幼なじみと決別した日
俺と桜は、校門を出て帰路に就いている。
俺はてっきり近くの公園辺りで話すと思っていたのだが……。
「話す場所は、しおくんのお家で良いよね?」
当然だよね? とばかりに桜が隣から訊いてくるが、俺からしたら都合が悪い。
未来が桜のことを前以上に毛嫌いしてるのもあって、今はホントに駄目なのだ。というか無理?
昔から苦手意識があったようだけど、最近はそれがより顕著になってる。
わざわざ未来の機嫌を悪くしてまで連れていくのは無用な軋轢を生むし、彼氏持ちの同級生を家に招くとかリスクしかない。
恋人っていうのは、仲が良い異性――特に幼なじみという存在をよく思わない傾向にあるという。
付き合いの長さで作られたアドバンテージや、仲良さげな雰囲気に危機感や嫉妬心などを感じるらしい。
何も言わないタイプなら良いのだが、よく思わないタイプなら冗談抜きで後々面倒なのだ。
よって、俺の家という選択肢は天地がひっくり返ってもあり得ない。
「彼氏持ちが他の男の家に行くのはアウト。桜の彼氏は優しいのかもしれないが、流石に許容しないだろう。そしたら、きっと家に入れた俺にも絡んでくる。公園で話すことは決定事項だ。却下するならこのまま解散するしかないぞ」
納得いかないという顔をする桜だが、俺が折れないと分かったらしく渋々頷いた。
恋人はある意味鎖だ。色々なことに縛られる。
それが無理な奴は別れるし、不誠実な奴は浮気や不倫をする。
許可なしで恋人持ちが異性の家に行くなんて、御法度中の御法度だ。
自ら浮気を疑ってくださいと言ってるレベル。関係が拗れる可能性が高い。
例えるなら、芸能界で話題となったアホ過ぎる手口――部屋に相手を連れ込む。という手法で、不倫がバレる考えなしの芸能人くらい浅はかだ。
万が一にでも、第三者の俺を恋愛のゴタゴタに巻き込む――なんてことはナンセンスだよ。
そうして話すこと数分、公園に到着。滑り台、砂場、ブランコ、鉄棒、ベンチ、次々と視界に入ってくる。
俺たちは遊びに来たわけではないので、そのまま木製のベンチに直行して腰掛けた。
「それで、俺に話したいことって?」
俺は右足を上にするように組んで、単刀直入に話を切り出した。
「あ、あのね。あたし和くんと日曜日にキスしたんだ。それでね、特になんとも思わなかったから、おかしいのかなぁって……」
桜は戸惑いがちに言って、苦笑いしている。
俺は自然に「――は?」と口に出していた。一瞬耳がバグったのかと思ったが、いつも通り正常のままだ。
苦笑いするのは俺の方だよ。
間違っても俺に相談する内容ではない。
俺は完全に異性という枠組みから除外されてるみたいだ。
残っていた未練や恋心が、冷水でも浴びせられたかのように冷めていくのが分かった。
想いは長くても、冷めるのは早い。しかもこんなに唐突に訪れるんだな。
自分では、もっと未練たらたらな性格だと思ってたんだけどなぁ。
新たな自分の一面を発見したみたいだ。
「は? じゃないよ。桜は真剣なんだからね~」
間延びした口調でそう言う桜は、ぷくぅと頬を膨らませた。
真剣なのは良いけど、相談相手を百八十度間違えてる。俺ほどこの場面でその相談が対極な相手はいないだろう。
「そんなの俺に知る由もない。俺は未経験だ。桜自身でとことん考えるか、恋人がいる友達に訊いた方がよっぽど参考になるぞ。もしくは恥を忍んで両親とかな」
「そ、そっか。まだ……だったんだよね。じゃあさ、あたしとしてみる?」
何故か嬉しそうに、それでいてからかい口調でアホなことを言ってきた。
「……良いぞ」
「え?」
面白いほど間の抜けた返事だな。冗談には真剣な雰囲気の冗談でお返しだ。
「って言ったらどうしたんだ?」
「な、なーんちゃって。冗談だよ、冗談……あははは。だ、だから、どうもしないよ……」
その割に、随分動揺してるな。
