その一
社交界シーズン幕開けの王宮舞踏会が間もなく開かれようとしている。久しぶりに王都へ出てきた淑女方の話題の中心は自国の第二王女フィオナと侯爵子息ルドヴィック・パキナラの婚約破棄である。
「もうご存知? 第二王女殿下の婚約が破談になったのですって」
「ええ、聞きましたわ。何でも帝国へ留学中でいらしたパキナラ侯爵のご子息が帝国の第七皇女殿下と恋に落ちられたのでしょう」
「その皇女殿下はとってもお美しい方だそうよ」
「何でもそのご子息の溺愛ぶりがすごいらしくて、ドレスから宝石から、皇女殿下がご所望の品は何でも買われるのですって。先日はルビーで作られた精巧なバラの髪飾りを贈られたそうよ」
「それもただ贈ったのではないのですって。ご子息が皇女殿下に跪かれて、枯れることのない真っ赤なバラが、私のあなたへの愛が永遠である証ですって、渡されたそうよ」
「「「「「まあ、素敵」」」」」
「それにしても、第二王女殿下はお気の毒ね」
「そうね、留学前は学園でも仲良くしていらっしゃると聞いておりましたのに」
「何でも侯爵のご子息は第二王女殿下との婚約は断りきれずに受けただけだったそうよ」
「まあ」
「噂ですけれど、第七皇女殿下にも婚約者がいらしたらしいの。でもお二人は愛の力で婚約まで漕ぎつけられたのですって」
「「「「「まあ、素敵」」」」」
二人の婚約破棄はルドヴィックが真実の愛を見つけたという解釈で広まっている。そして何の罪もないフィオナは婚約者を奪われた情けない王女として、蔑みの目さえ向けられているのだ。
今のところ、王家から婚約破棄についての正式発表がないことも、無責任な噂を広める一因となっているのかもしれない。
王族の入場がアナウンスされ、会場はひと時の静寂を取り戻す。
「第二王子殿下、第二王女殿下のご入場です」
拍手と共に上がった歓声の中に、フィオナは自分への嘲りを聞き、それでも気丈に背筋を伸ばして進む。たとえ末席であれ、王族として生まれた以上、弱みを見せてはならないとくり返し教えられてきたフィオナにとって、微笑みの仮面を被ることはそれほど難しくないはずだった。しかし、視界の端にルドヴィックを見つけてしまった途端に、フィオナは自分の微笑みが崩れ落ちてしまうのを止めることができなかった。
まだ社交界デビュー前のフィオナだが、ほかの王族たちと共に臣下の挨拶を受けるために舞踏会に参加している。
フィオナがルドヴィックと出会ったのもこの王宮舞踏会だった。三年前、フィオナが十二歳、ルドヴィックは十六歳だった。二人は互いに惹かれ合って婚約を結んだはずだった。しかしそう思っていたのはフィオナだけだった。そのことを知ったときの失望をフィオナはまだ忘れることができないでいる。
「王家からの婚約の打診を断れるわけがない。望まない婚約だった」
「君といてもつまらない」
「愛したことなど一度もなかった」
フィオナの心を黒く塗りつぶすのに十分な否定の言葉が、ルドヴィックの口から次々と放たれた。
「帝国で私は愛を知ってしまった」
「私に愛を教えてくれたのは帝国のアリシア皇女殿下だ」
「もうあの頃の愛を知らない自分には戻れないのだ」
ルドヴィックの言葉を理解するのをフィオナの心は拒否した。ルドヴィックが遠い異国の言葉を話しているかのようにフィオナは感じていた。
「私はアリシアと、愛する人と、結婚したいのだ」
「アリシアのお腹にはすでに私の子供がいる」
「私たちの未来のために婚約破棄に応じてほしい」
アリシアを連れて帰国したルドヴィックは帝国の皇帝からの親書を携えて王宮へ来ていた。
『第七皇女アリシアとルドヴィック・パキナラの婚姻を強く望む。もしこの婚姻が成立しなかった場合、貴国との友好関係に懸念を持たざるを得ないことをここに伝える』
国王はフィオナとルドヴィックの婚約破棄を認め、新たにアリシアとルドヴィックの婚約証明書に承諾の王印を押した。
フィオナとルドヴィックの婚約破棄、それはたった二週間前のできごとだ。
ランスロットが王族席に上がるなり、エスコートしていたフィオナの手の甲にゆっくりと口づけたので、会場からは黄色い歓声が上がる。さらには小さな悲鳴まで聞こえてくる。社交界で一、二を争う人気を誇っている二十歳の第二王子ランスロットのこの親愛のキスは、フィオナの緊張を解くと同時に、フィオナがいかに兄王子に大事にされているのかを知らしめた。
「王太子殿下、王太子妃殿下のご入場です」
二十二歳の王太子エドワードと、隣国の王女だった二十歳の王太子妃セレインは仲睦まじく登場した。その幸せそうな兄と義姉の姿に、フィオナは潰えてしまった自分の未来を思わずにはいられなかった。
