は意味を理解して使ってい無さそうだ。佐倉はとりあえず話を合わせようと苦笑する。
「そうですね」
「お兄さんはハムスターさんの事大好きだったんだねえ」
佐倉、うつむいた後照れて呟く。
「はい。とっても」
大好き、ああ、大好きだったさ。
でももう会えない。何をどうしたって、結には会えない。
「いいなあ、私も早くママに会いたいなあ」
会えるだけ良いですね、と嫌味が出てしまいそうだった。同じ種族はいい。同じスピードで生きていくことができる。佐倉は結をこれ以上ないくらい愛していたが、時間の流れには勝てなかった。
結が人間だったら、どれだけよかっただろう。
「まだかなあ」
「もうすぐきますよ」
ドアベルが鳴り、パッと立ち上がる日和は入ってきた人物を見て肩を下げる。
「棗お姉ちゃん……」
入口に立っていたのは、先日来店した男性と、おっとりとした雰囲気を纏った老婦人だった。