俺にからかい返されたことが、そんなに意外だったのか。
「そっか。分かってたよ。そんで、他には何もないのか? くだらない冗談言ってる暇があるなら、早く帰って友達にでも電話して、疑問解消した方が得策だぞ」
初恋だった相手のキス談義はうんざりだ。
俺の気持ちが冷めようと冷めまいと、聞きたい部類の話ではない。
「むっ、なにその投げやりな言い方。少し冷たくない? あたしに振られたからって当たらなくてもいいじゃんか」
言った、言ったよ。ついに言っちゃったよ。
むすっとした顔で、怒った風な感じで言ってきたけど、俺はほとほと呆れたよ。
もう冷めたとか関係ない。振った本人に直接言われると、威力が段違い過ぎる。
グサッの比じゃない。グサグサグサグサッと精神に突き刺さった。
「……これが普通だよ。平常運転。別に当たってないから、まだ話すことあるなら続けてよ」
普通は普通でも、恋のフィルターが取り除かれた場合の普通だけど。
前の俺と今の俺とが違うなら、たぶんそこの変化だよ。
「そんなもんかな~。あのね、もう一つ聞きたかったんだけどね、何で先週香山さんたちと一緒に帰ってたの……?」
見られてたのか……。
だからって何の問題もないな。
桜の言葉がこの前まで見てたドラマの、浮気を問い詰める彼女のセリフと似てたから、少し既視感を覚えたけど。
そもそも俺が他の女の子と帰ることに疑問なんて必要か?
心なしか少し面白くなさそうな顔してるし。
桜には無関係なことだよな。
「それって、桜に話す必要あるか?」
「良いから答えて!」
突然大きな声出すなよ……。肩がビクッとしたんだが。
「……未来がアリアさんの妹と友達だから、紹介も兼ねて一緒に下校したんだよ」
「――えっ!? 何でもう名前で呼んでるの? まだ出会って少ししか経ってないんでしょ。そんなのおかしいよ!」
桜は少し取り乱すかのように詰め寄りながら、何故か怒り出した。
桜にそこまで言われる筋合いはないのだが。しかもその反応って、彼氏の浮気が発覚して詰め寄る時にするやつだろ。
何で俺にそんな反応を? 相手が違うよ相手が。
今さら幼なじみに独占欲持ってどうする。
誰も得しない。せいぜい彼氏が嫉妬の炎に抱かれるだけだぞ。
「許可をくれたからだ。アリアさんとは前から面識もあるし。だいたい桜だって彼氏と付き合い始めたばかりなのに名前で呼んでるじゃないか。それと何の違いがあるんだ?」
「面識って……あたしそんなの一度だって聞いたことないよ! それと間もなくても、和くんとあたしは付き合ってるから良いんだよ!」
何をそんなに怒ってるんだ? 交遊関係のことまで桜に指示される謂れはない。
「暴論が過ぎるぞ……。何がそんなに気に入らないんだよ。俺がアリアさんと付き合えばそれで満足するのか?」
詰め寄る桜の肩を押し返すことで距離を離す。
友達だって名前で呼び合うし、おかしなことでもないだろ。
「そんなのダメに決まってるじゃん!」
再び詰め寄り、小さめな手で俺の肩を掴んで揺さぶってくるので、軽めに振り払う。
「俺だって桜と永井が面識あるなんて最近まで知らなかった。桜にプライベートがあるように俺にもあるんだ。不満を持つところが変だぞ。自分でもそう思わないか?」
「それは……そうだけど」
桜は俺に正論で返され、あからさまに勢いが落ちた。
本当にどうしたんだ。桜の気持ちが読めない。
感情だけが前へ前へと先走ってるように見える。
少し情緒不安定気味じゃないか。
「俺は桜のお人形さんじゃないんだぞ。交遊関係は自由だ。桜は俺を振ったんだから尚更だろうに。口出しするのは少し傲慢じゃないか?」
「……」
どうしてこんな雰囲気悪くなる言い合いになるんだか。
これまで一度だってここまで意見が噛み合わなかったことはない。
桜が感情を乱すのはおそらく俺の所為。
