不思議な保険医とアリアの思い
突然唇を奪われて一人になった後、姫川との斜め上に突き抜けたようなやり取りに、精神的疲労を感じていた俺は、初めて授業をサボった。
現時点では、顔を合わせるのが厳しいという理由もある。
今頃になって姫川から好意を示され、あまりの勢いに終始押されっぱなしだった。
キスが長かった所為か、その感触もリアルに残っている。唇をあんな強引に奪われるとか、俺の人生計画には一切含まれていなかった。
俺はいつの間に、キスは唐突系ヒロインの仲間入りをしたのだろう。
こんな結果、誰も予期できない。きっと今の俺からは、さぞ独特なオーラが滲み出ているだろう。
ここが超能力世界なら、俺は新たな特殊能力に目覚めてさえいたかもしれない。
普通、姫川のような可愛い系の美少女にキスをされたなら、どんな形でも嬉しいと思うのが健全な証と言える。飛び跳ねて喜ぶ者も大勢いるはずだ。
だが生憎、俺は一方的な想いは受け入れられない質だ。現にキスされたことに好意的な感情を持てていない。
俺たちが相思相愛なら、また話は違ってきただろうけど。
今の心境は天国どころか、下降の一途を辿っている。
何が正解で何が不正解なのか。本当に難しい問題だ。
無意識的に顔が上に向かうと、今日何度目かの空を静かに眺め続けた。
ある程度心が穏やかになったら、屋上を後にして保健室へと向かった。
冷静になれても、このまま教室に戻る選択肢は今の俺には残されていない。寝て覚めて作戦で学校を終えることに決めた。
廊下を数分歩くと、保健室に着いた。ノックをすると、若い女性の声が返ってきたので入室する。
まず始めに保健室特有の独特な薬品の匂いが、嗅覚を少し刺激した。ベッドは二つあり、その間をカーテンで仕切れるようになっている。
「どうかしたの? 確か……海田紫音くんよね?」
椅子に座った状態で、声を掛けてきたのは、教員の中では若いであろう、おっとりしてるけど、大人な雰囲気を持つ、黒髪セミロングの美人な保険医だった。タイトなスカートに白衣がマッチしている。
「……俺のことご存知だったんですね」
よくよく考えてみると、あまり見ない先生だ。面識もないはずだし。
「ええ。あなたって結構有名だから。帰宅部だけど珍しく文武両道な生徒で、女子生徒からの人気も高い。保健室に来る女の子たちもあなたの話をしたりするのよ~」
なんだか面と向かって言われるのは、中々に恥ずかしいな……。最近は順応してきたとはいえ、まだまだ慣れない。
嫌な気分にはならないけどさ。
「それは光栄ですね。先生も綺麗ですから、男子生徒に人気があるんじゃないですか?」
失礼な話になるが、この学校の教員に、綺麗な女性と思える先生はあまりいない。若い先生も少ないしな。
そんな中で、綺麗な教員が存在したら、男子生徒は嬉しいだろう。もしかしたら、男性教員も同様、いや――それ以上に嬉しいだろうな。
でも、あまり期待はしない方が良い。
この容姿だ。十中八九、彼氏がいるだろう。その場合は狙ってた人たち全員、等しくドンマイだけどな。
「あら~。お上手ね。そんなこと言われたら嬉しくなっちゃうわ~。ありがとね海田くん」
何かこの先生見てると癒される。精神安定の特殊能力でも備わってたりしてな。
「あの、先生。ベッドを借りても良いですか?」
「良いわよ~。体調不良かしら。熱測ってみる?」
熱というか、なんというか、サボり……?
