①四月一日の不思議と僕の秘密
僕は粘土のようにくっついた体から目を離せなかった。机の上に座り、膝を抱えている彼女の横顔は逆光でよく見えない。放課後のオレンジ色に染まった彼女の体が、綺麗な曲線を描いて静かにシャツを纏っているのが透けて見えた。
沈黙にチャイムが割って入ると、彼女は机からすべり降りた。形のいい膝から伸びた足は僕のより大きそうで少し悔しい。僕よりかっこよく、僕より背の高い彼女は、ズンズンと近づいた。教室の入口に立つ僕を見下した四月一日桜の顔が、脅すように迫ってきた。
「なに見たか解る?」
「い、いや?よくわかんない」
僕の反応に満足したのか、四月一日さんは怒ったような顔を遠ざけた。そうして僕の頭の上辺りで視線をうろうろさせながら暫く考え込んで、再び見下ろした。その顔を飾る眉は珍しく下がり気味で、一方瞳は睨みを効かせるようにギラリと光っていて、兎に角チグハグだった。
「武蔵、今見たの、絶対、黙っといて。」
「え、うん。ぼ、あ俺、誰にも言わないよ」
僕の苗字を、彼女が凄みを効かせて呼ぶ。今の言葉に含む意図は、僕への命令だ。唯ならぬものを見たことを僕は分かっていた。だけども何が起こったのか正しく理解はできそうになかったし、説明してもらえそうになかった。
四月一日桜さんは、うちの高校の人気者だ。ショートヘア、つるりとした肌、すっきりと、けれどもくっきりしたラインを描くアーモンドアイ、薄い唇──美人というのはこういう人かと思う容姿を持ち、去年のテストは平均学年2位という頭の良さ、運動部に引っ張りだこの運動神経…学校の人気者に必要な要素のどれをとっても魅力的な人だと言える。噂によればファンクラブがあるほどだ。
非現実的な彼女と僕、武蔵幸男は同じクラスというだけの関係で、今日の放課後は僕が偶然教室にいた彼女に遭遇したに過ぎなかった…遭遇しただけなのに、よく分からないことが起こったのだ。いや、今思えば既に起こっていた。
僕が日直当番終わりに教室に入った時、彼女の片足は離れていた。「離れていた」というのは、地面と足が、ではなく、膝と脹脛から足先が、離れていたのだ。球体関節人形をバラバラにすると、ああいう感じだろうか?という風に綺麗に離れていた。僕は真っ先に彼女は身体障害者だったか、それで彼女の足は義足だったのか、と疑った。けれども先週話した自己紹介ではそんなこと一言も言っていなかったし、彼女が持つふくらはぎは、指の圧力で柔らかそうに凹んでいた。肉だ。人体だ。そう思った。
四月一日さんはその人体をゆっくり膝に近づけていって、くっつけた。しっとりとした粘土がくっつくような、パズルがピッタリと合うような、自然な重なりは線も消え、音もなく接着してから彼女は僕に気づいたようだった。
それからは冒頭の通りである。
ギラリと僕を睨みつけたあと、四月一日さんはさっさと帰って行った。僕はというと頭の整理をしながら共働きの両親と住む家にトボトボ帰っている。とりあえず今日見たことは胸に秘めておくことにした。僕が知らないだけで、最近の医療技術で人体そっくりな足ができたのかもしれなくて、だから縫い目や継ぎ目が見当たらなかったのかもしれない、と自分を納得させる方が楽だ。
それにしても、四月一日さんの態度はショックだった。悪いことは何もしていないはずなのに、責め立てられたような気がして、理不尽さにもやもやとしながら家の鍵を探り、家に入る。
当たり前だが、両親はまだ仕事で家には誰もいない。しかし寂しいというよりも思春期の自分には一人の時間を堪能したい気持ちのほうが強かった。夕飯の作り置きをチンして食べて、宿題を適当にこなして自分の好きな時間を作る。僕が一番好きな時間が始まると、こっそりと隠している箱を箪笥から引っ張り出して机の上に並べた。
丸いコンパクト、四角いケース、小さな円柱、長方形の小箱、ペン。さまざまな形のアイテムが箱からゴロゴロと出てくる。これらにはファンデーション、チーク、リップ、アイシャドウ、アイライナーという名前がある。他にもアイブロウ、シェーディング、ハイライター…などなど。
どれもパッケージデザインからサイズまで多種多様で、見るだけで楽しい。僕はそれをうっとり眺めて、今日一日にぴったりのコスメを吟味することにした。
今日といえば、やっぱり四月一日さんとの不思議な出来事だ。あの時の彼女はピリピリとしていて、目はギラリとしていた。でも今思えば、目力が強いからぎらりとしていた気もする。
美人は怒った顔も美人で、怒った顔は怖いのだなあなんて思いながら僕はファンデーションを顔に薄く載せた。そして「資生堂」の「オーラデュウ プリズム」を手に取った。黒の小さなコンパクトケースはシンプルで上品で、しなやかに強く光るその中身も相まって四月一日さんを思い出した。アイシャドーを軽く目尻に乗せると、静かな光を持つ朱色の瞼になった。今日の放課後を思いだす。
あとは目を際立たせるために唇は自然な色に近いリップを選び、チークは控えめ、眉毛は髪色に合わせてナチュラルに整えた。マッシュルームになっている髪をセンター分けでセットして、最後にアイライナーで目元を、シェーディングで顔を引き締めて完成だ。
一通り眺めて写真を撮り、洗顔してこの遊びは終了する。身長が低い自分の親のDNAを恨んだこともあるが、同じく皮膚が強いDNAに感謝していて、毎日こんな遊びを繰り返しているが、今のところ肌は毎日ケロッとしている。
これは一つ誰にも言えない秘密だ。
僕は今日1日を振り返りながら化粧品を選び、メイクをする。
きっかけは、10歳離れた兄の買い物、当時付き合っていた彼女へのプレゼントの買い物で、コスメ売り場について行ったことだった。宝石のようにディスプレイされた化粧品たちに心を奪われて、こっそりネットショッピングで買い集めて眺めるようになった。眺めているだけでは勿体無いと思い始めて一人でメイクをするようになり、1日の終わりに小綺麗になった自分を眺めることが僕のささやかな楽しみになっている。そして嫌なことは洗顔と一緒に流せばいい。それが僕のルールだった。
今日も僕はこのルールに従って、今日見た不思議なことも、モヤッとしたことも、洗顔と一緒に全て流した。
完璧な僕ら ①四月一日の不思議と僕の秘密
読んでくださり有難うございます。らしい現実日常と現実逃避を混ぜられたらなと思いながら書きました。のんびり書きます。