嵐のような幼なじみ襲来
廊下に出た俺は、屋上へと続く階段を目指し、ゆっくりと歩いていた。
この学校は屋上を禁止していない。
しかし、生徒はあまり来ることがない。単純に興味がないのか、禁止されていないからこそ好奇心が働かないのか。
いずれにしても、そのお蔭でマイフェイバリットプレイスとして使えるから、万々歳ではある。
昼休みは意外にも教室で食べる生徒が多い。せっかく屋上が解放されてるのにな。移動を面倒に思ってる者も存外にいるようだ。
梅雨、冬、暑さが強い日の夏はあまりオススメしないが、春と秋は気持ち良くて過ごしやすいのに、なんてもったいない。
風は気持ち良く、解放感があり、外の景色は見渡せる。
こんな良い条件の揃った場所を有効活用しないとは、絶対損してるな。
階段を一段一段上がり、扉の前まで来ると、ドアノブを回して屋上に出た。
ここは色々考えたり、一人になって心を落ち着けるには、もってこいの環境だ。
今日は幸いにも、雲一つとして見当たらない綺麗な青一色の快晴である。
春ということで太陽の日差しは気にならず、むしろ心地良いくらいだ。これが夏の猛暑なら、ミーラのように干からびてたかもしれない。
細やかに吹く風が、穏やかに肌を通り過ぎた。
屋上全体にはフェンスが張り巡らされており、一応は危険対策もされている。
俺はまっすぐ進むと、フェンスの一面に背中を預け、灰色のコンクリートに座り込む。
暖かいと感じつつも、再び顔を上に向けて、空をただただ無心に眺めた。
何分眺め続けただろうか……。
屋上の扉が開く音がした。誰かが来るのは珍しいと思い、そちらに視線を移す。
「しおくん……」
現れた人物は、決別した幼なじみ――姫川桜だった。
俺と話したそうにはしてたが、ここまで追いかけて来るなんてな。
あの別れに姫川は納得してないのか? 俺とは考え方が違うだろうから、そうなのかもしれない。
「……」
「何で無言なの? あたしはしおくんとお話したいことが、たくさんあるのに!」
姫川は屋上の扉を閉めると、俺の反応の無さに怒って声を張り上げる。
俺は話したいとはあまり思えない。
きちんと終止符を打ったんだ。今さら迷いを生じさせる真似をしてほしくない。
そんな俺の心中など露ほども知らず、姫川はスタスタと近寄ってくる。
目の前まで来ると、座っている俺に目線を合わせるかのように、スカートを押さえながらしゃがみ込んだ。
この距離じゃ、流石にスルーは無理だよな。俺はそこまで図太い神経をしていない。
「……どうしたんだ?」
「良かった~。話してくれ――」
「姫川」
会話に参加したことで、姫川が安心しようとした時、俺は小さな爆弾を落とした。
名前で桜と呼ばないのは、決別の証だ。俺なりのな。
例え姫川が納得してなくとも、俺は自己完結してしまっている。
「えっ?」
俺に苗字で呼ばれたことが余程衝撃だったのか、桜からは戸惑いの声が零れていた。
「な、何でいつもみたいに桜って呼んでくれないの……?」
四日前のことをもう忘れたのか? あれは幻でも夢でもない。紛れもなく俺たちの歩む道が別れた、否定しようもない現実なんだ。
「俺たちがさ、今どんな関係なのか正しく把握しているのか?」
「質問を質問で返さないで! はぐらかそうとしてるの?」
姫川は頬をフグのように膨らませて、怒ってるアピールをしている。
「はぐらかそうとはしてない。今の関係は、ただのクラスメイトの一人だ。それなら苗字で呼べば十分のはず……だろ?」
「ち、違うよ! ちょっと喧嘩したかもしれないけど、話し合って仲直りしたら、また前みたいに幼なじみに戻るもん!」
溜め息を吐きたくなってしまう。あの出来事を本気でただの喧嘩だと思ってるみたいだ。
ここで見解の相違が発生するとはな。
もう少し、じっくりと話し合うべきだったのかもしれない。
今回はこれまでのような『喧嘩』という枠組みではない。お互いが枷にならない為のちゃんとした終わり方なんだ。
「ごめんな。分かりにくかったか? それなら、ハッキリ言うよ。今の俺たちは幼なじみを続けるべきではない」
俺の言ったことが心に響いたのか、目尻に涙をためる姫川。
涙を流すのだけは、勘弁してほしいかな。
俺は冷徹無慈悲の鉄仮面野郎じゃない。そんな目をされたら、多少はぐらつくことだってある。
小さい頃に泣いていた姫川を慰めたことだってあるんだ。
その頃と重ねてしまえば、勝手に心がざわめいてしまう。
「な、何で……そんな……意地悪言うの……。あたしのこと嫌いになっちゃったの……?」
未来はとうとう涙を流し始めた。そんなに幼なじみの関係を続けたいのか?