理由を探してると、いつの間にか体温計が先生の手に降臨していた。
なんという早業。動体視力には自信ありだが、動きを察知できなかったぞ。
ただ者ではないな。
「熱はないので大丈夫です。少し気分が優れないんですよね。こんな理由ですが大丈夫でしょうか?」
ただのサボり――またの名を仮病だからなぁ。何となく精神的疲労から休みたいという理由もあることには、あるけど。
「大丈夫よ~。幸い今日は体調不良の子たちはいないから。どうぞ思う存分お休みください」
そうベッドに促されたので、二つあるベッドの手前の方を使わせてもらうことにした。俺はベッドに座って横になろうとする。
「先生が眠るまで、手を握っていてあげるわね~」
「……え?」
魅力的な笑顔だな。俺以外の男子生徒なら、舞い上がってジャンプしまくって、挙げ句の果てには体調悪化してしまうな……。
なんて破壊力。これが大人の女性の魅力か……。少し動揺してしまう俺は、やはりまだまだ子供なのだろう。
「そ、そんなことを軽々と言ってしまって――」
「もちろん、冗談よ~。良い反応をありがとう。可愛かったわよ~」
心臓に悪い冗談だ。たまに妹をからかうときの逆バージョンじゃないか。不覚にもドキドキしてしまった。これが、経験値のある大人の実力というわけか……。
「それにしても……ようやく顔の暗さがとれてきたわね~。入室してきた時には、なんだか思い詰めた表情をしていたから、やっと安心したわ~」
「――えっ!?」
先生の話を聞いて、これには思わず驚愕の声を出してしまった。まさか……今までのやり取りは、俺の心情を見越してのことなのか。
というか、俺の顔って暗くなってたんだな。
精神的疲労を無意識に感じていて、それが表に出ていたのかもしれない。
「驚くことじゃないわ~。少し気分をリフレッシュさせてから休ませたかったのよ~。その方が寝つきも良いでしょう?」
初めて両親以外の身近な大人で尊敬したかもしれない……。精神科のスペシャリストみたいだ。下手なカウンセラーよりも頼りになる気がする。
「先生ありがとうございます。お蔭で、快適に休めそうです」
そう感謝してベッドで仰向けに寝た。すると、先生がベッドの横までやって来た。
どうしたんだ? まさか手を握るのは本当だったのか?
――そんなわけないな。
「更に寝つきが良くなるように、特別なことをしてあげるわ~」
特別なこと? 先生が俺の目の前でカウントを始めた。
「五、四、三、二、一」
そして、ゼロのところで指パッチンをすると急激に眠気が襲ってきた。先生……あんたマジで……なにも……の……?
目が覚めた俺は、ベッドから降り、窓の方まで歩く。外は僅かに夕暮れを迎えていた。青色の部分がまだ多いが、もう少し経つと、朱色に染まる空に変わっていくだろう。
先生に是非訊いてみたいことがあったのだが、机に『用事があるのでしばらく戻ってきません。起きたら下校して良いですよ』と紙にメッセージが置いてあったので、素直に教室へ戻って下校することにした。
先生、俺はあなたのことだけは、生涯忘れられる気がしません――インパクトが強すぎて。
廊下を歩きながら今何時だっけ? と思って、スマホを見ようとしたが、教室に置いていたことを忘れていた。
すると、タイミング良く五時を知らせる音楽が流れてきた。この地域は五時になると決まって、ある音楽が流れてくるのだ。
ということは、まだそんな時間か。
教室に戻ると、一人だけ女子生が残っていたようで、その後ろ姿が見えた。
引き戸をスライドする音でこちらを振り向いた彼女は、俺の方を見て、安心したような顔になり、すぐに控えめな笑みを浮かべる。
美しいプラチナブロンドを靡かせながら、優雅に歩いて来たのはアリアさんだ。
「紫音君どこへ行ってたのですか? 五限目から姿が見えなくて心配しました……。教室に鞄は置いてありましたので、未来ちゃんに連絡して、取り敢えず待ってたんです」
「保健室で休んでたんだ。心配かけてごめんね。待っててくれてありがとう」
俺は笑顔でお礼の言葉を伝えた。
「い、いえ……待ちたかったから勝手に待ったんです。それより、もう大丈夫なのですか?」
アリアさんが少し頬を赤らめさせた気がした。基本的に綺麗なんだけど、こういう控えめなところが人の心を掴むのだろうな。
俺がスマホを持っていれば、連絡もとっくに取れて帰宅してた時間なのに。
優しいな。
「睡眠効果が抜群に効いたみたいでね。スッキリしたよ」
これもあの謎多き保険医のお蔭だ。気分爽快元気ハツラツ――とまではいかなくとも、普通の精神状態には戻れたな。気持ちの良い睡眠が功を奏したのだろう。
「良かった~。あ、未来ちゃんに連絡しますね!」
アリアさんは鞄からスマホを取り出し、連絡先を探し始めた。
未来は今どこにいるんだ? 連絡の結果を聞けばわかることだが、謝っとかないとな。一番心配かけたみたいだし。
『もしもし……アリアさんお兄ちゃん見つかりましたか?』
『ええ。教室に戻ってきましたよ!』
『――ほ、本当ですか!? どこにいってたんですか!』
アリアさんが、俺から聞いたことを電話を通じて話していた。未来はどうやら自宅で俺の帰宅を待っているようだ。
近況報告が終わったようなので、電話を代わってもらう。
『お兄ちゃん……何かあったでしょ? 帰ったら事情を聞かせてくれると嬉しいな』
未来は俺限定の覚かもしれない。覚は妖怪だったな。しかし、未来は女神だ!
その気になれば女神教という宗教を創始するのも可能――絶対しないがな。
未来は俺だけの女神なのだから!
