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その四

 ケイトが戻ると、フィオナはすでに泣きやんでいた。しかしその目元にはまだ涙の気配を色濃く残している。


「ごめんなさいね」


 フィオナの謝罪が室内に切なく響いて、フィオナ思いの侍女たちは胸の痛みに眉根を寄せる。


「今日は時間がないのでしょう? 浴室に向かえばいい?」


 フィオナが作る弱弱しい微笑みの痛ましさに、侍女たちは目を伏せる。


「そんな顔しないで。今日はケイトとレイラも舞踏会へ参加するのでしょう? 私の支度なんて早く終わらせて準備しないと」


 侍女思いのフィオナはそう言って立ち上がり、浴室へ向かって歩き出す。そのフィオナのあとをケイトとジョーゼットが慌てて追った。




 フィオナが浴室に足を踏み入れると、ネロリのよい香りが漂っている。先ほどのフィオナの涙を見て、ケイトはローズの香りを選ぶことができなかったのだ。

 フィオナがバスタブに体を沈めると、ケイトはフィオナの髪を濡らし始める。互いに慣れているので、そこに言葉は必要ない。

 フィオナはケイトに身を任せて、目を閉じる。まぶたの裏に浮かぶのはやはりルドヴィックだった。



 十二歳のあの王宮舞踏会まで、フィオナは公の場に顔を出したことが一度もなかった。それには理由があったのだが、その理由はフィオナにさえ知らされていない。それゆえにフィオナは自分が王女として未熟だから社交の場に出るのを許されないのだとずっと思っていたし、今でも王族としての自覚はあるが自信は持てないでいる。


 フィオナにとって初めての王宮舞踏会。いつもフィオナを気にかけてくれる兄のランスロットは留学中でいなかった。もうひとりの兄エドワードと王妃の間に用意されていた席で、フィオナはひとり緊張と戦っていた。

 そんなフィオナの緊張をよそに、貴族たちの挨拶は進んでいった。たった十二歳のフィオナにできることは背筋を伸ばして座り、微笑みを絶やさないことくらいだった。しかしそれすらも困難にするほどの不躾な視線がフィオナに次々と向けられた。忘れられた王女、日陰姫、自分がそんなふうに揶揄されていることを知っていたフィオナは、その視線の意味に気がつかないほど鈍くはなかった。

 冷たい汗が背中を流れ、フィオナはその冷たさに、心までが侵食されそうになっていた。

 そんな時だった。フィオナに明るい笑顔を向ける少年が現れたのだ。それが十六歳のルドヴィックだった。その時のルドヴィックの笑顔に何が隠されていたのか、意味などなかったのか、フィオナにはわからない。ただそのルドヴィックのあたたかい笑顔に、あの日フィオナの心は救われ、その深いグリーンの瞳にフィオナは捕らわれたのだ。


 フィオナの初恋に、フィオナより先に王妃が気づいた。

 後日王妃はルドヴィックを王宮に呼び、フィオナと引き合わせた。フィオナを他国に嫁がせたくなかった王妃にとって、フィオナとルドヴィックの小さな恋は渡りに船だったのだ。

 王妃主導で婚約の話は進んだ。自分と違って明るく陽気なルドヴィックに、フィオナはどんどん惹かれていった。

 三か月後、二人の婚約が正式に結ばれた時、側妃や姉である第一王女からは、政略結婚で国に貢献することもできない役立たずの王女と罵られたが、それでもルドヴィックと結婚できることがフィオナはうれしかった。



 婚約した日のことをフィオナは思い出す。

 婚約証明書に署名をしたあと、ルドヴィックとフィオナは王宮の庭を歩いていた。ルドヴィックが急に立ち止まったので、フィオナも歩みを止めてルドヴィックを見上げた。目が合うと、ルドヴィックはまぶしそうに目を細めて言った。


「見てください。噴水に虹がかかっています」


 あの頃のルドヴィックはフィオナに対してまだ敬語を使っていた。フィオナもまだルドヴィックの前で緊張を解くことができないでいた。


「私たちの婚約を祝福しているようですね」


 ルドヴィックの甘い微笑みが、フィオナの表情も和らげた。

 二人は言葉なく見つめ合った。互いの瞳の色が溶け合ってしまいそうなほど長く、ただ見つめ合った。

 しばらしくしてルドヴィックがフィオナの手をつかんだのを合図に二人は再び歩き出した。


「フィオナ殿下」

「はい、ルドヴィック様」


 互いの名前を呼び合うことすら、フィオナにとっては愛の告白のように気恥ずかしかった。


「あなたに出会えてよかった」


 それはフィオナの心の声でもあった。


「この手を一生離したくない」


 自分の心が他人の言葉で満たされることの喜びがフィオナの全身を駆け巡った。ルドヴィックはフィオナのほしい言葉をくれる天才だったのだ。



 王宮舞踏会のあと、フィオナは学園に入学した。学園には新たな発見や出会いがあふれていた。それまで知らなかった種類の高揚や充足を手にすると同時に、懊悩や摩擦なども体験した。そうしてフィオナが様々なことを経験し、大人の階段を上っている時、その手を引いてくれていたのがルドヴィックだった。