「第一側妃様のご入場です」
帝国出身の側妃は今夜も帝国の色である真っ赤なドレスを着て登場した。妖艶な微笑みを浮かべながら歩き、王族席に上がった側妃はフィオナを一瞥して意味ありげに笑う。
帝国の皇帝の妹である側妃は、自分の姪のアリシアがフィオナの婚約者を奪ったことを喜んでいた。かつて自分の寵を奪ったフィオナの母第二側妃への恨みを、アリシアが晴らしてくれたように感じているのだ。
「国王陛下、王妃陛下のご入場です」
ひと際大きな歓声と拍手の中、王と王妃が王族席に着く。
王族が勢ぞろいしたところで、国王による開会の挨拶、王太子による乾杯、そして王太子夫妻によるファーストダンスと続き、舞踏会は始まった。
開会に相応しい軽快な曲が次々と奏でられ、招待客がダンスを楽しむ中、王族席では臣下からの挨拶が始まる。
爵位の順なのでまずは公爵家からである。家名が呼ばれ、一族が揃って王族席へ頭を下げる。それから各家の代表者が招待の礼を言上する。この日ばかりは王に向かって、臣下から声をかけることが許されているのだ。それに対して王が頷き返すことで、王が臣下の挨拶を受け取ったということになる。
公爵家の面々は王家とのつながりも深く、王や王太子から個人的に声をかけられるものも多い。それでも四家しかない公爵家の挨拶はあっという間に終わってしまう。
次は侯爵家、その筆頭はルドヴィックのパキナラ侯爵家で、もうすぐ元婚約者と向き合わなくてはならないと思うと、フィオナは自分の手が不様に震えるのを止めることができなかった。
会場中、ダンスを踊っている最中のカップルまでが王族席に注目している。元婚約者同士の気まずい対面も第三者にとっては娯楽のひとつなのだ。国王が何を言うのか、何も言わないのか、フィオナがどんな顔をするのか、ルドヴィックと視線を交差させるのか、皆、わくわくしてその時を待っている。
「パキナラ侯爵家」
家名が呼ばれ、侯爵一家が王族席へ歩み出ようとしたところに声がかかる。
「パキナラ侯爵、大変失礼ですが、私の挨拶がまだなので少し待っていただいても?」
侯爵は顔色を変えたが、それでも相手が自分の前に挨拶する権利のある公爵家嫡男アレクシスだったので、大人しく順番を譲った。
「……ええ、どうぞ」
「感謝します」
アレクシスは侯爵に礼をしてから王族席に振り返る。すると青い騎士服の上に羽織った白いマントが翻り、その美しさに会場の女性たちは目を奪われる。さらにその胸に白いバラが挿されていることに気がついた目ざとい女性たちは、高貴な白バラがなんて似合うのだろうとうっとりと甘いため息をこぼす。
アレクシスは二人の王子と並んで社交界のプリンスと呼ばれる美丈夫である。ただし同じプリンスでも、常に穏やかな微笑みを絶やさないエドワードが月光のプリンス、そしていつも明るい笑顔のランスロットが太陽のプリンスと呼ばれているのに対して、にこりとも笑わない氷のプリンスである。
アレクシスは決して笑わないわけではない。騎士仲間や学生時代の友人たちと会えば普通に微笑んで挨拶を交わすし、酒が入れば笑い上戸になる。しかし女性の前では微笑みを浮かべることすらしないのだ。それで社交界の女性たちから氷のプリンスと命名された。怖いと敬遠する女性たちがいる一方、その氷の冷たさに惹かれる女性も数多くいる。
「陛下、挨拶が遅くなり申し訳ありません。アイビーナ公爵家嫡男、アレクシスでございます。本日は王太子殿下の護衛の任を賜り、大変光栄に存じます」
二十歳のアレクシスの優雅で堂々とした挨拶には、会場中の女性たちのみならず、男性陣も感嘆の声をもらした。
「うむ。アレクシスの話はエドワードからよく聞いておる。これからも励むように」
「ありがたきお言葉。これからも王太子殿下の盾として、そして剣として、この身を王国に捧げる所存であります」
「うむ」
「陛下、この場を借りてお願いがございます」
王宮舞踏会の挨拶中に願いごとなど聞いたことがない招待客たちは緊張する。
気難しい一面のある王の返答に注目が集まる。
「何だ?」
王は表情も声色も変えずに訊いた。
「第二王女殿下への求婚の許可をいただきたい」
ちょうど音楽の切れ目だったこともあり、会場中にアレクシスの声が響き渡る。
そして広がるざわめき。
アレクシスの視線に捕らえられたフィオナはあまりの驚きに自分の震えがとまったことに気がつかなかった。
誤字訂正しました。報告ありがとうございます。
帝国の王女を皇女に訂正しました。
何度も訂正してしまって、申し訳ありません。