『お見通しか……。未来は俺のことに関すると、勘が鋭いからな。隠し事できそうにないよ。それと心配かけてごめんな』
『大丈夫だよ。お兄ちゃんが無事ならそれでね。だから、気にすることないからね!』
以心伝心レベルだ。もうこれは近い将来、未来と一緒に生涯を共にしなさい――という天からのお告げがあるかもしれない。もう未来ルートに突入しても良いよな……。
餅つけ、もとい落ち着け。まだ早まる時期じゃない。
ふぅ。危なかったな。もう少しで落ちる寸前だった。よく踏みとどまったぞ俺。
『今、惜しいところまで行った気がする……。とにかくお兄ちゃん! 待ってるからね。バイバイ』
何が惜しかったんだ。心の声が読まれたとか?
……まさかな。
以心伝心がそこまで到達してるとするなら、半端じゃないな。いくらシスコンの俺でも恐怖だ。
一先ず未来との電話を終えて、アリアさんにスマホを返した。
「ありがとう。じゃ、帰ろうか」
「はい!」
校舎を出ると、先程よりも空は朱色が濃くなっている。アリアさんの方を見てみると、教室とはまた違った、朱に照らされた綺麗な髪が歩くたびに靡いている。
「紫音君、姫川さんと何かありましたか?」
帰り道、雑談をしていると、途中でアリアさんに真剣な瞳で見つめられ、鋭い質問をされた。
「……」
俺はなんて返答しようかと悩んでいた。関係のないアリアさんを巻き込むのは悪いと思うし、逆に話してみるのもアリな気もする。俺自身はもう回復してるし、大丈夫ではあるのだが。
「答えたくないなら、答えなくても良いですよ。ただ、これだけは覚えておいてください。私は紫音君の味方ですからね!」
アリアさんに、人を魅了する綺麗で優しい笑顔を向けられた。
「アリアさんはさ、どうしてそこまで優しくしてくれるの?」
「簡単なことですよ……。紫音君に助けられた恩があるのと、単純に私にとって大切な人だからです」
アリアさんは先程と変わらぬ優しい笑顔と曇りない瞳だ。嘘偽りないのが伝わってくる。
「……」
俺は顎に手を当て考えるも、あまり思い浮かばない。精々アホ共から助けたくらいだ。
「紫音君に大したことなくても、私には大したことでした。しつこくて本当に困っていた時に、チャラチャラした人たちからナンパされてるのを助けてくれました。その時から、私は紫音君がとても気になってるんです。その他にも、先生に頼まれた書類を運んでる時に、違うクラスにも関わらず何度か助けてくれました」
困ってる学校の女子生徒がいたんだ。見て見ぬ振りなんてできるはずもない。
書類運びだって重そうだったから、俺が見てられなくて勝手に助けたんだ。
そこまで恩に着られるようなこととは思えないけど。
「そんなのは普通のことだよ。恩なんか感じなくても良いんだ」
「普通じゃないです。普通の人は私がナンパされて困っていたとしても、相手が面倒そうなら助けてくれません。それにナンパの時も書類の時も助けてくれたのは、紛れもない紫音君です。紫音君には普通でも私にとっては……特別なんです」
アリアさんは嬉しそうに語ってくれた。そしてどこまでも優しい声音で続きを話し出す。
「私が恩を返したいから返します。大切にしたいと思う人だから、助けになりたい――ただそれだけなんです。だから、紫音君が困った時は、私が助けます。無理にとは言いませんが、いつでも頼ってきてくださいね!」
とても鮮やかなブルーの瞳で俺の瞳ををじっと見ながら思いを伝えられる。
そんなにも純粋に真剣な瞳でまっすぐ見つめられて、助けたいという思いをぶつけられると――頼りたいと思えてしまう。
不思議な魅力を感じさせる人だ。
「正直な話し、昼間の出来事はもう今はそこまで気にしてないんだ。過ぎたことだし、気にし過ぎちゃうと、どこまでも続くから。でも、心配かけたアリアさんには話すよ。この後、何もなければ家に来てくれないかな?」
力強く頷いてくれた。仲良くなって短期間だが、アリアさんは未来と同じく信頼できる。月日と信頼関係は必ずしも比例するわけではないな。
今回のことは、俺が姫川の精神状況を把握しておらず、不意をつかれた結果の末路だ。今後は自分の油断を悔いて、姫川を警戒すれば問題ない。
でもまあ、アリアさんには教えておいた方が良いだろう。ここまで俺のことを心配してくれたのだ。姫川が関わる度に、知らないことでの心労をかけるのも悪いし。
そのアリアさんは親御さんに電話で許可を取ったから、俺の家に来ることでの問題はない。
俺と姫川の出来事を話したことで、どんなことを思うのだろうか。
そう考えたら、俺は自然とアリアさんに目を向けていた。