はじまりの朝 二 〜謁見の間にて〜
部屋の中からサンミルは恐る恐る扉を開けて、廊下の様子をのぞき見る。
白い衣を着た長髪の剣士が、背を向けて静かに立っていた。
両手に『剣』を収めた鞘を持って、いつでも抜けるように身構えている。
二ヶ月前のあの時と同じ、『剣』と彼の背中だ。
「……おはよう、サイシイ」
サンミルが呼びかけると、その剣士が振り返る。
「おはようございます、姫様」
サイシイは穏やかに微笑んで、剣を納めた鞘を両手に持って拝手した。
「当主様がお呼びです。早く参りましょう」
「ええ。お願い。サイシイ」
サンミルは、謁見の間へと向かった。
傍らにサイシイが並び、後ろにパヤンを従えて、廊下を進む。
二ヶ月前、助けてくれたのが、このサイシイだ。
その時だけではない。十七年前、ジン兄様とサンミルの『剣』になると誓った時から、何度も助けてくれている。
サンミルとサン王家にとって、最も信頼できる忠臣だ。
九極剣、尊空最強の秘剣士、尊空親衛隊の総隊長。
様々な名を持つ、尊空の人々にとっての希望であり、若き英雄であった。
「そういえば……」
サンミルは歩きながら、サイシイに話しかける。
「今日の軍議でようやくお義父様から発表されるわね。討伐軍の総大将が誰なのか」
「はい」
尊空では、二ヶ月前から「討伐軍」の準備が進んでいた。
神水教の反乱鎮圧のために。
民に慕われている公女サンミルが、川竜に襲われたことがきっかけだった。
サンミル自身は、戦争と討伐軍の派遣に猛反対する立場だ。
しかし反乱を鎮めて、民たちの命を守ることも大事な使命だと理解している。
「……とうとうあなたの出番ね、おめでとう」
サンミルは神水教に対する情は抑えて、サイシイを祝福する。
「いえ、まだ私が総大将だと決まったわけでは……」
「そう言わないで。川竜の大群を相手にすることになるんだもの。尊空で最強の術士であるあなたが一番の適任よ」
サンミルはそこで足を止め、立ち止まったサイシイの方を振り返り、彼と向かい合った。後ろにいたパヤンも止まって、二人の様子を見守る。
「いい、サイシイ。あなたは、あなたの義務を全うして。彼らに情があるわたしのことは気にせずに戦って。いいわね」
「かしこまりました、姫様。なまくらではありますが、このサイシイ。尊空の『剣』として、ここに誓います」
サイシイが剣を収めた鞘を両手で掲げ、サンミルの前に跪く。
「それから、あなたの『剣』として、このことも誓います」
「なに?」
「神水教の者たちには、あなたの分まで、できる限りの慈悲をおかけすると」
「……ありがとう。サイシイ」
サイシイのその言葉に、サンミルは安心して微笑むことができた。
謁見の間は、横の窓からの日の光に照らされていた。
縦長の広間の奥に、義父が椅子に腰かけて待っているのが見える。
その傍らには。側近のロオハクがいた。
反対側にいるのは、見た目麗しい女性だ。
彼女がサンミルたちに気づくと、こちらに駆け寄ってきた。
「おはようございます、姫様」
「おはよう、シャウレラ」
シャウレラは、今日も美人だった。四十代半ばを超えているというのに、やはり二十代にしか見えない。まぶしい朝日すら霞むと思ってしまうほどだ。
しかも「紅雀仙人」という号を与えられた尊空の術士たちの長で、サイシイとパヤンの師匠なのだから、同じ女性としてサンミルは尊敬してやまない。
「それでは、姫様。私はこれで失礼いたします」
背後からサイシイが声をかけ、パヤンと共に謁見の間から立ち去ろうとする。
「待ちなさい、サイシイ、パヤン」
それをシャウレラが止めた。
「あなたたちもここに残って、当主様のお話を聞いていきなさい」
「師匠、どういうことですか?」
「よいのです。あなたたちにとっても、大事なお話になるのですから」
