登校中の出来事
昨日だけで、一週間分は過ぎたような時間を体感している。実際にはまだ一日も経過してないんだよな~。それだけ濃い一日だったってことなんだろうけどさ。
俺は土曜の早朝ランニグ中にそんなことを思っていた。
春という季節もあって辺りはまだ暗いが、涼しい風が吹いているのでとても走りやすい。
この暗闇を照らす薄明までには、もう少し時間が掛かることだろう。
自宅からほど近い陸上競技場の土トラックで、一定スピードを維持して走り続け、今は七周目。
この一周四百メートルトラックを貸し切り状態なのは、日が高くなる夏以外では当たり前のことだ。
年配者よりも朝の始まりが早い俺は、まさに早起きは三文の得を実践してるのだが、何か得をしているのだろうか。
自分の土を踏み蹴る足音と息づかいのみが、この静まり返った競技場に響き渡るけど、呼吸の乱れはあまりない。
ランニングが毎朝のサイクルと化して、四年くらいは経っているからだ。
昔から運動センスの良かった俺は、体力がないことを問題視していた。運動ができても途中からバテたら格好悪いよな――そう単純に思ったのが切っ掛けで始めたのがランニングだ。
今では走らなければ少し落ち着かないほど、ハマってしまったが。
部活と違い、時間的束縛がそこまで長くないことこそ、これまで継続できてる理由だ。
練習ってなると、どうしても自分の中では義務や強制というのを強く感じてしまい、自由に運動したい派の俺にはイマイチ向かないんだよなぁ。
そこら辺は人の感性次第なんだろうけど。
でも実際、本気で部活に取り組む人は格好良いとは思うが、大変でもありそうだ。
自分の時間があまり確保できない上に、結果が実らなければ、時間を費やした分だけ悔しい思いもするのだから。精神的には大きく成長しそうだけど。
にしても、ぶっちゃけ言ってしまえば、部活を引退した後が一番の問題なんだよな……きっと。
何故なら、時間の拘束から解放された反動で、運動しなくなる人が増えるからだ。必死の思いで培った技術と体力は、下降の一途を辿り、その後は現役との差を徐々に感じていくという現実が待つ。
何もしなければ衰えていく一方だ。特にスポーツ系統の部活は尚更。月日の経過は非情で残酷――今年は何人それを痛感するのだろうか。
身体能力が落ちても人間はすぐに順応するが、衰えるのは実に悲しいことだよな。
きついきつい練習をこなして、時間を多く費やすのに、何もしなければ衰えるのは何倍も早い。
あれ? 改めて考えると物凄く理不尽に感じる。
ゲームみたいなレベル制なら、ステータスは下がらないし、衰えることはないのに。そうなればデメリットとして、弱肉強食みたいに死ぬまでどの業界も殺伐としそうだけどさ。
まあ、部活をしない俺がごちゃごちゃ考えても仕方ないことだな。
気づけば、競技場のトラックを走り出して、約一時間が経過しおり、俺は軽くストレッチをしてから帰宅した。
まず、帰ったらシャワーをささっと浴びる。
その後、時刻を確認するとまだ五時半だった。ベッドに寝転んで二度寝の準備をする。
今日は休日で、いつも以上に惰眠を貪れる日だ。
ということなので、おやすみ~。
休日の土日はあっという間に過ぎ去り、今日からまた平日が始まった。
今さっき俺は未来と自宅を出たばかりである。
天気は晴れやかな青空で、絶好の徒歩登校日和。
今日は珍しいことに少しの間、無言で肩を並べて歩いていたのだが、突如未来に呼ばれた。
「お兄ちゃん」
「ん?」
俺は歩みを止めずに、前を向いていた顔を隣の未来に向ける。
「手、繋ご?」
俺が顔を向けて目を合わせると、未来は可愛らしくコテンと首を傾け、そう言った。
まじで可愛い……可愛いのだが「急にどうしたんだ?」と俺は未来に問う。
今まで手を繋ぐという行為は、兄妹のスキンシップとしてごくごく自然に行われてきた。
だからか、改めて口に出されて言われると、不思議な感じがする。
