その三
一週間が駆け足ですぎた。
フィオナとアレクシスに関する噂は社交界中を席巻している。それまで注目を浴びることのほとんどなかった第二王女フィオナは、その贈られた白いバラにちなんで、白バラ姫と呼ばれ始めている。
対する赤バラ姫アリシアはデビュタントの舞踏会に参加することが決まった。デビュタントとしてではなく、帝国の皇女として紹介されることになっている。
再び国中の貴族が集まってくるであろう今夜の舞踏会に向けて、三人のフィオナ付きの侍女たちは準備に勤しんでいる。
ドレスを運んでいるのは十八歳のレイラだ。彼女はアレクシスの突然の告白劇に涙した女性のうちのひとりだったが、アレクシスが好きになったのが敬愛するフィオナなら仕方がないと納得し、憧れのアレクシスのためにもフィオナを美しく飾ろうと気合いが入っている。
だからこそレイラは、腕の中のドレスに不安を感じてしまう。
デビュタントの装いは純潔を表す白一色と決まっているが、その中でどれだけ個性を出して目立つかが重要だと考える令嬢は多い。社交界デビューで注目されることは、そのまま社交界での地位向上につながり、また婚約者のいない令嬢にとっては良縁をたぐり寄せる糸口ともなりえるからだ。そういった理由で、近年のデビュタントドレスは模造ダイヤやパールをあしらった豪華なものが流行している。そんな中、フィオナが選んだのは、胸元をレースで覆っただけの実にシンプルなスレンダーラインのドレスなのだ。布もレースも最高級品で、上品に仕上がってはいるが、レイラの目にはこのドレスがどうしても物足りなく映ってしまう。せめてAラインかプリンセスラインであったならと、今さら思ったところで仕方がない。このドレスでいかにフィオナの愛らしさを引き立てるかは、侍女である自分の腕にかかっているのだと、レイラはドレスを抱える腕に力をこめた。
フィオナのブランチの給仕をしながら、二十六歳のジョーゼットはフィオナの髪型について思いを巡らせている。
デビュタントは舞踏会で花冠を授けられることになっているので、高い位置でのアップスタイルができないし、華美な髪飾りもできない。そのため、髪の美しさに自信のある令嬢はハーフアップにすることが多い。それ以外の令嬢は低い位置でのサイドポニーテールや低めの纏め髪にして、編みこみや三つ編みなどの組み合わせで華やかに見せる工夫をするのが普通だ。
ジョーゼットが手入れを怠ったことのないフィオナのプラチナブロンドは文句なく美しい。ゆるく巻いてハーフアップにして、その美しさを存分に今夜の招待客たちに見せびらかしたいと、ジョーゼットは思っていた。それなのにフィオナが今夜の髪型に決めたのはツイストを二列並べただけの纏め髪だ。清楚といえなくもないが、地味すぎる。どうにかヘアメイクを始めるまでに、フィオナの気持ちを変えられないものかと、ジョーゼットは食後の紅茶を淹れながら考えている。
「舞踏会の開始は六時半、アレクシス様が迎えにいらっしゃるのが六時、だからフィオナ様の準備は五時までに終えておかないと」
浴室で準備をしながら、ひとりごとをつぶやいているのはケイトである。
祖母が王宮の侍女長だった関係で、ケイトは四つ年下のフィオナの遊び相手として七歳で王宮へ上がった。以来十二年、フィオナと一緒に成長してきた。特にフィオナの専属侍女になってからの三年は、誰よりも近くでフィオナを見てきたと自負している。
そんなケイトが一生に一度のフィオナのデビュタントに張りきらないはずがなく、バスオイルも石鹸も最高級のものをこの日のために用意している。
やっぱりローズの香りのもので統一するべきかしらと、ケイトが思案しているところへ血相を変えたジョーゼットが飛びこんできた。
「ケイト、フィオナ様が!!」
ジョーゼットの慌て具合に、ケイトは何ごとかと急いで立ち上がる。
「どうしたの?」
「フィオナ様が泣いてしまわれて……」
具体的な説明が出てこないジョーゼットを浴室において、ケイトはフィオナの元へ走った。侍女のお仕着せのスカートを持ち上げて全力疾走するケイトの姿は、淑女からはほど遠いものだったが、フィオナの専属侍女としては正解なのかもしれない。
「フィオナ様!!」
居間のソファの上で膝を抱えて泣き崩れているフィオナと、テーブルの上におかれた三本の白いバラの花束を見て、ケイトはすぐに状況が理解できた。
アレクシスから贈られたのであろう三本のバラを見て、フィオナはルドヴィックのことを思い出してしまったのだ。それも最高に幸せだった頃のことを。
「レイラ、タオルを濡らしてきて。フィオナ様の目元にあてていただくから」
ケイト同様、ジョーゼットに呼ばれたのであろうレイラに指示を出し、ケイトはフィオナの背中をさすりながら耳元で話しかける。
「ここで泣かれてはいけません。寝室まで移動しましょう」
フィオナの部屋の前には護衛騎士が常駐している。壁が薄いわけではないが、万が一でも中の様子が外へもれないようにと、ケイトは細心の注意を払っている。奥の寝室は防音に優れているのだ。
