序章 一 〜元宦官の少年〜
東方にある王国の都で、国葬がしめやかに執り行われている。
ソンは、顔を上げられない。
大好きだった王女様も、ジンの兄貴もいなくなってしまったから。
宦官の少年は、人生で二度目の絶望に陥っていた。
一度目は、幼い頃、この身に落とされた時だ。
教師になりたかった夢は、あっさりと潰される。
少年は、宦官になるしかなかった。
この時の絶望が、まだ幼かったソンの胸に、理想を抱かせる。
世の中を平和にしよう。
今を生き、これからも生まれてくる子供たちのために。
それからは、あちこちを転々としながら政治を学ぶ。
やがてこの王国に流れ着いて、優しい王女様と巡り会った。
王女様が紹介してくれたおかげで、初めて家族というものにも恵まれる。
それが、ジンの兄貴だった。
「よし! これで俺とお前は兄弟だ。よろしくな、ソン!」
彼に気に入られたソンは、半ば強引に義兄弟の契りを結ばされる。
彼の名は、サンジン。
この王国に六つある王家の一つ、サン王家の嫡男であった――。
「ソン、ソン、ソン、ソーン!」
ある日の午前中、後宮の書庫でソンが一生懸命働いていると、兄貴がドタバタとやって来る。
ジンの兄貴は、五つ年上の十九歳。
ソンが小柄で童顔なのに比べて、背が高く、見た目は格好良い。
そんな王家の青年が、幼い子供みたいに興奮しながら笑顔を浮かべていた。
「そんなに興奮して、どうしたのですか、兄貴?」
「ソン! お前、川竜を見たくないか。川竜!?」
川竜という言葉を聞いて、ソンは知識を思い起こす。
「川竜? もしかして川の神獣ですか?」
「そうだ。この前、話したろ。俺が故郷にいた時、従妹と一緒に何度も見に行ったって!」
「はい。兄貴の故郷である尊空の地には、川竜がたくさん生息していると。それを見たいとはどういうことなのです?」
「喜べ! その川竜を、尊空から王都まで、俺の友達が連れてきてくれたんだ!」
「ええー! 本当ですか、兄貴!?」
世界の神秘の一つに会えると聞いて、ソンも年相応に興奮してくる。
「ああ。庭園の泉にいるってよ。今から一緒に見に行こうぜ!」
「はい、ぜひ! ……いえ、まだ仕事がありますから、あとで……」
「いいから、いいから。行こうぜ、行こうぜ!」
そうしてソンは、庭園の泉へ無理やり連れて行かれた。
「グフフ~。俺の友達にも会わせてやるからな。楽しみにしとけよ」
兄貴が、何かを企んでいる時の意地の悪い笑みを浮かべてくる。
ソンは、兄貴の友達が可愛い女の子で、義弟を照れさせてやろうと企んでいるのだと察した。
胸がドキドキしてくる。
庭園の泉が見えるところまで行くと、泉の中から何か大きなものが顔と体を出していた。
竜だ。
全長は、人間の十倍以上はある。
首が、天まで伸びるように長く、頂きの頭部の両側には、角があった。
眼は鋭く、長い口には尖った牙が生え揃う。
水面に浮かぶ胴体と尻尾は、大きな岩に見えた。
泉の中に沈んだ四本の足は、大木のように太いだろう。
まさしく、竜そのものだ。遠くから見ても、凄い迫力だ。
「兄貴、あれが……?」
「ああ。あいつが川竜だ! カッコいいだろ! しかもカワイイんだぜ!」
初めて見る勇姿に、ソンは感動した。
泉の周りには、術士や宦官たちが務めのために集まっている。
その中に、一人の少女がいた。
水色の首飾りと巫女の衣を着飾り、右手に小さな杖を持っている。
「あっ、ジン兄さん!」
その少女がこちらに気づいて、嬉しそうに手を振ってきた。
「よう、モモミ!」
兄貴も笑顔で、少女に手を振り返す。
あの少女が、兄貴の友達だ。
兄貴が先を進み、ソンはついて行く。
二人は、彼女のそばまで駆け寄った。
その瞬間、少女が右手にある杖を、川竜に指示をするように振るう。
すると、巨大な川竜がこっちに向かって、口を大きく開けてくる。
それを見て、ソンは悟った。
あの少女が、川竜を操ったのだ。
いや、あれは、「お願い」したというべきか――。
『ガアアアアアアーー!!』
川竜が咆哮を轟かせて、ソンは驚嘆し、
「うおおおおおおーー!?」
兄貴はびっくりして、腰が抜けてしまった。
少女が笑い、兄貴は尻餅をついたまま怒り出す。
「ジン兄さん、びっくりしすぎ」