「わたし、まずはお兄ちゃんにちょっとずつ意識してもらうことから始めようと思うんだ。昨日考えたんだけどね、このままじゃわたし、ずっと義妹のままの認識で終わっちゃう気がするの……」
沈んだ声で話す未来の表情は、少し曇っている。
「未来……そんなこと――」
俺は反論しようとしたが、真剣な目をした未来に遮られた。
「あるよね? 贅沢かもしれないけど、可愛がられてばかりな妹のままは嫌なの。異性として本気で好きだから。わたしも異性として意識されたい。その一歩として、妹としてじゃなくて一人の女の子として、手を繋ぎたい。だめ……かな?」
確かに思い当たる節はある。昨日の時点で、俺がこれから好きになるかは別だが、告白されたこともあり、二人のことは意識してるつもりだった。
でも、心のどこかで未来に関しては、義理であろうとも妹だ、っていうストッパーのような気持ちが少なからず働いていたのかもしれない。
しかし、本当に未来のことを異性としてまったく意識してないのか? と問われれば、それもまた違う。
着実に女性的な成長を遂げている未来に密着されれば、意識してしまうことだって無きにしもあらずって感じだ。
おそらくだが、妹だと認識してる反面、義理ってことを昔から知ってるのが結構強い。
要するに俺は、未来を意識しようかしまいかで日頃から無意識的に葛藤しているのだろう。まあ、あまり気にしなくても、この先ハッキリしていくとは思ってる。
「わかった」
取り敢えず、不安そうな表情で、手を差し出している未来に承諾した。
「良かった……」
未来は小さく息を吐き、安堵の表情になる。
「ただし……校門までだぞ?」
俺は未来に条件を付け加えてから、未来に差し出された小さめな手を、包み込むように優しく繋ぐ。
世間体は正直どうでも良いが、無用なトラブルを起こす必要もない。義理の妹が兄に恋愛感情を抱くことに対して、煩い奴は煩いからな。
校門まで手を繋ぐだけなら、ただのブラコンシスコンだと思われるはずだ。
万が一、俺を好きなことだけで未来を傷つけるような奴が現れたら……キル――おっと、これ以上はいけないな。まあ、流石に冗談だが、無事では済ませんよ。
「うん!」
未来は晴れたような笑顔で、良い返事をすると、繋いだ手をぎゅっと握ってきた。
やっぱり可愛い……。俺が未来を異性として本格的に意識するかは別として、妹として可愛いと思うのは止められないな。
しかし、思いを伝えられてから手を繋ぐと、妙に照れくさい気持ちにもなる。
それから少しの間、未来と仲良く雑談してたら、公園の前を通り過ぎようとしたところで、聞き慣れているが、今はあまり関わりたいとは思わない声の主に呼び止められた。
「おーい。しおくん、未来ちゃん」
俺は小さく溜め息を吐き、渋々立ち止まる。未来は尚も現在進行形で進もうとしているが、俺が止まったことで、手を繋いだまま足だけ動いているという奇妙な状態になっていた。
そんなに嫌か、未来よ……。俺より何倍も嫌悪してたんだな。
かく言う俺自身も、一瞬無視してそのまま行こうと思ったが、どうせ追いつかれるか、更に大きな声で呼び止められてしまう――という結果が予想できたので、大人しく対応するのが一番と判断した。
未来が抵抗を諦めたので、一緒に振り向く。未来は姫川の姿を視界に映すと、繋いでる俺の右手を強く握り締める。
俺は少し驚き、未来に視線を向けたら、いつの間にか先程まで浮かべていた笑みが、能面のように無表情となっていた。心なしか不機嫌そうにも見えるが。
「……何か用でもあるのか?」
茶髪のセミロングの髪を靡かせながら、姫川が俺たちの前まで駆け寄って立ち止まると、俺は単刀直入に声のトーンを少し落として訊いた。
「一緒に学校行こう?」
姫川は昨日のことを何も気にしてないのか、普通に笑みを浮かべている。
なんて図太い性格してるんだ……。昨日俺にあんな真似をしておいてよく堂々と誘ってこれたな。いや――もしかしたらあれで仲直りしたと思ってるのか?