 十二歳以降のフィオナの思い出は、どこを切り取ってもルドヴィックがいる。それはルドヴィックが留学してからも変わらなかった。

 ルドヴィックは留学先の帝国から、週に一度は必ずフィオナ宛の手紙を送った。フィオナも日々の細々したことまで書き綴った手紙をルドヴィックに返信し続けた。それはルドヴィックの帰国のひと月前まで続けられたのだ。手紙の届かなくなったひと月、フィオナはルドヴィックが帰国準備で忙しいのだと思っていた。実際、最後に届いた手紙にはそう記されていた。


 フィオナは今でも三週間前に対面した際のルドヴィックの豹変が信じられないでいる。あれほど手酷い裏切りにあったのにもかかわらず、フィオナはルドヴィックへの思いを断ちきれないのだ。そんな自分を滑稽に思うも、それでもフィオナの心は未だにやさしかったルドヴィックをはっきりと覚えているのだ。最愛の存在として。


「とても忘れられそうにないわ」

「無理に忘れる必要はないのではないでしょうか」


 フィオナが漏らした本音にケイトが応える。フィオナが何を忘れられないのかは、聞かなくてもケイトにはわかる。


 ルドヴィックの心変わりをケイトは許すことなどできないと思っている。しかしこの三年間、フィオナと一緒にいたルドヴィックのすべてを否定することもまた、ケイトにはできなかった。

 フィオナは王の無関心や側妃の心ない誹謗中傷のせいで、自分の存在自体に罪悪感を覚えていた。王妃や兄王子たちにはかわいがられていたが、それは同情なのだと周囲に吹きこまれて、その愛情を信じることに臆病になっていた。そんな、愛されることを恐れ、下ばかり向いていた気弱なフィオナがルドヴィックと出会って変わっていった。前向きになり、明るくなった。そして次第に大切にされることに気後れしなくなっていった。その変化を間近で見ていたケイトはルドヴィックとのすべてが間違いであったなどとは思えないのだ。


「そうよね。無理に忘れなくてもいいわよね」


 自分の捨てきれない気持ちが肯定されて、フィオナは少し気持ちが軽くなる。自分の気持ちに寄りそってくれるケイトたち侍女の存在がフィオナには心強い。


「きっと気がついたらルドヴィック様のことを思い出しても胸が痛まなくなっていて、その頃にはルドヴィック様の存在がほかの誰かに上書きされているのですよ。そうやって女性は恋を重ねていくものです」

「まあ、ケイトったら、自分のことを棚に上げてよく言うわね」


 ケイトが恋愛下手であるのをフィオナはよく知っている。


「恋とはままならないものなのです」


 ケイトの訳知り顔にフィオナは笑い、ケイトもフィオナの笑顔につられて顔をほころばせる。


「新しい恋、そんな日がいつか来るかしら」


 フィオナは王女でありながら、恋をする自由を与えられている。そのことが今は少し疎ましい。新しい恋が怖いのだ。


「絶対に来ますよ。フィオナ様はルドヴィック様を好きになろうと決めてから、好きになられたわけではないでしょう。それと同じで、フィオナ様ご自身が求めていなくても、気がついたら、フィオナ様の心の中に恋は勝手に生まれているのです」

「そんなことはまだまだ先でいいわ」


 もう恋などしたくない。それがフィオナの本音だった。


 婚約解消が決まって、次こそは政略結婚を命じられるとフィオナは思っていた。しかしその前にアレクシスから求婚を受けた。アレクシスの元へ降嫁せよと、命が下れば、フィオナはそれに迷いなく応じただろう。しかし王は命じなかった。それどころか王妃を通じて、求婚を受けるかどうかはフィオナの好きにしていいと言ってきたのだ。


 選択の自由はフィオナを迷わせる。


 フィオナはルドヴィックを忘れることも、アレクシスと向き合うことも、どちらも同じように怖い。



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