「バカ! 驚かすんじゃねえよ。こんなことに川竜を使いやがって。しかもこいつ、ドラグーじゃねえか!」
周りの人たちから笑い声が上がり、ドラグーと呼ばれた川竜まで可愛く鳴いた。
「もしかしてビビったのですか?」
皆につられて、ソンも兄貴に笑ってしまう。
「バカ! ビビっちゃいねえよ、ビビっちゃ……」
兄貴は強気だが、まだ足が震えていた。
少女が今したことは、いたずらだ。
兄貴を驚かせるため、この川竜に吠えさせたのである。
「はじめまして、モモミさん」
「こんにちわ、弟くん」
兄貴が起き上がるのを尻目に、ソンは少女と挨拶を交わした。
「さっきは、君まで驚かせちゃってごめんね」
「いえ。私なら平気です。むしろ川竜の迫力に感動しました」
「そう。それならよかった」
「さっき川竜が吠えたのは、あなたがその杖を使ってお願いしたからですね?」
「あっ、わかる?」
ソンがそう質問すると、モモミは喜んでくれる。
「そうなの。この杖は、川竜幼角って言ってね。これでお願いすると、この子たちは何でも聞いてくれるの」
「なるほど。それで上手に心が通わせられるから、あなたは川竜の巫女なのですね」
その後、モモミは泉の中で川竜を泳がせたり、尻尾をフリフリと振らせることまで見せてくれる。
他にも、たくさん教えてくれた。
川竜という神獣は、こんなにも人懐っこいのだと。
川竜と楽しそうに心を通わせる彼女は、本当に魅力的で、ソンは動揺を隠した。
自分と同じ歳で、ここまで優れた巫女なのだから、尊敬の念まで抱かされる。
家族のことも話してくれた。何でも彼女にも義兄がいるのだとか。
「おおー!? 川竜ではないか! 川竜ー!」
後ろから誰かが感激する声を上げてきて、ソンは振り返る。
感動していたのは、とても優しそうな中年の貴公子。
子供っぽい顔つきが、ジンの兄貴にそっくりだった。
もしかして、この人が……。
「親父!」
「おー、ジン!」
兄貴とその人が、互いを呼び合う。
「久しぶりに会えたってのに、感動するのそっちかよ!」
「だって、川竜だぞ、川竜ー! お前だってそうなっちゃうだろう!」
続けて、親子で仲良く笑いあった。
やっぱり、この人が兄貴の父親のサンドク殿だ。
この王国で、サンドクという名を知らぬ者はいない。
十四年前、天下分け目の大戦を勝利に導いた英雄だからだ。
「それで、ジン。この子が……?」
サンドクに視線を向けられて、ソンは緊張に襲われる。
「ああ……。ソン、親父にあいさつだ、あいさつ」
「はじめまして、サンドク殿。御子息のジン殿と義兄弟の契りを結びました、宦官のソンと言います」
ソンは、相手を王国の英雄ではなく、兄貴の父上だと思って一礼した。
「うむ。わしがジンの父のサンドクだ。これからよろしくな、ソン」
サンドクは笑顔を浮かべ、頭を優しくなでてくれる。
「それにしても、すまないな。わしの息子が迷惑をかけて……。義兄弟の契りなんて、こいつに無理やりされたんだろ?」
「……はい」
そう聞かれて、ソンは正直に答えた。
「なんだよ、親父! ソンまでひっでえな!」
そのやり取りに、兄貴が怒ってくる。
「それじゃあ、俺がソンをいじめてるみたいじゃねえか!」
「バカ! この子の立場をよく考えろ! 宦官の子が王家の者と義兄弟になるなんて、陰で何と言われるか! この子だって後ろめたいだろうに!」
兄貴の父親がわかってくれて、ソンはうれしく思った。
「いいじゃねえか。ソンだって喜んでくれてるんだから! 親父だって新しい家族ができて嬉しいくせに!」
「それは、そうなんだが……」
しかし兄貴にそう言われ、今度は父親ともども照れてしまう。
「まあ、何はともあれだ……。うむ! わしも、喜んで君を受け入れよう」
サンドクはそう言って、今度はソンの両肩に、両手をかけてくれる。
「ソン。わしと妻のことも、お父さんとお母さんのように思ってくれよ。わしも、妻も、君を本当の息子だと思って、可愛がっちゃうからな!」
「……ありがとうございます、サンドク殿!」
その人の満面の笑顔に、ソンは心から喜ぶ。本当に優しい人たちだ。
「あっ、そうだ!」
そこで、兄貴が何かを思いつく。
「親父。ソンのことで頼みたいことがあるんだ!」
「おう、なんだ?」
「ソンをさ、親父の養子にしてくれよ! 母さんがなったみたいに!」