仲直りのちゅー的な? 俺は姫川の恋人じゃないから、もしそうだとしても困惑するだけだぞ。
「お兄ちゃんとわたしは、兄妹水入らずで登校してるので遠慮してください」
俺がどう対応しようかと考えていたら、先に未来が棘のある言い方で、姫川との登校に拒否を示していた。
「別に一緒に登校するくらい良いじゃん。未来ちゃんこそ妹なんだから遠慮したら?」
断られるとは思ってなかったのか、姫川は未来の物言いに少しカチンと来たようで、応戦し始める。
俺はしばらくの間、傍観を決め込むことにした。
今無理に割って入るより、話を聞いた後の方が対応しやすいと思う。
「は? 意味わかりません。お兄ちゃんに構ってる暇があるなら、元彼さんとよりを戻したらどうですか? あなたにお似合いなのはそっちの方ですよ」
「あたしはしおくんが好きなんだから!」
姫川には今一番持ち出されたくない内容を未来はズバズバと言い放ち、それに対して姫川は声を荒らげる。
「それって都合良すぎですよね? 付き合ってみてやっぱり違ったから別れる。それは別に構いませんけど、仮にもあなたは一度お兄ちゃんを振ったんですよ。好意に気づいたからってアプローチするの早すぎませんかね。自分の行動に反省の意を込めて少しは期間を設けたらどうですか?」
未来は姫川の怒気なんて気にも留めず、淡々と痛いところを突いていく。
「……確かにそうかもしれない。でも、そんな悠長なことしてたら、しおくん凄くモテるから誰かにとられちゃうもん!」
今の姫川の言い分は、未来からしたら酷く身勝手なものに映ってるはずだ。
未来は俺のことを随分前から好きで、やっと蓋をしてた気持ちを最近になって解放した。それはつまり、これまでは姫川となら俺が幸せになると思ってたからだ。
でも姫川は他の男と付き合った。だからこそ、未来には許容できないし、言葉も厳しめになっているのだろう。
「そんなこと知りません。全部あなたの都合です。お兄ちゃんはもうあなたを好きではないんです。何にしても、今のままのあなたじゃ逆立ちしたってお兄ちゃんには好かれないですけどね」
「何で未来ちゃんにそんなことわかるの……」
未来の言ったことに納得できない姫川は、訝しげな顔をした。
「さあ、何ででしょうね。自分で考えてください。お兄ちゃん行こ?」
もうあなたと話すことはありません、とばかりに突如未来は姫川との会話を切り、俺の手を引いて学校の方向に向き直り、歩き始める。
傍観に徹していた俺は、会話を挟む前に行動を起こされたので、予想外の展開に何とか「お、おう」と答えるのが精一杯だった。
「ちょっと待ってよ」
しかし、姫川も黙ってはおらず、そうは問屋が卸さない。
早歩きで回り込んで、俺たちの歩みを再び止めに入る。
「いい加減しつこいですよ。あなたの恋の出番は終わったんです。逃した魚は戻ってきませんので、引っ込んでてください」
苛立たしげな未来は、早口で捲し立てる。
「そんなの納得できない。それより、ず~っと気になってたんだけど、大体なんでしおくんと手を繋いでるの?」
「あなたには答える筋合いありません」
にべもなく、未来は姫川に取り合おうとしない。挙げ句の果てにはそっぽまで向く始末だ。
「う~。じゃあしおくんが答えてよ」
姫川は小さく唸ると、今度は俺に標準を合わせてきた。
「それより姫川少し落ち着け」
「あー! また、姫川って呼んだ。桜って呼ぶって言ったのに」
姫川は責めるような目で俺を見てくる。
あ~確かに言ったな――追い返す為の口実として。
でも、ま、とぼけとくか。
「そんなこと言ったっけ?」
俺はあっけらかんとする。
「言ったよ! しおくんの嘘つき……」
良いぞ。もっと怒れ。俺への恋から冷めてくれれば尚良い。
俺が姫川のことを今後好きになる可能性は低い。