執着されるほどの価値なんて俺にはない。
もしかして、彼氏と別れたのもあの出来事の所為か? いや――それはないか……。なんせ俺は振られている。
優先順位としては、下回ってるはずだ。
「嫌いじゃないよ。一緒に歩んだ月日は長い。でもさ、俺たちの現状はあまり芳しくない。こうやってお互いに悪影響を及ぼし始めた。現に今、姫川は泣いている」
「それは……でも!」
人には気持ちのズレがある。俺たちも例に漏れずだ。
俺たちには一度亀裂が入ってしまった。それを修復するのは容易なことではない。
「それよりも、姫川はどうして別れたんだ。一週間という短期で別れたんだから、それなりの理由があるんだろ?」
俺の場合は一定の条件下で気持ちが冷めやすいから、恋愛感情を短期間で消せるタイプだ。
それと同じで、姫川にも何か別れるべくして別れた理由があると思う。
「しおくん以外の男の子との会話は新鮮で楽しかったし、部活で活躍してる姿なんかも、格好良いなぁって思ってたの。気がついたら好きになってて、そんな時に告白されたから、嬉しくて付き合ったんだけど。……でも、でも、分からなくなったの」
「分からない?」
心の迷い?
新しい刺激に惑わされた?
どちらにしても姫川の自業自得に変わりはない。
ただ、経験してない俺は偉そうに説教とかはできそうにない。
「付き合っても、あまり楽しさが感じられなかったの……。最初はこんな感じなのかなって思ったよ。でも、好きな人にキスされたはずなのに全然嬉しくなかった」
姫川は視線を下に向けた。自分の気持ちに困惑しているように見える。
確か公園でも言ってたから、悩んでたってことは少しだけ理解した。
これが、付き合ってから初めて分かる苦悩なのだろう。
「しおくんといる時の方がずっと楽しいって、改めて感じさせられたの。それからしおくんと話したくなって、久しぶりに一緒に帰れたのに、公園で喧嘩になっちゃうし……」
それは仕方ないだろう……。
俺も姫川から見たら突き放してる部分はあったのかもしれないが、適してない相談内容とデリカシーの無さが際立ち過ぎていたのだから。
「教室でしおくんを見てたら、前まではあたしだけだったのに、今は他の女の子たちと楽しそうに話してたりして、それを見たら心の奥がモヤモヤしてきたの。和くんにはそんな気持ち一度も抱かなかったのに……」
おいおい……ちょっと待ってくれよ。その話じゃまるで、俺のことを好きみたいじゃないか。
……だとしたら、今さら過ぎる。
俺は姫川から視線を外し、天を仰ぎながら口を開く。
「なぁ、長々と話してるけど、姫川は結局どうしたいんだ……?」
「……だから、だから今から確かめるの」
確かめる……?
何を? それに今からって。
姫川は何を言ってるん――
「……?」
疑問を感じて、姫川に顔を向けた瞬間――何か柔らかいものが唇に……触れて、る?
――こ、これってまさか!?
「――ぅむーー!?」
驚くほど柔らかなマシュマロのような唇が、俺の唇と触れ合っていた。
一瞬意味が分からなくて固まっていたのだが、そんなのお構いなしとばかりに、啄むようなキスが続けられていく。
何なのこれ? これって一体何? どうして突然こんな……。
俺はようやく自分に起きてる現状を理解する。
こりゃない、こりゃないよ姫川……。流石に強引だし、ぶっとびすぎだよ。
こんなムードもへったくれもないのが、俺の一度きりのファーストキスなのか……。
…………というか長い、長いよ姫川。いつまでしてるの?
