姫川桜は見ていた
「嘘嘘嘘嘘嘘。嘘に決まってる! きっとあれは幻聴だよ!」
道行く人々が何事かと見てくるけど、そんなの関係ないと、あたしは一目散に走っていた。
少し強い風で髪は乱れ、目は潤んで視界が少しボヤけていた。
それでも息を切らしながら、無我夢中で走り続ける。
どうしてこんなに胸が締めつけられるほど痛いのかな?
どうしてあたしはこんな気持ちに……?
あたしは、あたしはただ! しおくんのことが好きなだけなのに!!
屋上に行くしおくんと永井くんを見かけて、気になって後を追いかけてみれば、二人の話し声が聞こえてきた――あたしについての。
途中の会話からだったし、ほんの一部分だけだったけど、ハッキリとあたしの耳には届いた。
しおくんが放った言葉が……。
あれがしおくんの本心なの……?
おかしいよね。しおくんがあたしを全然好きじゃないなんて。だって告白までされたんだよ。幼なじみなんだよ。
あたしにとってあんなにも残酷な言葉、聞こえてくるわけないのに。
なら、どうしてあの場所から逃げたの。
心のどこかでは当然だと思ってたから……?
こんなの変だよ。おかしいよ。
小さい頃からずっと近くに、側にいた。泣いたり、笑ったり、喧嘩したり、色んな時間を共有してきたのに。
どうして今回だけはこんなにもつらいの? 隣にしおくんがいないの?
……ホントはわかってる。あたしが自分の好意に気づかなくて、しおくんを振るという間違いをしたのが悪いんだってこと。
永井くんを好きになったと勘違いしたあたしが悪いんだってことも。
それさえなければ今頃、あたしはしおくんと今も仲良く……うんうんう違う。きっと、今よりずっと楽しく仲良く過ごせてた。
こんなに心が離れるなんて。距離が遠いなんて。
「遠すぎるよぉ、しおくん……」
あたしはいつの間にか走るのをやめ、とぼとぼと下を向いて歩きながら、あふれ出る涙を袖で拭っていた。
遠ざかる背中。
一年生の頃までは、飛べば抱きつける距離だった背中が、今は追いつけないと錯覚するほど、途方もなく遠い。
でも、
でも、
でもでもでも! それでもあたしはやっぱり諦めたくない!
屈辱や二番目なんて感じさせないくらい幸せな気持ちにさせるから。今度の今度こそ絶対に間違えないから。
あたしをもう一度好きになってほしい。
その為にはどうしたら……。
「ただいま……」
気がつけばあたしは帰宅していた。
お母さんは買い物に行ってるのか、今は誰も家にいない。
こんな風に涙が流れるほど悲しい時は、いつだってしおくんを頼ってた。その度に心がポカポカと温かくなって安心する。
今考えたら、それこそがきっと初恋だったんだよね。好きって気持ちだったんだよね。
でも、今はその大好きなしおくんは頼れない。頼らせてくれない。
しおくんへの恋心を自覚するのが遅かった愚かなあたしの自業自得。
あたしは階段を重い足取りで上がると、自分の部屋に入った。
あたしの心の暗さを表すかのように、窓から見える空はどんよりとしている。
そんな世界をシャットアウトするかのようにカーテンを締め、ベッドに体育座りで顔をうずめた。
恋を自覚してから、自分の言動が度々暴走気味に表面化しちゃう。きっと、あたしは焦ってるんだ。
しおくんの周りに女の子が集まりだしたから。
特に未来ちゃんと香山さんの存在が大きい。彼女たちはとても魅力的だから。
あたしみたいに寄り道しないで、最初からしおくんに本岐の好意を寄せてる。あたしは自分の浅はかさがうらめしい。
もし、自分がもっと早くにしおくんの大切さに、好意に気づけていたなら、しおくんの隣はあたしだけのものだった。
「あたし、何てことしちゃったんだろ……」
バカだよ。ホントバカ。自ら幸せを放棄してたんだから。
あの告白された時に戻りたいよぉ。そしたらあたしは「よろしくお願いします。あたしもしおくんのこと大好きだよ。これからもよろしくね!」って幸せな笑みを浮かべることができるのに。
過去のあたしに会えたなら、あたしはいくらでも言うよ。あなたはしおくんが好きなんだって。