理由は分からない。だけど、このままじゃ俺たちは今以上にお互いを傷つけ合う気がする。
今が別々の道へ進む時なのかもしれない。
「もうさ、幼なじみとしての関係を終わらせて、距離を置かないか……?」
俺はベンチから立ち上がると、手を握り締めて苦渋の提案をした。
桜はこの言葉に目を大きく見開き、口を開けて驚愕している。
「ど、どうしてそうなるの? あたしは嫌だよそんなの!」
「嫌……か。でも俺たちさ、お互いをまったく尊重できてないよ」
思えば、俺が告白して振られた時から、順調に回っていた歯車が狂い始めた。
もし、桜のことを好きにならなければ、俺たちは今でも良好な関係を続けられたかもしれない。
いや、無理か……。結局俺は、俺たちは恋愛関係で拗れる運命だった。
でも、好きになったことは後悔しない。してはいけない。
この六年間の想いを後悔したなら、過去の俺を否定することに繋がる。それだけは嫌だから。
「そんなこと――」
「二回」
「え?」
「この公園に到着してからの会話中に、桜が俺をデリカシーのない言葉で傷つけた回数だ」
「傷つけた……?」
ほら、わかっていない。
目をパチクリさせてるもんな。
「一つ目はキスの話。二つ目は振られたって事実を振った本人が俺に言ったこと。親しき仲にも礼儀あり。何か反論あるか? あるなら遠慮せずにバンバン言ってくれ。正当性があるのなら、俺も非を認めて謝罪する」
「……」
桜は視線を下の方に向け、スカートを握りながら下唇を軽く噛んでいる。
また黙りか。
自覚してくれたのなら、今後の桜の為にもなるだろう。
「俺自身も桜にそんなこと言われたら、尊重する気も徐々になくなっていた。ここで終わらせてさ、楽しかった思い出のまま、綺麗にここで別れるのもひとつの手段だと俺は思う」
「そんなの絶対に嫌だよ! 謝るから! 悪いところも改善するから! だから……」
俺にすがり付くように掴み掛かってくる桜の両手を掴んだ。
そんな悲しみを宿した瞳で見つめないでくれ。
別れのセリフを呑み込んでしまいそうになる。
でも、言わなければならない。ここしかない気がするから。
「桜……ごめん。それは聞けないや。これからは彼氏との時間を大切に日々を過ごしてくれ。……どうしてもこの日を思い出して泣きそうになったり、寂しくなったりすれば、楽しかった頃の思い出に浸れば良い」
俺は一区切りし、涙腺が緩みそうなのを強い意思で引き締め、数秒後に話を再開する。
「そして気が済んだらまた前に進もう。俺もそうするから。…………好きだったよ。俺をちゃんと振ってくれてありがとう。未練を残さずに済んだ。今まで楽しかったよ。さようなら……」
俺がゆっくりと桜の両手を離すと、桜は地面にへたり込んだ。
桜の泣く声が耳に届くが、振り向かない。
振り向いたら見えない引力に連れ戻されて、結局そのままずるずる引き摺られ、後戻りが選択不可能になりそうだから……。
帰り道、俺は涙が止まらなかった。
ハンカチで拭いても拭いても途切れることなく、意思に反して流れてくる。
止まらないその涙は、まるで梅雨に降り続く雨のようだった。
「お兄ちゃん、ただい――」
涙を流し、目元が赤くなった俺を出迎えてくれた未来は、俺の様子を見て慌てていた。
「お、お兄ちゃんどうしたの!? 大丈夫なの?」
玄関に座り込んだ俺に、未来は急いで駆け寄ってきてくれた。
「ごめんな。心配させてしまって……」
「気にしないで。わたしがお兄ちゃんを放っておけないの」
未来は俺の背中を細く綺麗な手で撫でてくれている。
優しさが胸に染み渡る。こんな情けない兄を慰めてくれてありがとう。
明日には元に戻るから……。
この日は、俺が落ち着くまで、側に未来がいてくれた。時には頭を撫でてくれたり、時には抱きしめられたりした。
兄妹の立場が完全に逆転していて、後に居たたまれない感情に襲われることを、この時の俺はまだ知らない。