俺はここでようやく現実逃避から戻ってきて、首を横に振って抵抗を試みた。すると少し唇から解放される。
「おい……何してるんだよ? お前を突き飛ばして怪我させたくはない。だから早く離れてくれ」
俺はまったく動揺を顔に出さず、冷たい声音で姫川に言い放つ。
だが、姫川の行動は予想の範疇を突破した。
「やっぱり、しおくんは優しいね……好き」
俺の態度が姫川の何かを逆効果に刺激したのか、先程よりも更に強くホールドしてきたのだ。
もちろん唇も戻された。
啄むようなキスが強く激しいキスに昇華した。テクニックも何もないただの力技である。
これは犬、これは猫、これは犬、これは猫。俺は姫川を変に意識するのも嫌だったので、動物に舐められてるのだと、必死に置き換えていた。
あまりにも姫川……動物がしつこいので、本当に怪我させてでも離れようかと思った時だ。
ある程度満足してきたのか、力が弱まったので、その瞬間を狙って、最小限の力で脱け出した。
新鮮な空気を吸って、息を整えた俺は、湿った唇をシャツの袖で拭った。
そして、明後日の方向に目を向け、感情薄めに口を開く。
「これはない、これはないわー」
「やっぱりだ……」
何かを呟く声が耳に入ってきたので、視線を姫川に戻した。
妙に満足した妖艶な顔をしてるが、積極的過ぎるだろ……。
誰でも良い。俺をこの状況から救ってけれー。
「嬉しい……」
なん……だと。とろんとした濡れた瞳で俺を見つめながら、そう言った。
「はあ?」
無理矢理キスした後に、本人を目の前にしてその言葉を発するとか、度胸どうなってんだよ……。
メンタル強度ナンバーワンを誇るなんて初めて知ったぞ。
「和くん――永井くんには、ここまでしたいなんて一ミリも思わなかったのに。あたし……しおくんのことが好きみたい。大好きみたい!」
姫川の表情は陰りが消え失せたかのように晴れやかだった。しかし――皮肉なことに俺の心境と重なる部分が何もない。
「うん。まあ、そうだよね。ここまでされたら流石に気づくよ」
だからって、キスするのはちょっとどうなの?
姫川はキス経験者かもしれないけどさ、俺は何の覚悟も準備もしてないのに、気づいたら無許可のまま初キスを消失。
おかしいよなー。俺の理想は、彼女とムードの最高な場所で、どちらからともなく徐々に近づいてそのまま――って感じだったんだけど。
そんなのは所詮夢見る世界だったんですね。
「俺は幻滅だけど。キスはお互い好きな人とするのが俺の常識だったからさ」
「二週間前までは、あたしのこと好きだったよね。なら大丈夫だよ。それといい加減名前で呼んで!」
何が大丈夫やねん。わけわからんばい。どうしてそうなるとー。姫川のあまりに滅茶苦茶な発言に動揺して、知ってる方言を心中で言ってしまう。
「絶対嫌だ。姫川」
「むぅー」
むくれたって無駄だ。過去の俺に言ってやりたいよ――姫川は取り扱い注意だと。
じーっと俺を見つめ続ける姫川。これが無言の圧力か。
まさか俺が折れるまで、ずっと居座る気か?
…………しょうがない。
「……わかったよ。後で呼んでやるから教室に戻れ」
「本当に! じゃあ戻るね。またね、しおくん!」
まあ、呼ばないけどな。小さな仕返しだよ。今日は枕を涙で濡らすかもしれない……。いや――泣かないけどさ。
怒涛の展開過ぎて、俺はもう疲れました。
今この場は、大きな嵐が去った後のような静けさで支配されている。
俺は最初に屋上に来た時の静けさと、現在の姫川が去った後の静けさでは、明らかに違うと感じていた。
ただ、今の精一杯な気持ちを、最後に一言で表すならば、
「どうしてこうなった……?」