デビュタント当日にフィオナが泣いていたなどと誰かが話しでもしたら、フィオナの不名誉な噂が再燃する可能性がある。フィオナ付きの使用人が全員フィオナの味方とは限らない。護衛騎士も全面的には信用することができない。野心も虚栄心も向上心と呼ばれ、陰謀と計略が渦巻いているのが王宮だ。ここで長い時間をすごしてきたケイトにとって、心から信頼できる仲間はジョーゼットとレイラだけなのだ。
「さあ、まいりましょう」
ケイトの言葉に頷いたフィオナを、戻ってきたジョーゼットとレイラが二人がかりで寝室まで運んでいった。
ケイトが居間に残ったのは「アレクシス様の従者がカードの返事を待っておいでです」とジョーゼットに耳打ちされたからだった。三人の中で一番侍女歴が長いのはジョーゼットだが、フィオナとの付き合いの長さと経歴、そして物怖じしない性格のためか、ケイトが三人のリーダーになっているのだ。
テーブルの上のカードを開いて、よりにもよってこの言葉かと、ケイトは思った。
『三本のバラの意味をご存知ですか? アレクシス』
三本のバラが持つ意味は愛している。それはあまりにも有名だ。だからこそ、こういう偶然が起こってしまうのだろうと、ケイトはため息を吐いた。
ルドヴィックがピンク色の三本のバラを持ってやってきたのは、留学へ行く直前、ちょうど一年前のことだった。フィオナの瞳の色がピンクだからか、ルドヴィックが選ぶ花はピンク色が多かったが、ピンク色のバラを持ってきたのはその時が初めてだった。
「三本のバラの意味をフィーは知ってる?」
ルドヴィックがそう言って差し出した花束を、フィオナは頬を染めて受け取った。
「知ってたみたいだね」
ルドヴィックは赤くなったフィオナを満足そうに見て、それから、控えていたケイトにハサミを持ってくるように命じた。
ケイトがハサミを渡すと、ルドヴィックは一本のバラを手に取り、その花を切り落としてしまった。あっけに取られているフィオナの耳の上にその切ったバラを飾り、ルドヴィックは訊いた。
「一本のバラの意味は知ってる?」
それもまた有名だった。ひと目惚れ。あなたしか見えない。
フィオナは恥ずかしそうに、そしてうれしそうに微笑んだ。
「ここに二本残ったね」
二本のバラの意味はフィオナもケイトも知らなかった。のちに二人は二本のバラにはいくつか解釈があることを知ったが、ルドヴィックが告げた言葉が一番ロマンティックだと思った。
「この世界は二人だけのものって意味だよ」
その日、フィオナとルドヴィックは二人で甘い世界を作り上げた。
「離れても気持ちは離れない。心配しないで待っていて」
別れ際、そう口にしたルドヴィックをフィオナはずっと信じて待っていたのだ。
婚約解消の話し合いの場で、ルドヴィックはフィオナを愛してなどいなかったと言ったが、ケイトの目にはルドヴィックがフィオナを愛しているように見えていた。
ルドヴィックの愛が偽りだったのか、最初から愛など存在していなかったのか、ケイトにはわからない。ただあの日の幸福な記憶が、今ではフィオナにとって、一番のかなしい思い出になってしまったことがどうしようもなく切ない。
「いけない。とにかく今はアレクシス様の従者だわ」
そうつぶやいたケイトは回想を振り払って応対に向かった。
ルドヴィックから別れを告げられ、その混乱の最中で受けたアレクシスの求婚に、フィオナはまだ向き合うことができないでいる。しかしケイトはフィオナにとってアレクシスがかけがえのない存在となる予感がしている。
王女の降嫁先がどこでもいいわけがない。最低でも侯爵家以上の嫡子で、将来性のある年齢の近い男性。条件に当てはまる人物はアレクシスを含めて国内に数人しかいない。その中でアレクシスはずば抜けて評判が高い。しかも大勢の前でフィオナへの好意を表明までしてくれたのだ。婚約者を奪われた王女として、社交界で笑い者になっていたかもしれないフィオナを、図らずも救ってくれたアレクシス。そんなアレクシスにケイトが好感を抱かないはずがなかった。
アレクシスの従者に失礼な対応などできないと、ケイトは微笑みを浮かべて、従者の待つ廊下につながる扉を開けた。
ディーンと名乗ったアレクシスの従者は、こげ茶色の髪に黒い小さな目、それに護衛騎士よりも大きな体をしていて、ケイトに熊を連想させた。
「お待たせしてしまって申し訳ありません。お返事をということでしたが、フィオナ様は今夜の準備で忙しく、筆を取る間もございません。大変申し訳ありませんが、感謝の気持ちだけアレクシス様にお伝え願えますか?」
「はい。ありがとうございます。我が主はこういったことには不慣れでして、王女殿下の反応をとても心配していました。王女殿下が喜んでいたと聞けば、飛び上がって喜ぶに違いありません」
「……そうですか、では、時間がありませんので、これで失礼いたします」
喜んだとは言っていないのだが、訂正するほどのことではないと、ケイトは流して礼をする。早くフィオナの元へ戻りたいのだ。
「はい。では、またまいりますので」
また来るとはどういうことなのか、護衛騎士の前で訊くのをケイトがためらっているうちにディーンは笑顔で去っていってしまった。ケイトはその大きな背中を見送ってから扉を閉めた。