「なぬ……なぬ、なぬ、なぬ!?」
兄貴がまたまたバカなことを言ってきて、ソンは父親と一緒に愕然となる。
「そうすれば、ソンは、俺の本当の弟になれるだろ! 親父の息子にもさ! 王家の子供にだってなれちゃうぜ! 母さんみたいにさ!」
「……ジン。お前は、それが何を意味するのかわかってるのか?」
「そうですよ。先に何度も言いましたよね、兄貴!」
宦官の少年は怒って、口を出さずにはいられなかった。
義兄弟の契りは、あくまで私的な関係。
兄貴が王家であろうと、義弟にその名と権利は与えられない。
対して、父親の養子入りは、公式な関係。
ソンは王家の人間として認められ、その名と権利が正式に与えられる。
つまり義兄弟と比べて、養子は、重みが全く違う。
まして宦官の子が、王家の養子になど……、
「えっ、なにが?」
「宦官の子が、王家の養子になんて、とんでもないことでしょうがあー!!」
「お前は王家としての責任というものを、なんだと思ってるんだああー!?」
しかし義弟と父親に怒鳴られても、ジンの兄貴は愉快に笑った。
「大丈夫だって。王家なんて楽勝さ。ソン、お前はすっげえ奴なんだからよ!」
「フフ。ジン兄さんったら……」
それを見て、モモミは楽しそうに笑うのだった。
――そんな日々は、もう二度と帰ってこない。
王女様が命を落とし、兄貴はどこかに出て行ってしまったから。
兄貴と王女様は、仲睦まじい恋人同士だった。
「ソン、元気を出して」
王女様の国葬が執り行われている中、ソンは年上の少女に声をかけられる。
兄貴の従妹で、サンミルという人だ。
お姉さんのように、自分の手を握ってくれていた。
王女様とは、また違う優しさだ。
「つらいのはわかる……。けど、いつか元気にならないとダメ。ジン兄様と王女様も、きっと君にそうお望みになるわ」
そんなことを言われても、ソンは何も言えない。
王女様と兄貴を失って、全てに絶望していた。
「今度、尊空に遊びに来て。決して平和とは言えないかもしれないけど、ジン兄様やわたしの友達もたくさんいるし、とってもいいところだから。モモミや川竜にもまた会えるわよ」
彼女が、尊空という故郷の地を、そこにいる家族や友人たちを、とても大切にしていることが伝わってくる。
「おおー、ここにいたか」
「おじさま!」
そこへ、兄貴の父親であるサンドクが戻ってきた。
「ミル、わしは決めたぞ」
「それじゃあ、本当に?」
「ああ……。ミル、何か言うことはあるか?」
「正直、戸惑います。この子のためにもなるかどうか……。ですが、ジン兄様がお望みであれば。あとはおじさまの決めることですから、わたしは何も言いません。あとは、この子のことをお頼みするだけです」
「そうか、ありがとう……。ソンのことは、わしに任せとけ」
この人たちは、何を話しているのだろう。本当の父娘のように見えた。
「ソン、よく聞いてくれ」
ソンは、サンドクに話しかけられる。
「わしは、君を養子に迎えたい」
「……えっ?」
ソンは驚きの余り、声が出てしまった。
「わかるかい。君とわしは、親子になるんだ」
「ソン。あなたはサン王家の一人に、わたしたちの家族になるのよ」
この人たちは、一体何を言っているのだろう。
「わたしとは、従姉と従弟になるのかな?」
「そうだな。ソン、ミルのことを『姉』と呼べるかい?」
「…………姉上?」
彼女のことをそう呼べたのは、この時、この一度きりだけだ。
父となった人を「父上」と呼ぶことにも、時間がかかってしまった。
生きる希望を取り戻した後に、ソンはこの時のことを何度でも思い出す。
彼女も、兄貴がいなくなってどれだけ泣きたかったことか。
それなのに彼女は、自分の前で涙など一度も見せなかった。
自分のことを、励まそうとしてくれたのだ。
しかも家族として迎えてくれた。
それが、今の自分にとって、どれだけの支えになっていることか。
なんて、優しい家族。
ソンは、涙が止まらない。
もし尊空に行くことがあれば、何度でも「姉上」とお呼びしよう。
そして、サン家への恩返しのためにも、必ず、尊空を平和に。
――お待ちください、姉上。私が、兄貴を連れて帰ります。
そう誓ったサンソンが、尊空に行くことになるのは三年後だった。