でも、戻ることはできないんだよね。
つらいね。
苦しいね。
しおくんと距離が離れることで、こんなにも、こんなにも……あたしは不安定になるんだ。
今さらしおくんを忘れることなんて無理。
溢れる想いを奥底に封印できないし、あまり抑制もできそうにないから。
小学三年生の頃、あたしが転けて擦りむいて泣いた時は、優しい言葉で慰めてくれたり、頭をたくさんなでなでしてくれた。歩けないあたしを「背中に乗りなよ」と言っておんぶしてくれた。あの温かな背中は今でも覚えてる。
中学一年生の頃、しおくんの家にお泊まりした時は、眠る前に突然雷雨が始まり、激しい雷が鳴り響いていたことがある。雷が苦手なあたしは、中学生だというのにしおくんを頼った。しおくんは、呆れたように溜め息を吐いて、しょうがないなという顔をしたけど「落ちつくまでは一緒に居るから」と言って安心をくれた。
次々にしおくんとの大切な思い出が浮かぶ。
あたしは悲しい気持ちと温かさを感じつつ、中学生の時に誕生日プレゼントとして、しおくんから貰った柔らかなクマのクッションを胸にギュッと抱きながら、丸まるように寝転がる。
思い出を噛みしめてたあたしだったが、唐突な眠気に誘われ、意識が徐々に薄れていった。
コンコンコン。
「桜、ご飯よ」
ドアをノックする音であたしの意識は少しずつ覚醒した。
いつの間にか、お母さんは帰ってきてたみたい。
どれくらい寝てたのかな。
「……反応がないわ。寝てるのかしら」
あたしは数回ほど目をこする。
このままじゃお母さんが入ってきちゃう。
今は誰とも会いたくないし、いっぱい泣いて目も赤いだろうから心配かけちゃうよ。
何か言わなきゃ。
「起きたばっかりで食欲ないから今は遠慮しとく」
「何かあったの? 声が少し暗いわよ」
演技でも声音を上げたいけど、無理みたい。
こんなに起きるのってしんどかったかな。
「何もないよ。寝起きでテンションが低いだけだから、心配しなくても平気」
「そう……。それなら良いわ。だけど、もし何かあったら相談するのよ?」
お母さんはあたしの声だけで勘づいてるんだ。
でも、詳しくは聞かないでくれてる。
今はその気遣いに感謝だね。
「うん、わかった。ありがとね」
「当たり前でしょ。娘なんだから」
お母さんは頼りになるなぁ。
でもまだ頼るわけにはいかない。
しおくんのことだけは自分で解決したいから。
「それじゃ、行くわね。お腹空いたら下りてきなさいよ。まだまだダイエットする時期には早いんだからね」
そう言い残すと、お母さんはスリッパの足音を鳴らしながら下へと戻った。
「お母さんにはわかっちゃうのか。ドアを挟んでるのにね。最後も和ませる為の冗談じみた言い方だったし。早く元気にならなきゃ」
でもやっぱり…………しおくんの存在って大きいなぁ。
あたしにはしおくんが必要不可欠だって、ホントの意味で理解させられた気がする。
このままの自分じゃ駄目だよね。少しでも変わらなきゃ。
その為には、一ヶ月後までに暴走しないように気持ちを静めて、少しでも良い印象をしおくんに見せないと。
まずは話し合って、仲良かった頃の幼なじみ関係に戻る。
段階を踏むようにして、少しずつ少しずつ意識をあたしに向けさせ、いずれは恋人に。
絶対に誰にもしおくんだけは渡さない。
未来ちゃんだろうと、香山さんだろうと、まだ見ぬ女の子だろうと、最後にしおくんと笑うのはあたしなんだから。
だけど、当分は暗い気持ちを引き摺りそう。
あそこまでハッキリと可能性が低いって言われたら、精神的に立ち直るまで時間かかるかも。
それでも諦めないって覚悟したからには、このまま弱気ではいられないんだけど。
しおくん、一ヶ月後を待っててね。
それまでに誰かと付き合うなんてことは……認めないよ?
しおくんの冷めやすい価値観を粉々に壊して、あたしに告白してきた時以上に惚れさせるんだから。
「そうと決まれば、まずは身だしなみを整えなきゃ」
あたしはベッドから起き上がると、鞄の中に入れてたスマホを取り出し、美容院と薄めの化粧について調べることにした。