幼なじみとしての仲直りが目的なら兎も角、恋人関係になりたいと思ってるならそれは難しい。
俺の性格的に、一度冷めた恋が再燃するとは思えない。
「悪い。俺はこういう奴だ。俺のことは諦めた方が良い」
「――それだけは嫌!」
俺の意見は姫川にかなりの反応速度と勢いで拒否された。
このままじゃ埒が明かないな。
だらだらと平行線の話し合いを続けるくらいなら、妥協案を提示する方が良いか……。
決別の日にあんなセリフ吐いといて、あまり選択したくなかったけど、仕方ない。
「じゃあ提案するよ。これから一ヶ月は完全に俺と距離を空けてくれ。そして一ヶ月後に改めて話し合おう」
「え、どうして?」
この先、俺と姫川の関係がどうなるかを考える前に、距離を一度置くことはお互いにとって得策なんだ。離れることで見えてくることもあるだろう。
「別れた直後で俺のところにすぐ戻ってきたら外聞が悪すぎる。姫川が言ったように俺は最近モテ始めた。そんな時に彼氏を振って間もない姫川が来たらどうなるか分かるよな?」
姫川は容姿から男人気はあるし、クラスの女子とも表面上は良い関係を保てている。
しかし、女子は本当に予想できない。姫川を俺が見てない場所で責める可能性だって十分に考えられる。
一番良いのは、姫川が次の恋を探すことだが、それは話していて当分は無理っぽいと判断した。
それなら一時的に距離を空けるのが最善だ。
「しおくんはどうなると思うの……?」
顔色が少し悪いぞ。
あくまでも俺の口から聞きたいのか……。
「苛められる」
俺は濁しても意味がないので、ハッキリと言った。
姫川は息を呑む。
実はこの後に「……かもしれない」と続くが、それでは提案を受け入れない気がしたから、敢えて省いた。
「知ってるか? 学校では俺と姫川が幼なじみ同士で付き合うと思われてたらしいぞ」
「あたしも聞いたことある……。海田君とは今どうなってるの? みたいなことも、何回か訊かれたことあるよ……」
姫川が戸惑い気味に言う。
やはり人伝に知ってたか。
それなら話は早いな。
「他の生徒から見たら姫川は、永井と一度恋人同士になったことで、俺から離れたと思われてる可能性が高い。そんな時に、別れたばかりの姫川が急に現れて、俺と仲良い姿を性格の悪い一部の生徒が目撃したなら……」
「……」
姫川にとっては酷かもしれないが、可能性は大いにある。
一ヶ月でも短いのかもしれない。
もちろん杞憂の場合もあるし、それならそれで問題ない。
仮に、性格の悪い生徒がいたとしても、ほんの一握りなのだろうが、リスク回避の対策はしておくべきだろう。
「どうするにしても、一回冷却期間が必要なのは確かだ。俺の方だって正直、今の暴走気味な姫川とは話し合えない。一ヶ月後、もし冷静になれていたなら、幼なじみとして元の関係に戻ることも検討するよ」
俺は真剣な表情で姫川に言うと、最後に念押しで「……それで良いよな?」と諭すように優しく言った。
「うん……」
姫川は小さく頷く。
何とか納得してくれたな。
別に俺は姫川が嫌いなわけではない。恋愛的に再び好きになる可能性が低いだけで。暴走状態の姫川には正直ドン引きしたが、それがすべてじゃないことも知ってる。
だからこそ一ヶ月後次第では、幼なじみには戻っても良い。
「行こうか未来」
今度こそ会話を終えたら、俺から未来の手を引いた。
「そうだね……」
今の会話を見て、未来はどう思ったのだろうか。納得はしかねてるだろうな。
もしかしたら、幼なじみに戻っても良いと言ったのは早計だったのかもしれない。
しかし、あまり追い詰めてしまうと、後に姫川の精神にどんな悪影響を及ぼすかわからない。
現に一度暴走しているのだ。
人は希望なくして正常ではいられない。
ならば、一度幼なじみに戻ってから、徐々に俺への好意を冷めさせるのも、ひとつの手なのだろう。