シャウレラの目つきは、めったに見せない真剣なものだった。
「どういうこと、シャウレラ?」
「お話は当主様から。さあ、お早く」
それだけ、重大な話だということだ。
サンミルは気持ちを切り替えて奥へと進み、当主の前に立った。
「おはようございます、お義父様」
「おはよう、ミル」
「来るのが遅くなって申し訳ありません」
「構わん。いきなり呼び出したのは俺だからな」
義父サンダンは正装を着ていた。武人として名を馳せた昔のように髭が豊かで、体つきがとても逞しいが、目元や顔のしわには積年の疲労がにじみ出ていた。
この人が当主を継いでから、尊空の統治は上手く行っていない。
「ミル。昨日も遅くまで調べていたようだが、『真実』と呼べるものは、何か手がかりでも見つかったのか?」
「いいえ、まだ何も」
「そうか……」
「お父様。討伐軍出陣の件、やはり考え直してはもらえませんか?」
「駄目だ。何度も言っているとおり、お前の言う『真実』とやらで交渉の余地が見つからない限り、討伐軍の出陣を中止することはできん」
「そうですか……」
「神水教との争いを避けたいお前の気持ちはよくわかる。しかしこの地を乱す逆賊から民たちを守ることも、尊空の地を治める我らサン家の義務だ。わかるな?」
「はい、わかっています……」
義父と、二ヶ月前からの日課となってしまったやり取りを交わす。
いつになれば終わらせることができるのだろう。
「それでお義父様、お話とはいったいなんなのでしょうか?」
「それはだな。お前にとって、とてもつらいことを伝えるためだ」
「……つらいこと?」
「そうだ。この事はまだ極秘だ。ロオハクとごく少数の者しか知らん。だが、お前には先に話す。お前は家族だからな」
家族という言葉に、サンミルは嫌な予感がしてくる。
「それは、なんなんですか?」
「はっきり言おう。サンドクが帰ってくる」
「…………おじさまが!?」
「そうだ。明日の朝、お前のおじさまが尊空に帰ってくる。十七年ぶりにな」
それを聞いて、サンミルは喜ぶ――のではなく、とても嫌な予感に襲われる。
「そ、それじゃあ、ジン兄様が見つかったのですか!?」
「いや……残念だが、ジンはまだ見つかっていない」
「それじゃあ、どうして……?」
「それはな……討伐軍の総大将になるためだ」
嫌な予感が、当たってしまった。
「…………ソンは?」
「ソンは、一緒に連れてくる」
ジン兄様は置いて……。
「ソンにとっては初めての尊空だ。ミル、仲良くしてやれよ。あいつはもうドクの息子なんだからな」
「なるほど……。おじさまが討伐軍の総大将に任命されるのは適任です。おじさまは、大戦を勝利に導いた英雄ですから」
「ああ。普段はただのバカなのにな……」
「この事が極秘なのは、神水教の者たちに知られないためですね」
「そうだ。ただでさえ奴の戯言を信じている連中は、ドクの命を狙っている。そんなあいつが、自分たちを討つために軍を率いてやって来ると知れば、川竜の群れを操って何をしてくるか分からんからな」
「そうですね。ですが、わたしにはわかりません……」
「……ミル?」
サンミルは、自分の話し方が変わったことにも、
「どうしてなんですか、おじさまが、総大将になるって!?」
サンダンや他の者達が反応したことにも気づけなかった。
「あのおじさまが……、ちょっとしたことですぐ泣いて……、神水教の人たちとも仲良しな友達で……、川竜のことだって大好きで……、そんなに優しいおじさまが、どうして彼らを殺すための総大将になれるって言うんですか!?」
サンミルは、自分が泣いていることに気づけなかった。
――その頃、予定を一日早めて来ていたサンソンは潤河港で見つけていた。
父サンドクを狙う逆賊たちが乗る船を。